EP03 灯りの手前
端末を伏せる。
報告は終わったはずだった。なのに、胸の奥のざわつきだけが、まだ仕事の外へ出てこなかった。
カナからの連絡には折り返してある。遅くなることだけ伝え、時間だけ決めた。窓の外には見慣れた夜景がある。駅のある側も、遠い区画の灯りも、いつも通りだった。そのぶん、朝から胸の奥に引っかかっているものだけが妙に浮いて見えた。
席を立ち、本社を出て家へ向かう。帰り道、ふと後ろを振り返ると、奥の山がいつもより少し近い。こういう、気のせいで片づけたほうが早いものほど、妙に居座る。きれいに無視できるなら、とっくにそうしている。
高層棟のあいだを抜け、神社の前を通る。ホエモリの姿はもうなく、鳥居だけが夜の中に立っていた。もう引っ込んだのだろう。立ち止まる理由もなく、そのまま足を進める。
部屋に戻って上着を脱ぐ。ようやく肩の力が少し落ちた。このまま向かってもよかったが、今日のことはいったん仕事から切り離して考えたかった。まだ頭のどこかに展望塔のことが残っている。あの格好のままだと、そこから一歩も出られない気がした。
黒のシャツをかぶり、パンツを履く。手ぐしで髪だけ整えて部屋を出る。街は、さっきより一段夜の顔になっていた。高層棟の窓に残る灯りはまばらで、足元の明かりだけが低く続く。その向こうで、遠い区画の光がまだ細く動いている。
カフェは居住棟寄りにあった。観光客より、島の人間のほうが似合う店だった。
扉を開けると、深煎りの匂いがした。客は多くない。カウンターに一人、窓際に二人。奥の席に、赤茶の髪が見えた。
気づいたカナが、片手を上げる。
「遅い」
向かいに座る。カナも制服ではなかった。黒に近い短いブルゾンの下に、くすんだ赤がのぞく。火を細く引いたみたいなしなやかさが、そのまま形になったような線をしている。
「あんまりじろじろ見ないで」
「制服じゃないから珍しかっただけだ」
「感じ悪。そういう言い方しかできないの?」
カナは呆れたように笑って、ストローを指先で弾いた。
そのあともしばらく、話は先へ進まなかった。返そうと思えばすぐ返せる話ばかりなのに、会話はそこで切れない。カナがこういう回し方をするときは、まだ本題に触れたくないときだ。
やがてカナはグラスに手をかけたまま持ち上げず、縁を指でなぞった。氷の触れ合う小さな音だけが残る。
「……明日の昼、来てほしいんだよね」
「夜の本番じゃなくて、その前」
視線はグラスに落ちたままだった。
「全部を乗せるのは夜だけ。けど、入るところでずれるなら、昼のリハでもたぶん見える。そこを見てほしい」
それが本題だった。
カナはファントム・アーケードの夜演目を任されている。火を使うそのショーは、この区画の真ん中に置かれている演目だった。
見た目は悪くない。派手さもある。けれど、クライマックスへ入るところで少しだけ噛み合わなくなる。熱を上げる間と、灯りの流れと、自分が踏み込む一歩。どれも間違ってはいないはずなのに、いちばん揃ってほしい瞬間だけ重ならない。
見てほしいのは、結局そこだった。
すぐには返さなかった。明日の予定を頭の中でなぞる。ファントム・アーケード側の設備確認に合わせることもできる。それでも、簡単に頷くのは違う気がした。
演出から離れて長い。今の演出家が立っている場所に、半端な顔で口を出すのは座りが悪い。呼ばれたから行く、で済むほど軽い場所でもない。いま自分が言えることなんて、たかが知れている。離れた人間の勘なんて、当たっても外れても始末が悪い。
「……俺が見るのは、筋違いだろ」
カナは少しだけ呆れた顔をした。
「そのへんはもう話してある」
返ってきたのは、あまりにあっさりした声だった。
「担当の演出家にも先に言ってる。名前出したら、むしろ一度見てほしいくらいだって」
水を一口飲む。
そこまで段取りをつけた上で頼んでいるなら、断る理由も薄い。座りの悪さが消えるわけではない。ただ、それを理由に突っぱねるほどでもなかった。
「ちょうど明日は、ファントム・アーケードの設備も見に行く。そのついでなら、いい」
それを聞いて、カナの肩から少し力が抜けた。
「時間、あとで送る」
「昼過ぎなら外さない」
「設備優先でしょ」
「そうなったらな」
そこで会話は一度切れた。
グラスの中で氷が鳴る。カウンターの奥でカップが触れ合う音がして、遅い時間の店にだけある薄い静けさが戻ってきた。
カナはストローを指で遊ばせたまま、しばらく何も言わなかった。話したいことはもう話したのだろう。こっちも、今さら余計なことを足す気にはならない。
それでも、席を立つにはまだ少し早かった。
昔のことを、ふと思い出す。
島の中で回していた、小さな催しだった。季節ごとに子どもを集めて、広場に簡単な舞台を組んでいたころの話だ。カナは出演側にいて、自分は演出補助の手伝いに回っていた。
本番の直前、衣装の飾りが引っかかったことがある。
それだけなら、大したことではなかった。ほどけば済む。外から見れば、それだけの話だったはずだ。
ただ、そのときは前の灯りが半拍早く入った。まだ出る準備の整っていない場所へ先に光だけが届いて、客席の目がカナに集まった。足が止まるより先に、目のほうが固まっていたのを覚えている。
照明の順番をひとつずらした。別の光を先に出して、視線を流して、その隙に舞台へ戻した。やったことはそれだけだ。覚えているのも、その程度だった。
けれど、今も残っているのは、そのあとの顔だった。助かった、とも違う。泣くほど崩れてもいない。ただ、客の目が自分へ集まる、その一瞬だけを体が先に覚えてしまったような顔だった。
「何」
視線が止まっていたらしい。
「いや」
「今、なんか思い出してたでしょ」
否定はしなかった。するとカナは、それ以上聞いてこなかった。
「昼、ちゃんと見るから」
言うと、カナはストローから指を離した。
「うん」
短い返事だった。けれど、さっきまでよりまっすぐだった。
店を出るころには、日付が変わる少し前まで来ていた。
外の空気は、入る前より少しだけ冷えている。居住棟の窓に残る灯りも減っていて、遠い区画の光だけが細く続いていた。
カフェの前で、自然に足が止まる。
「じゃあ明日」
「うん」
それだけで足りた。
同じ街に住んでいても、帰る方向は少し違う。並んで歩くほどの距離でもなく、だからといって何か言い足すほどでもない。カナは先に背を向けた。黒に近いブルゾンの裾が揺れて、その下の赤が一度だけ灯りを拾う。
見送って、自分も歩き出す。昼の予定だけは形になっている。それで十分なはずなのに、頭のどこかには、さっき思い出した灯りの早さがまだ残っていた。
部屋に戻ると、上着だけ脱いでベッドに倒れ込んだ。湯を使う気にはならなかった。端末に残った明日の予定を一度だけ見て、画面を伏せる。
ファントム・アーケード。設備確認。昼のリハ。
順番だけを頭の中で並べたところで、意識が途切れた。
次に目を開けるより先に、窓のほうで小さな音がした。
コツン。
夢の続きみたいな遠さのまま、布団の中で顔をしかめる。
もう一度。
コツン。
そこでようやく目を開けた。朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。端末の時刻を見るより先に、もう朝まで沈んでいたのだとわかった。
窓の向こうの手すりに、小さな影がある。
起き上がって窓を開けると、ヒヨリは待っていたみたいに中へ入ってきた。翼をひとつ打って、テーブルの端に降りる。胸の光紋が朝の明るさの中でだけ、かすかに残っていた。
「……ヒヨリ」
名前を呼ぶと、ヒヨリは短く鳴いた。
演出を離れてから、朝の窓を叩かれるのも、もう何年になる。
「昨日は大丈夫だったのか」
ヒヨリは首をひとつ振る。
「へいき」
それでももう一度、羽の先から足元まで目を走らせる。昨夜の白い跳ね方が、まだ目の奥に残っていた。怪我らしいところはない。
そこでようやく視線を外す。
「昨日の風の話なんだが、明日でもいいか。悪い。今日は早く出る」
ヒヨリは少しだけ首を傾けた。
「……いいよ」
それだけ言って、羽を整えはじめる。追ってこないのが、今はありがたかった。
端末を開く。ファントム・アーケード。設備確認。昼のリハ。
そこまで並べたところで、昨夜そのまま寝たことを思い出す。
汗の残りが気になった。パンをちぎり、ついでに目玉焼きをひとつ焼く。皿を端へ置く前に、ヒヨリの前へそのまま出した。どうせ取られる。だったら最初から渡したほうが早い。
そのまま浴室へ向かう。
シャツを脱ぎ、鏡の前に立ったところで動きが止まった。
背中の中央に、斜めの細い線が走っている。
昨夜は気づかなかった。今になって、そこだけ妙にはっきり目に入る。
洗面台の向こうへ視線をやる。ヒヨリはいつも通り、目玉焼きをつついていた。
少しだけ迷って、そのまま湯を使う。
浴室を出ると、ヒヨリはもう食べ終えていた。
「なんでもない」
聞かれてもいないのに、先にそう言っていた。ヒヨリは何も言わなかった。
タオルで髪を拭き、着替える。今日は少し早く出る。設備側を先に見ておけば、昼のリハに合わせやすい。
制服の上着に腕を通す。まだ朝なのに、カナの言っていた「入るところでずれる」が妙に耳に残っていた。
ヒヨリはテーブルの端からこちらを見ている。
「行くか」
「いく」
端末を取り上げる。上着の裾を整え、部屋を出た。
スタッフズ・ガーデンの朝は、もういつもの流れに戻っていた。通路の向こうでは搬送カートが低く鳴り、居住棟の窓には起きたばかりの明かりがまだらに残っている。
ヒヨリのあとを追って神社の前へ出ると、先に見えたのはホエモリだった。
鳥居の脇、いつもの位置に伏せている。灰色の毛並みが朝の光を鈍く返し、巻いた毛の先だけがやわらかく浮いていた。こちらに気づくと、ホエモリはゆっくり顔を上げる。
「朝からご苦労さま」
低く喉が鳴る。
「今日は休みだ」
休み。そう言われても、ホエモリはいつも通りにしか見えなかった。
「そういうものか」
それだけ返して、視線を鳥居のほうへやる。
朝の光が石段の途中まで差し込んでいた。赤い柱の影が斜めに落ちて、そのあいだを、何かが横切る。
先に見えたのは、尾の火だった。
足が止まる。
石段の途中に、小柄な獣仔がいた。狐に似た輪郭。赤橙の気配が先にあって、その奥で尾の炎だけが妙にはっきり揺れている。朝の光の中にいるはずなのに、そこだけ火の色が濃かった。輪郭は少し曖昧なのに、そこにいる感じだけが妙に強い。
「へえ。あんたがレン」
いきなり距離の近い声だった。
黒に近い深い紅の目が、面白がるように細くなる。輪郭はまだ少し揺れているのに、声だけが不自然なくらいよく通った。
「カナから聞いてる。もっと感じ悪いのかと思ってた」
返す前に、そいつは尾の火をひとつ揺らした。
「今日はカナのこと、よろしくね」
あまりに自然な言い方で、一瞬返事が遅れる。
「……ロア」
名前を呼ぶと、そいつは機嫌よさそうに笑った。
「知ってるなら話早いね」
そのまま今度はホエモリのほうへ顔を向ける。
「暇してるなら、あとで会いに来てよ」
ホエモリは耳をひとつだけ動かした。
「同じイヌ科のよしみでさっ」
低く、短く喉が鳴る。ロアはくすりと笑った。
「なにその顔。固いなあ」
ヒヨリがふわりとホエモリのそばへ戻る。
「じゃあまた後でねー」
軽い声が落ちる。
次の瞬間、輪郭が薄れた。
朝の光に溶けるみたいに赤が引いて、石段の途中には揺れた気配だけが残る。思わず鳥居の奥へ目をやる。隠れる場所なんてそうない。けれど、姿はどこにも見えなかった。
「今の」
ヒヨリはすぐには答えない。ホエモリも、伏せたままこちらを見るだけだった。
朝から、知っている側の沈黙は感じが悪い。
ヒヨリが羽をひとつ揺らす。
「しごと、いってくるね」
「わかった」
ヒヨリはもう一度だけこちらを見る。
「……あした」
「ん?」
「めだまやき」
一瞬、返事が遅れる。
「覚えてたのか」
ヒヨリは小さくうなずく。
「じゃあ、あしたな」
それを聞いて、ヒヨリは羽をひとつ鳴らした。
そのまま高層棟の向こうへ飛んでいく。白い羽の先が朝の光をひとつ弾いて、通路の先へ消えた。
あとに残ったのは、鳥居の下のホエモリと自分だけだった。
朝の神社は、さっきまでより少し静かに見える。
「行くか」
低く喉が鳴る。
少し間を置いて、ホエモリが言った。
「……イヌ科だからではない」
ホエモリはこっちを見ないまま、ゆっくり立ち上がった。
神社の前を離れると、背後の鳥居は高層棟の隙間にすぐ隠れた。代わりに、レールの上を滑るモノレールの音が近づいてくる。
ホームへ上がると、ホエモリは慣れた顔で先に乗り込み、窓際の床へ伏せた。車内の視線が少しだけ集まる。
何人かは物珍しさで近くまで寄りかけたが、そこで止まった。睨まれたわけでもない。ただ、これ以上は入らないほうがいいと、先に空気が決めているみたいだった。
結局、誰も無理には近づかない。ホエモリのまわりにだけ、最初から細い線が引かれているようだった。
扉が閉まる。
動き出すと、スタッフズ・ガーデンの棟はすぐに後ろへ飛んでいった。窓に朝の光が跳ねるたび、景色だけが細かく切り替わっていく。
ホエモリは何も言わない。言わないまま、外を見ている。こちらも口を開く理由がなかった。こうして並ぶと、会話がないことまで最初から決まっていたみたいに思える。楽ではあるが、やさしくはない。
最初に止まったのは、アースデブスだった。地の底へ落ちていく入口みたいに、ホームの向こうが暗く口を開けている。地下神殿を模した外壁の前を、点検用の車両とスタッフが忙しなく行き来していた。昨日の揺れの調査で、今日は朝からそちらに手を取られているらしい。探検客らしい人影もいたが、案内より点検の声のほうがよく通っていた。
扉が閉まり、また走る。
次は、フォレスト・リトリート。今度は緑のほうが近く、木々の切れ目に水だけがひとつ、静かに光っていた。さっきまでの地下の気配を洗い流すみたいに、朝の光がやわらかく返る。
もう一度、扉が閉まる。
口を開かないまま二駅過ぎて、車内表示がファントム・アーケードへ切り替わった。停車の案内が鳴る。ホエモリは顔も上げないまま、尾だけを一度動かした。
扉が開く。
ホームを下りると、駅前には旧時代の日本家屋を模した建物が並んでいた。深い軒、木の格子、少し反った屋根の線。軒先の提灯はまだ灯っていないぶん、昼の下では骨組みと和紙の薄さだけが先に見えた。
通りはゆるく折れながら奥へ続いている。古い街を写したような顔をしているのに、近くで見れば材もつくりも新しい。最初から見せるために整えられた街だった。
その先に、人が集まっていた。
輪が二重にふくらみ、その外で子どもが背伸びをしている。大人も少しずつ位置を替えながら、視線だけを中心へ寄せていた。朝のうちから、そこだけ空気の集まり方が違う。
真ん中で、赤い尾が大きく振れた。
ロアだった。
朝の神社で見た曖昧な赤とは違う。小柄な狐型の体が石畳の上にはっきり影を落としている。けれど先に目を引くのは、毛並みより、輪の中心を引っ張る動きのほうだった。
子どもの前で一度しゃがみ込み、次の瞬間には横へひらりと跳ぶ。尾の火が弧を引いたあと、少し遅れて歓声が上がる。朝は見え方だけを先に置いていたくせに、昼は最初から見せる側の顔をしている。ああいう切り替えの良さは、だいたい厄介だ。
こちらに気づいたロアが、ぱっと顔を上げる。
「待ってたよ! ホエモリもちゃんと来たんだー!」
ホエモリは耳をひとつ動かしたあと、わずかに目を細めた。もう面倒ごとに巻き込まれる気配だけは察している顔だった。
ロアはそんなことには構わず、輪の中からするりと抜けて、まっすぐホエモリのそばへ寄ってくる。
「レンもごくろうさまー! お昼にカナと合流だね!」
「俺は先に仕事を済ませる」
「はーい! 頑張ってー」
ロアはそこで会話を切って、もう次の流れへ気持ちが移っていた。尾の火を機嫌よさそうに揺らしながら、ホエモリのまわりを半歩だけ回る。
「じゃあホエモリは、みんなと遊ぼう」
「休みなのだが……」
それも聞き流すみたいに、ロアは子どもたちのほうへ振り向いた。
「ほらほら、こっち。今日は特別だよー」
ホエモリは低く息を吐いた。尾が少しだけ下がる。そのまま重い足取りで、人の輪の中心へ向かっていく。
輪の脇を外れる。表の通りから少し入るだけで、人の声が一段薄くなった。向かうのは、うつし世めぐりの保守口だった。
保守口を開けて制御室へ入る。壁沿いの監視盤は何度も更新されていて、古い筐体のあいだに薄い表示面が差し込まれていた。端末を認証部へかざすと、走行ラインと送りの系統だけが半透明に浮いた。
投影ではなく、まず送り側を見る。
昨夜のログを呼び、走行ラインを指でなぞる。三つ目の区画で数値がわずかに揺れた。制御卓を離れ、床下点検のハッチを開く。
しゃがみ込み、送り軸の継ぎ目に触れる。指先の感触と、端末に返る抵抗値が少しずれていた。
「……ここか」
固定リングを緩め、位置を合わせ直す。薄い光の目盛りが軸の脇に走り、ずれていた線が中央へ戻っていく。最後に手動送りへ切り替えて一度だけ回す。さっきまで残っていた小さな引っかかりが消えた。
ハッチを閉じて立ち上がる。
端末を閉じる。
ひとつ片づいた。カナとの約束までは、まだ少しある。
補正した箇所と再確認の時間だけをチームへ流し、制御室のログにも同じ内容を残す。近い系統を二つ、短く拾って異常なしを打ち込んでから、通りへ戻った。
さっきより人の流れが増えていた。まだ灯らない提灯の下を、客が途切れず流れていく。
中央広場へ向かう途中、ミラージュ・シアターの前を横切る。昼の時間でも人が切れない。入口で足を止める客、その横で回を案内するスタッフ、扉の向こうから短く漏れる歓声。
その裏手に、うつし世めぐりの入口が見えた。
灯籠を吊った小型車両が、暗い乗り場で静かに並んでいる。客足はあるのに、派手に人を集める顔ではない。
ミラージュ・シアターがこの街の表なら、こっちは裏だった。
目が向くのは、だいたいいつもこっちだ。
視線を切って、ファントム・ランタン前の広場へ向かった。
ファントム・ランタン前の広場へ出ると、閉じた屋根が先に目に入った。下りたままの屋根が昼の光を半端に切って、開ききっていない点検扉や、脇へ寄せられた機材箱だけを浮かせている。夜の顔より先に、支えている側の線が立っていた。
その端で、カナがこちらに気づいた。黒に近い赤の制服。腰の狐面が昼の光を噛んでいる。細身なのに、しなやかな筋肉の線は隠れない。視界の端で、ロアの尾の火が揺れ、その外にホエモリが伏せていた。
「終わった?」
「古いほうは見た。大きくは崩れてない」
小さくうなずく。
「じゃあ次。アドバイスよろしく」
先に袖口へ向かう。あとを追うと、ロアが木箱を蹴って先回りし、ホエモリは一拍遅れて立ち上がった。
途中で、カナが振り返る。
「一応、演出家に挨拶しとく?」
気は進まなかった。ただ、ここまで来て避ける理由もない。少し間を置いて、黙ってうなずく。
挨拶は短く済んだ。拍子抜けするくらい、普通だった。こっちが勝手に構えていただけかもしれないが、そういう勘違いはあまり認めたくない。今日は本番の流れを全部は使わず、問題の出る手前から組み直して見る。灯りの入りと踏み込みを優先する。聞いたのは、それだけだった。
立つ場所は正面ではなく、下手袖の少し引いた位置にした。そこからなら、上の抜けも、降りたあとの足の入りも、灯りが先に走る瞬間もまとめて拾える。
ロアは袖の木箱へ飛び乗り、尾の火を小さく揺らした。ホエモリはその少し後ろで伏せる。付き添わされている顔のまま、耳だけはこっちを向いていた。
上で短い合図が鳴る。
閉じた屋根の下で、空気がひとつ締まった。
見上げると、上段の影のあいだからカナがこちらを見た。
一拍だけ、合図を待つ間があった。
「変だったら、止めていい」
声が上から落ちる。
「流れは切らない」
上で、短くうなずく気配がした。
「……わかった」
そのまま、ワイヤーの張る音が細く走る。
昼のリハーサルが、そこで始まる。
上段、中段、平場で別のパフォーマーが同時に動き出す。光と炎とワイヤーの線がばらけて立ち上がり、少しずつひとつの流れへ寄っていく。その中心に、カナがいた。
上から抜けた体が光を切るように落ちてくる。途中で一度だけ軌道がゆるみ、床へ入る直前で火が細く走った。着地の衝撃が、そのまま舞台の流れへ溶ける。
最初の入りは悪くない。肩の線も、視線の置き方も、見せる側の人間のそれだった。
平場の炎が開き、中段の影が返り、ワイヤーの先で別の体が円を描く。カナはそのあいだを抜けながら、少しずつ前へ出てくる。群れのひとつだった動きが、流れの芯へ寄っていく。
二つ目も崩れない。
三つ目で、灯りが細く先に走る。
その直後だった。
右足が出る。出たはずなのに、踏み込みの深さだけが半拍ぶん足りない。前へ出ようとした意識が、ほんのわずかに体より先に走る。そのぶんだけ、入りが遅れた。火の立ち上がりと体の入りが、そこでひとつだけ噛み合わない。
ほんの一瞬だった。けれど、見落とすにははっきりしすぎていた。
最後まで抜ける。流れを切らないまま火を落とし、袖へ戻ってくる。顔は保っているのに、呼吸だけが少し短い。
木箱の上で、ロアの尾の火が揺れた。
「……見えた?」
「ほらね」
軽い言い方のくせに、目だけは笑っていない。
「うるさい」
返しに勢いがない。それで十分だった。
ロアを見る。
「ロア。こういうとき、いつもはどう回してるんだ」
木箱の上で首を傾ける。
「横から火を寄せる。流れを切らない程度に、ちょっとだけ」
「視線は」
「そっちもずらせるよ。やろうと思えば」
短くうなずく。
「なら、一回だけ前へ流せるか」
顔が上がる。
「前?」
「踏み込む前に、目を先に向ける。体より先に、視線だけ前へ出させる」
ロアの尾の火が細く立った。
「できるよ」
息をひとつ整える。
「……やる」
二度目の合図が鳴る。
ロアは木箱を蹴って位置を変え、袖の影へ入った。尾の火だけを細く残し、動きに合わせて少し遅れて寄る。見せるためではなく、前へ出る視線を一度だけ支える火だった。
カナが出る。
今度は最初の線が軽い。肩が上がらない。二つ目も崩れない。群れの流れの中を抜けて前へ出る、その入り方だけでさっきより余計な力が落ちていた。
三つ目。灯りが走る。
その手前で、ロアの火が横からひとすじ流れた。
視線がそこで一度だけ前へ抜ける。
右足が出る。
今度は遅れない。体が素直に入る。火の立ち上がりともほとんど揃う。昼に掴んだ入りのズレだけなら、これで戻せる。
ただ、その次だった。
他のパフォーマーが引き、線が整理される。光も炎も人の動きも、少しずつカナの正面へ寄る。真正面にひとり残る、その手前で、やはり右の腰がほんのわずかに固まる。呼吸が浅くなる。そのぶんだけ、最後の抜けが鈍る。
入りは戻った。けれど、奥はまだ残っている。
戻ってくるなり、ロアを見る。
「……ありがと」
「どういたしまして」
軽く返すが、尾の火はさっきより静かだった。
舞台を見たまま言う。
「入りは直せる。けど、その先は別だ」
答えない。
「そこで、客席を正面で受けすぎる」
喉が小さく動く。目を逸らす代わりに、右の腰へ視線だけが落ちる。
「……わかってる」
その一言だけは、飾りがなかった。
そのあとも何度か流した。ロアの火を寄せる位置を少し変える回。視線を流すタイミングを早める回。呼吸だけを見る回。ひとつ試すたび、形は少しずつ整っていく。入りは戻る。大崩れもしない。
それでも、いちばん奥だけは抜けきらない。
そこでいったん区切った。
「……今日は、ここまででいいんじゃないか」
すぐにはうなずかなかった。舞台の中央を見たまま、短く息を整えてから、ようやく肩の力を落とす。
ロアが先に口を開く。
「昼でここまでなら、悪くないよ」
「悪くない、じゃ困るの」
返した声に、さっきまでの棘はあまりなかった。ただ、納得もしていない。
顔を見る。
「本番は昼と違う。ロアもいる。ひとりで受ける形にはならない」
すぐには返さなかった。けれど、さっきまでみたいな張りつめ方は少しだけ薄れた。
「……そうだけど」
それ以上は重ねない。袖口のほうへ体を向ける。残っている仕事を先に片づけるつもりだった。
その背に、カナの声が落ちる。
「……本番も見て」
足は止めなかった。ただ、その言い方だけは残る。出来を確かめてほしいわけじゃない。その場所で、自分が最後まで立ちきれるかどうか。見ていてほしいのは、たぶんそこだ。
端末を取り出し、残っている点検の予定を頭の中で並べる。それから振り返った。
「戻る」
小さくうなずく。
ロアが木箱の上で尾を揺らした。
「じゃ、夜も集合だね」
ホエモリは何も言わない。ただ、さっきより少しだけ耳の向きが近かった。
袖口を離れる。閉じた屋根の下に、昼の熱と火の匂いだけが薄く残っていた。夜にはまだ早い。けれど、戻ってくる理由はもう足りていた。
通りへ出ると、ファントム・アーケードの色が少しずつ変わりはじめていた。昼の客を受けていた店が、今度は夜の札を表へ返していく。軒先の提灯はまだ灯りきっていないが、紙の奥に仕込まれた光がうっすら透ける。
残っていた点検は細かいものばかりだった。灯籠列の固定、導線脇の案内灯、広場へつながる送りの再確認。大きな故障はない。ないが、こういう日の小さなずれほど夜になって顔を出す。
端末に処理を残し、必要なところだけチームへ返す。確認済み、再点灯問題なし、開演前にもう一度だけ見る。その程度で足りた。
気づけば、空の色が落ちていた。
坂の上から見下ろすと、提灯が順に灯っていく。通りそのものが、夜のために組み上がっていくみたいだった。
ファントム・ランタン前の広場へ戻る。
今度は、中心に客の流れができていた。閉じていた屋根は開き、舞台の口が広場へ向かってひらいている。昼に見えていた点検扉や機構の線は影の奥へ引っ込み、その代わりに光の縁だけが前へ出ていた。
袖口へ回ると、ロアが先に気づいた。
「ちゃんと戻ってきた」
尾の火が、機嫌よさそうに弧を描く。
「約束したからな」
その奥に、カナがいた。
昼と同じ制服なのに、夜の光の下では見え方が違う。黒に近い赤が沈むぶん、立ち方の深さだけが先に残る。無理に作った強さではない。今からその場へ出る人間の線だった。見ているだけの側には、ああいう立ち方はいちばん効く。
「……今度は、最後まで見てね」
うなずく。
それで足りたらしい。小さく息を整えて、前を向いた。
少し離れた位置でホエモリが伏せている。昼より人が増えたぶん、近づくやつもいたが、その手前で足が止まるのは相変わらずだった。ロアに巻き込まれていた昼の顔とは違い、今はもう、この場の空気ごと見張る位置に戻っている。
袖の木箱に飛び乗ったロアが、尾の火をひとつ揺らした。昼の補助の火とは違う。まだ抑えてはいるが、あれで終わる気はない色だった。
開演前の合図が入る。
広場のざわめきが一段落ちる。開いたファントム・ランタンの屋根の下で、舞台の縁から先に光が立つ。街路の提灯、坂の途中のネオン、鳥居の影、その全部が少し遅れて同じ方向を向いた。舞台だけで閉じない。夜のファントム・アーケードは、通りごと客の目を運ぶ。
目を上げる。
最初に現れたのは上段の影だった。そこから別のパフォーマーがひとり、中段の足場からふたり、平場にはすでに数人が入っている。光の線が散り、炎の筋が開き、ワイヤーの抜けが頭上を横切る。ばらけたものが、音の拍に合わせて少しずつひとつへ寄っていく。
そのあとで、カナが出る。
上から斜めに抜けた体が、開いた屋根の下で光を切る。途中で軌道がひとつゆるみ、床へ入る直前、炎が細く走った。衝撃はそのまま流れへ溶ける。昼に見た入りと同じ形なのに、夜は線の深さが違った。
そこへ、ロアの幻が重なりはじめる。
火だけじゃない。尾の先から引かれた光が夜気の中で薄い帯になり、その上に花びらみたいな色がひとつ、ふたつと遅れて散る。次の拍では、獣の輪郭だけを残した光の影が舞台の縁を駆け抜け、消える。高いところでは、オーロラみたいな揺らぎが夜空の端へ薄く立った。
昼の補助とは違う。夜のロアは、舞台の外側へまで流れを伸ばしていく。
歓声がひとつ上がる。
まだカナだけを見ている歓声ではない。けれど、中心はもうわかる。
最初の流れは問題ない。
下手袖の影から、その位置だけを待つ。灯りが先に走る瞬間。右足が入る深さ。視線が前へ抜ける位置。
ロアの火が横からひとすじ流れる。
そこで目が一度だけ前へ抜けた。
右足が出る。
今度は浅くない。体は遅れない。火の立ち上がりとも揃う。昼に掴んだ入りのズレは、ちゃんと戻っていた。
そのまま流れは一段上がる。
他のパフォーマーが引き、線が整理される。最後に正面へ残る形まで、今夜は崩れない。カナがひとつ前へ出る。
昼なら止まりかけていた場所だった。けれど今夜は、そこもまだ落ちない。ロアの光が横でほどけ、花の色が短く散り、遅れて小さな獣の影が足元を抜けていく。全部が一度、あちらの前へ道を作る。
クライマックスへ入る。
上段へ返るパフォーマー、平場を回る炎、頭上を横切るワイヤーの線。音が一段厚くなり、開いた屋根の向こうへ幻が逃げる。オーロラみたいな光が夜空の端で揺れ、その下を花びらの色が散る。提灯もネオンも、その瞬間だけは背景ではなく、舞台の続きをやっていた。
最後の上がりへ入る。
灯りが先に走る。
直した場所だった。
右足が入る。体は遅れない。火の立ち上がりともぴたりと揃う。ちゃんと届いた、と思う。
次の瞬間だった。
地の底から、鈍い音が突き上げる。
足の裏で床が横へ滑った。遅れて広場全体がずれる。提灯の列が一斉に鳴る。開いた屋根の骨が軋み、舞台のどこかで金具が跳ねる。悲鳴が、ショーの音を遅れて追い越した。
「カナ!」
声を投げた先で、体がぶれる。
それでも落ちない。ワイヤーの線をひとつ耐えて、着地へ持ち直す。
「平気! 客を出して!」
返る声は短い。短いまま、もう客席のほうを向いていた。
床を蹴る。
ロアの光は、もう見せるための色ではなかった。花びらみたいな光が低く流れ、通路の先だけを薄くなぞる。追わせるための線だった。
「ロア、床を流せ!」
「はいはい、今やる!」
返事と一緒に、光の帯が通路を横へ走る。
「ホエモリ、端を見ろ!」
大きな影がすぐ前へ出た。言葉はない。ただ、その体が通路の端へ立っただけで、押し合いかけた列が鈍る。
「止めろ!」
上へ向かって声を張る。音が落ちる。遅れて、熱だけが舞台に残った。
カナは着地していた。流れは切れている。それでも転ばない。ひとつ呼吸を取り直し、客席へ向き直る。
「落ち着いてください! 順に外へ出ます!」
よく通る声だった。
そこで足を止める客がいた。止まる数が少し増える。
ロアの光が通路の先をなぞる。ホエモリが端をゆっくり歩く。そのあいだを縫って、止まった列をほどく。固まった客をひと組ずつ外へ流し、広場の外へ割っていく。
「広場の外へ流す! 坂の上には上げるな、通りへ割れさせろ!」
近くのスタッフへ投げる。返事が重なる。まだ使える灯りだけが、避難路を細く残していた。
最後の客が広場の外へ抜ける。
そこでようやく、胸の奥の力がひとつ落ちた。
通りへ流れた人のざわめきも、少しずつ遠ざかっていく。残ったのは、スタッフ同士の短い声と、遅れて鳴る提灯の擦れる音だけだった。
すぐ横で、カナの息がひとつ落ちる。
振り向くと、さっきまで舞台の中央にいた顔のまま、まだ広場のほうを見ていた。ロアは尾の火を細くしたまま木箱の縁に戻り、ホエモリは通路の先からゆっくりこちらへ戻ってくる。
「……いったん、出せた」
カナが言う。
「ああ」
それだけ返す。
ロアは珍しくすぐには茶化さなかった。尾の先で、消えきらない光だけが小さく揺れている。
ホエモリが足を止める。何も言わない。ただ、広場の空気ごと確かめるみたいに鼻先をわずかに上げた。
そこで、顔を上げる。
灯りの落ちた空は、空というより黒い塊だった。
隣で、カナが小さく息を呑む。
ロアの尾の火が止まる。
もう一度、提灯が鳴った。
高いところの音のはずなのに、耳のすぐそばで擦れたみたいに近かった。




