血と恋
人を好きになったのは、三百年ぶりだろうか。
吸血鬼にとって人間の女などただの血を吸うための食糧であり、従順な下僕であり、都合のいい奴隷である。なのに……もう恋などしないと誓ったのに。もう、あんな思いは二度と……それなのになぜ。
「慎太郎……何……これ……?」
彼女のカスミに、血を吸う現場を見られてしまった。深夜、廃ビルの二階の暗がりでバレないように補給をしていたのだが。 僕はあらかた血を吸い終わった女の死体を地面に落とした。静寂と闇に包まれていた空間に、埃が舞い、月明かりが白く染めた。
「カスミ……なんでここにいる。僕の跡をつけてきたのか」
「最近、私に隠れてどこかに行くから、スマホの位置情報で……それで……」
彼女は動転していた。 殺人現場。僕の口の周りは血まみれ。普段は引っ込めている牙はむき出し。おまけに目は真っ赤。驚かない方がどうかしてる。
「ごめん」
「ごめんって、何? どういうこと!?」
「僕は、吸血鬼なんだ」
「は、はあ!?」
こうなったら全部話そう。
「たまに、血を吸わないといけないんだ。死んでしまうから。だから、浮気とかではないよ。ただの食事だ。君のことは裏切ってない。僕には君だけだ」
「浮気……? 何言ってんのよ。そんな問題じゃないでしょ!? 今、あんたは人を……!」
「ああ……そうだね。つまり、隠し事をしていてごめん。っていうこと。吸血鬼の僕の寿命は尽きない。見た目もずっとこのままで、これからも人の血を吸い続ける。未来は悲惨だし、子供だって望めない。いつか話してくれた君の理想の人生は歩めないんだ」
「な……」
カスミは僕の言葉の意味を理解するのに必死な様子だった。しばらくしてから、口を開く。
「それならなんで、私の血は吸わないの? なんで私に近づいたの?」
「……血を吸うと人間じゃなくなる。下僕と化してしまうんだ。今血を吸った女も、あと何時間かしたら蘇って、僕に付き従うようになる……」
「……私のことは、特別だったってこと?」
「……」
僕は顔をそむけた。
「そうだ。愛してしまったんだ」
「ひっ……」
カスミに、にじり寄った。じわりじわりと彼女は後退していき、やがてコンクリートの壁に背中をつけた。怖くなったのか、逃げようとする彼女の退路を、両手を壁に押し当てて塞いだ。
「やめてよ……。来ないで、人殺し! 化物……!」
声と肩を震わせながら彼女は言った。 胸が痛い。臓物が抉り取られるようだ。 カスミは怯えている。もう、あの愛しい眼差しは向けてくれそうにもない。 いくら僕が愛しても、結局は人と吸血鬼の壁は超えられない。 最後は、拒絶されるだけ。 だから恋なんてしたくなかったのに。生きていた時の人間としての本能が邪魔をする。彼女を……カスミを失いたくない。
このまま彼女を抱きしめ、その細く白い首筋に牙を立てれば、彼女は永遠に僕のものになる。意志も愛もない操り人形。忠実な下僕に。
それはカスミじゃない。僕が欲しかったのはそれじゃない。そんなものは欲しくない。僕の孤独を照らしてくれた彼女じゃない。僕が失言すれば、怒ったり、拗ねたり。なんでもない日に、思いもよらない愛をくれた彼女じゃない。三百年前もそうだった。あの時も拒絶に耐えかねて、最愛の女に牙を突き立てた。残ったのは虚無だけだった。虚しいだけだ。
だけど、彼女をここで逃がしたら、きっともう会えない。ずっと嫌われ、恐れられたままだ。
下僕にしても、離しても、同じこと。
それなら、三百年前とは違う結末がいい。彼女が幸せであれば、僕はそれで……。
「慎太郎……? 泣いてるの?」
彼女がふと、声をかけてきた。さっきまでの恐怖に染まった声じゃない。
僕は、泣いているのか。そうか。どうやら、僕の本心は……。
カスミ。カスミカスミカスミカスミカスミカスミカスミカスミカスミカスミ。その声、そのまなざし。僕を心配する、いつものカスミの、可憐で、愛おしい声。
離してなるものか。誰かに奪われるくらいならいっそ。たとえ、君がどうなろうとも。
「カスミーー」
僕は彼女の首筋に牙を突き立てた。
数時間後、従順な下僕と化したカスミが目を覚ました。
「慎太郎……様」
光を失った瞳で機械のように微笑みながら、彼女は僕に跪く。
カスミは永遠に僕のものになり、僕は永遠にカスミを失った。
もう、恋なんてしない。




