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とりあえず、人力車で眠ってしまったことについて、お母さまに謝ることにした。
階段を下りて居間へ行くが、いない。
「奥様なら、ご自分のお部屋にいらっしゃいますわ」
尋ねると、メイドのリズが教えてくれた。
「ありがとう、リズさん」
すると、リズはぎょっとして私のことを見る。
「お嬢様……わたくしに、そのように『リズさん』などとおっしゃらなくて構いません。奥様のように、リズとだけお呼びくださいませ」
そうだ、人見知りのシンディは、基本的に知っていても使用人の名前を呼ばないのだ。
「父は、たしかに男爵ではございましたが……早くに亡くなって。身寄りがないわたくしを、伯爵家に嫁いでからもお側に置いてくださるのは、奥様ですから」
少し淋しそうに、リズは笑う。
私がうなずくと、淋しそうな笑顔はちょっとだけ、明るくなる。
「ですけれど、ありがとうございます。お嬢様は、旦那様と奥様に似ていらっしゃって、お優しいですね」
そう言ってリズは、食堂の方に消えていった。
お母さまの自室は、私のと同じく3階にある。とは言っても、それなりに長い廊下を歩いていかねばならないが。
確か……廊下を曲がって、手間の部屋。
ノックして、声をかけると、
「あら、シンディ、おはよう。よく寝られた?」
くすくす、笑ってお母さまが部屋に招き入れてくれた。どうも、お母さまはよく笑う人みたいだ。シンディも私も、お母さまの笑顔は大好きだけれど。
「お母さま、私、眠ってしまったけれど……いけないことだったかしら」
恐る恐る聞くが、お母さまは、むしろ私より申し訳なさそうな顔をしていた。
「……病み上がりだったし、連れ出すなんて、むしろ悪いことをしてしまったと思ったの。リチャードも気にしていたわ」
まゆを下げるお母さまに、自分は大丈夫たと伝えた後。
それからは、お母さまと他愛もない話ーー王宮で仕事三昧だというお父さまの話、今日潰れてしまった歴史の授業について、などなどーーをした。
今日は、連勤が明けたお父さまがやっと帰ってくるらしい。どきどきだ。
□■□
自室に戻り、歴史の教科書を開いてみる。歴史と言っても、王家についてとか、割と最近の隣国との情勢とかばかりだった。日本で習った歴史の授業の中身とは、だいぶ勝手が違うみたいだ。
綴じ込んである世界地図は、漫画の巻頭にあったのとほぼ同じーー青で塗られたこのロードウィンは、大陸の端にある、そこそこの大きさの国である。
西隣にあるのが、大国エルラーツだ。しかし、ロードウィンとエルラーツは、仲がよろしくない。
戦争を繰り返していて、今は戦争こそしていないものの……つい20年前まで戦争の一歩手前だった。が、一昨年、やっと条約を結んだらしい。
この国の東側は、非常に高い山脈があって、その向こうは海。あぁ、綺麗な海が見たいなあ。
そういえば、ポーリンやリチャードは、海を見たことはあるのかな。今度あったら聞いてみよう。あのお茶会は、途中であんなことになったから……
……そう、すっかり忘れていた。
王宮の火事はどうなったんだ?
お父さま、お城で仕事ってことは、王宮にいたってこと? 大丈夫だったろうか。
それにしても、なぜサミュエルの部屋を狙って火をつけたんだろうか。
後継者争い? いや、確かにサミュエルには妹、つまり王女であるグレンダがいるが……両方とも王妃の子供だし、そもそも国王の妻も王妃しかいない。なら、後継者争いだとしたら、他に王族の血を継ぐ子供がいる……とか。
それなら、その親が王族を殺そうとしてもおかしくは……ない。いや、常識的にはおかしいが。
しかし、一介の小さなお嬢様である私ーーシンディは、そんなことを知らない。
漫画を読みきっていない私も、知らない。
やっぱり、お父さまかお母さまに聞くしかない。
父親の帰りがこんなに待ち遠しいのは、久々だ。前世の分も、いっぱい甘えてしまおうか。
□■□
晩ご飯の時間になり、呼ばれて食堂に降りて行った。居間と食堂は2階にあり、客間もこのフロアにあるようだ。見慣れない慌ただしさに首を傾げるていると、メイドの1人が
「今日は、旦那様の久しぶりのお帰りですからね!気合いが入っておりますよ!」
と嬉しげに教えてくれた。
なるほど。お父さま、慕われてるんだなあ……
席について、お母さまとおしゃべりしていると、俄に廊下の方が騒がしくなった。
「あら、お帰りみたいね」
お母さまの頰が少し赤くなる。あ、嬉しそうで、かわいい……。
そのちょっとしたざわめきは少しずつ近づいてきて、ドアをノックする音に変わった。
「ただいま」
『私』は初めて聞くが、シンディの体は父の声を覚えていた。
「お父さま!」
まさに、11歳のシンディに還ったように、思わずドアに駆け寄っていた。
あらあら……とお母さまの苦笑が聞こえたが、ドアから現れた笑顔は私をぎゅっと抱きとめる。
「シンディ、辛くなかったかい? ……やあ、レイチェル、ただいま」
お父さ、あは私の頭を撫でながら、穏やかな声でお母さまを呼ぶ。
お帰りなさいませ、と返すお母さまの声も、お父さまのそれと同じくらい暖かだった。
こんな幸せな家族なのに、燃えてしまうのかーー優しい気持ちに包まれながら、なんだかとても悔しくなるのだった。
□■□
料理人たちの気合いが入った夕食は、気持ちは貧乏舌(なんせ前世は庶民――なのだが、体の方は生粋の貴族なのだ)な私でも分かるくらい素晴らしかった。
もちろん、いつももすごく美味しいのけれど……疲れているお父さま(まだ30代だが)を気遣ってか、野菜は少し柔らかにしてあるし、どうやらお父さまの好物ばかりらしい。
上機嫌で、何なら子供のように喜んで料理人たちにお礼を言っていた。
「そういえば……エリック、火事は大丈夫だったんですか?」
ふと、お母さまが心配げにお父さまを見やる。お父さまは曖昧に頷いた。
「サミュエル殿下のお部屋は、外から火をつけられたんだが、扉が半分以上燃えてしまったと聞いたな。殿下は、いつもはその時間、お部屋で授業があるが、昨日は偶然乗馬の練習に変わっていたそうだよ。まあ、幸運だった、と言っていいのかな……」
私たちは相槌を打つ。……私、ここで聞いてみてもいいだろうか?
「……あの、お父さま…」
「ん? 何だい、シンディ」
いかにも、素朴な疑問に聞こえるように、尋ねてみる。
「王太子様のお部屋に火がつけられたのは、なぜなのかしら……」
シンディ、とお母さまが珍しく鋭く窘めてくる。お父さまはそれをまあまあ……と制して、ためらいがちに口を開く。
「シンディ。確かに、それだけ聞いたら不思議に思うだろうね。だけど、……大人の世界というのかな。長く生きてくると、考え方や利益が固まってしまったり、人生経験が豊富になって悪賢くなる人もいるのさ。自分の利益のために、思いもよらないことをする人も、いるんだよ」
難しいことを言うなあと思った。
煙に巻くつもりなのか、言いたいことあっての言葉なのか……。
「難しかったかな。ごめんよ。……だけど、世の中は難しいことだらけなんだよ。お父さまも、まだまだ勉強の日々さ。シンディも、勉強したり生きていくうちに、分かるものが増えると思うよ」
お母さまは、微笑を浮かべて私たちを見ていた。お父さまも、微笑み返す。
どこか他人事のように、2人とも火事を語っていた。
現実に、迫っているとはーーもちろん思いもよらないのだろう。
だけど、私は分かっている。
防がなきゃ。
……どうすれば、いいんだろうか。