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《親愛なるシンディ》
イールズにやって来てから、丸2日が経った。屋敷の構造がまだ覚えきれず、時々迷子になってしまうが、それ以外には慣れてきたし、至って順調な暮らしだと思う。
そして、引っ越した翌朝に出した手紙に対する返事がちらほらと……いや、いわゆる速達を使って相手が出してきた返事に限り、ちらほらと返ってきはじめている。
そんな数通の手紙の中に彼の字を見つけ、私はいそいそと自室に持ち込んだ。
アレックス様の、もともと字が上手くない人が頑張って丁寧に書いていると――そんな気配が滲む、けれど一見すれば美しい筆致で綴られた私の名前に、つい頬が緩む。学園の授業もあり、彼からの手紙はしょっちゅう来るわけではないが、それでも私にとっては楽しみになっていた。誰にでもそうなのかは知らないが、毎回の便箋選びも私の好みをよく分かっていて、嬉しくもどこか悔しい気持ちである。
《無事に引っ越しが済んだようで、何よりだ。俺の方も元気にはしているが、半年後に官吏の採用試験があるから、このところずっと学園に籠りきりだよ。本当ならお前に会いに行きたいが、高級官吏の試験ということもあり、思ったよりも余裕がないんだ。まあ、お前のことだから、「わたくしに会いに来る暇があったら、勉強してください」と言うのだろうな。もしも試験に合格できたら、来年から王宮で働けるようになるし、卒業までの半年は自由に過ごせる。とにかく、試験が終わったらすぐにお前のところに行くから、話を聞いてくれると嬉しいよ。試験の内容をそのまま教えることはできないが、シンディ、お前ならきっと気になるだろう?》
そして、書いている内容も、的確に私の気になるポイントを押さえている。アレクサンダーが官吏を目指していることは前から聞いていたが、改めて考えると、とうとう彼も学園卒業が1年後に迫っているわけである。彼は長男ではないし、別の爵位を継ぐ予定もない。無位貴族になるか、どこかに婿入りしてそこの爵位を継ぐのだ。――いや、違う、彼は、私と結婚してカスター伯爵を継ぎ、宮中伯としての地位を守っていくつもりらしい。そうなると、学園を卒業し、そのまま高級官吏にストレート合格という肩書は、きっと有効なのだろう。軍以外で貴族子弟の就職先というと、私にはそれこそ王宮というイメージしかなかったのだが、実際は多岐に渡るという。地方長官のもとで働くいわば地方公務員とか、領地経営をしている貴族の秘書や補佐になったり、あるいは従者になったりという道もある。……残念ながら、アレクサンダーからの受け売りの知識だが。
とにかく、そのような中で、彼は敢えて難関である高級官吏の試験に挑戦し、ウィーラスで暮らせるように王宮勤務を目指しているのだと思う、たぶん。私の自惚れでなければだが……。
《お前に誇れる存在でいたいと思っているよ お前の従兄、アレクサンダー》
でも、ほら、こんなことを書かれては、自惚れずにはいられないじゃないか!
彼の名前を、そっと指でなぞる。アレクサンダーも頑張っているのだ、私だって、エルラーツ語を習得……とまではいかなくても、いつかエルラーツとの交流が当たり前になったとき、日常会話ができるくらいにはなりたいものだ。
決意を新たに、丁寧に、便箋を封筒に戻した。
いろいろと災難が重なったが、いよいよ、いや、今度こそ、ついに! ロイヒリン様がイールズにやってくると、そんな知らせも速達でやってきていたのだった。
□■□
嘘か本当かは知らないが、お父さま曰く、エルラーツの人は緑色が好きだそうで。
そんなわけで、今日の装いは、目の色の若草色よりももう少し淡い薄緑のドレスに、誕生日にジェラルディンが贈ってくれた銀色の鳥を模した髪飾り、それと腰には最近お気に入りの紫のリボンである。ふわふわの髪と相まって、淡い色で全身をまとめると、本当にシンディはかわいらしい印象になる。
子どもっぽいと思われたらどうしよう、と心配になるが、客間に入ってきた女性の顔を見て、それが杞憂だったことが分かった。
「こんにちは、夫人、そしてかわいらしいお嬢さん。お2人とも綺麗な目の色ね、宝石のようだわ」
「ようこそ、ロイヒリン様。お褒めの言葉をありがとうございます、さあ、どうぞ、おかけになって」
「ええ、ありがとうございます」
お母さまが示したソファーに、長身の女性――メルツェーデス・ロイヒリン様が腰を下ろす。カフェラテの色の髪を高い位置でお団子に結い、こちらを見つめる猫のような目は黒。ロードウィン式のドレスを優雅に着こなし、彼女は流暢なロードウィン語で
「メルツェーデス・ロイヒリンです。身分はエルラーツの伯爵令嬢、あるいは元外交官、あるいは第一王子の元教育係、そんなところです。歳は……そうね、カスター伯爵より少しだけ年上よ」
と楽しそうに自己紹介した。華麗なる経歴に私とお母さまは若干気圧されたが、とにかくありがたいお話であることは間違いない。
ロイヒリン様の名乗りを受け、お母さまも上品に名乗り、礼をとった。そして、せめてもの誠意を見せようと、私は猛烈に拙いエルラーツ語で「私はシンディ・カスターです」と告げてから、「ようこそお越しくださいました」と努めて自然に微笑した。とりあえず、一言目だけはエルラーツ語で挨拶しようと、お父さまから軽く習っていたのだが、いかんせんお父さまは忙しいし、毒ケーキや火事などもあって頓挫していたのだった。
「あら、あら。ありがとう。うふふ」
内心はともかくだが、ロイヒリン様は少し驚いたように笑った後、ゆっくりと私とお母さまに頷きかけた。
「……ええ、もちろん発音はまだまだ改善の余地がありますが、筋はよさそうですし、やる気のあるお嬢さんで大変結構ですわ。それに、エルラーツの情勢にも興味があるのでしょう? 伯爵とダルリンプル侯爵のお願いということもありますが、こちらのお嬢さんだったら、喜んで、わたくしがきっちり面倒を見させて頂きます」
ロイヒリン様は丸顔で愛嬌のある顔立ちだが、鼻筋がしっかりと通っていて、少し厳格そうな印象も受ける。そんな彼女に真顔で見つめられて背筋が伸びたが、お眼鏡に適うことができたようで、ほっとするのだった。
□■□
「さて、それでは次の質問です。シンディ、エルラーツの第一王子の名前は何ですか?」
「はい、コルネリウス・ゲッツ・ヴィリ殿下です」
「正解よ」
顔合わせは成功に終わり、すぐにメルツェーデス様による特訓が始まった。ちょっと予想外だったのだが、まずはエルラーツについての基礎知識を知ってほしいと言われ、私のレベルを測るためにいくつかの質問をされている最中である。
エルラーツの未来の国王である第一王子の名は、さすがに私も予習してあった。確か、第一王子も含めて王子が3人、王女が2人いたはずである。ただ、それ以外の人の名前は憶えていなかった。聞かれたらいやだなあと思っていると、案の定、第一王女の名を聞かれてしまった。
勉強不足です、と素直に白旗を上げ、メルツェーデス様に答えを尋ねる。
「ルート・ジルヴィア・エルメンガルト殿下。御年14歳で、あなたの1歳上ね。エルメンガルト殿下はコルネリウス殿下の腹心だから、王位継承の線が薄いとは言え、軽視してはいけませんよ。決して忘れないようにね」
少し視線を厳しくして、彼女は私に念を押す。私が数回王女殿下の名前を復唱すると、満足したように頷いた後、再び厳しい顔になった。
「エルラーツ王国の前身――エルラーツ帝国は、非常に繫栄していた。このことは知っているわね?」
「知っています。ロードウィンもかつては帝国の国土でしたが、対立の末に独立し、長らく戦争状態にありましたね。帝国が滅亡し、エルラーツ王国に移行した後も……」
「そうよ」
ため息を吐いたメルツェーデス様は、エルラーツ帝国と言うとき、とても嫌そうな顔をした。こうやって見ていると、メルツェーデス様がエルラーツ人だと一見して分かる人はいないように思う。例えば、ゴードン公爵がいきなりこの場にやって来て、ロードウィン・ドレスを纏いロードウィン語で話すこの女性を見て、エルラーツ人だと気付くのだろうか。
「王国に移行してからも、かつての繁栄を希求する勢力――俗に言うところの『帝国派』は決して少なくありませんでした。しかし、今代の国王陛下はそれを否とし、ロードウィンとの和解を決定なさった。歴史に残る英断だと、わたくしは思っているわ」
しかし、と、彼女の低い声が落ちた。表情から輝きが失われ、影が過る。
「コルネリウス・ゲッツ・ヴィリ殿下は、帝国派に傾倒――いいえ、自らの意志で、今も残る帝国派貴族をまとめ上げ……国王になった暁には、すぐにでも再びエルラーツを帝国に、と望んでいるわ」
……それを聞いて、まず思い浮かんだのは、そんなことできるのか? という感想だった。
まあ、極論として、王を皇帝に改め、国名も変更するというだけならば、強く主張すれば叶わないわけではないだろう。しかし、領土を拡大すべく他国に攻め込むとか、皇帝の独裁を行うとか、そのようなものをエルラーツの貴族は歓迎するのだろうか。しかも、父王が他国との融和に舵を切ったばかりなのに。
それとも、
「コルネリウス殿下? は、そこまで国内勢力を掌握しているのですか?」
叶うあてもない時代遅れの野望なのか、それとも実現可能な計画なのか。そういえば、妹の王女も腹心だというから、案外あり得る話なのかも……。
どうかしら、と呟いて、メルツェーデス様は渋い顔をした。眉間にぎゅっとしわが寄り、とにかく渋いとしか言えないような表情を浮かべている。
「数で言ったら、そこまでの支持を集めているというほどではないわ。ただ、少数ながら有力な貴族を押さえているから、あるいはと思っているの。楽観視はできないわね」
「そうなのですね」
うーん、と私も少し頭を回転させる。政治は多数決ではない。例えば、ロードウィンでは、多くの貴族が反対しても、ゴードン公爵が賛成したら一気に流れが変わるような――忖度する貴族もいるし、公爵には圧倒的な実行力もある――そういうものらしい。
「そうよ。コルネリウス殿下は、エルラーツの影の部分ね、王家のために暗殺や密偵を担う隠密を多数擁する公爵家……グリューン公爵家を味方につけている。そこが一番の問題よ」
カスター家にまで密偵を送り込んでいたなんて、よほどあの条約がお気に召さなかったみたいね。
疲れたようにこぼしたその一言に、私の脳内でサラの姿がフラッシュバックする。グリューン公爵家のメイド・ザーラ……。
「カスター家に紛れていたメイドの、サラ……父から、彼女はグリューン家のメイドと名乗っていたと聞いています」
「そう……たぶん、サラというのはロードウィン名でしょうね。エルラーツ読みだとザーラになるし、あるいは全くの偽名という可能性もあるけれど、そこまでは分からないわね。あのね……平和条約は、国内の反対を警戒した陛下が極秘でロードウィンに持ちかけて、締結にまつわる一連の手続きが全て終わってから発表したの。それだけ陛下が本気だと国内には伝わったでしょうし、帝国派も沈静化すると思っていたのよ。だけど、残念ながら逆効果だったようね……。勅使を担ったわたくしはまだしも、カスター伯にまで手を出していたとは。陛下の目を掻い潜っていたあたり、やはり状況は思った以上に悪いかも」
そして、メルツェーデス様は、立ち上がって深く、正式な礼をとった。
「エルラーツの情勢に巻き込んでしまって、本当に申し訳ございませんでした。国王陛下の僕として、伯爵の協力を頂いた者として、謝罪致します」
「いえ、そんな……」
「夫人にも、昨夜謝罪はしております。あなたにも謝らなければいけないわ」
真摯な声に、私も居住まいを正した。
「分かりました。……メルツェーデス様、謝罪を受け入れます。だからどうか、頭をお上げになって」
大人に真面目に謝られる……という経験は、前世も含めてほとんど初めてだった。メルツェーデス様が真剣に謝ってくれているのはよく分かるが、どちらかというと、気まずさが勝ってしまうのだった。




