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or  作者: 真亭甘
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広場

白銀の霧が、石造りの広間をなめらかに這い回り――そして、嘘みたいにほどけて消えた。



消え際、かすかに「鎖がほどける音」がした気がした。耳じゃない。骨の奥で鳴った、みたいな。



ランは自分の拳を見下ろす。指の関節が赤い。殴った痛みじゃない。内側から熱が抜けていく感覚――さっきまで暴れ回っていた“何か”が、血肉の底へ沈んでいく感触だ。





(……これ、オレがやったのか)





鼻腔を突くのは血と焦げた石と、何百年も澱んでいた埃。だけどそれだけじゃない。重く淀んだ“気配”が、霧と一緒に薄れていく。その代わりに、生ぬるい、確かな生命の匂いが満ちてきた。



広間の隅。崩れかけた柱の陰。そこに蹲っていた者たちが、恐る恐る顔を上げる。 手首や足首に赤黒い痣。鎖の形がそのまま焼き付いたみたいだった。虚ろな瞳で天井のひび割れを見つめる者。隣に倒れた誰かを、震える手で揺する者。



「……終わった、のか……?」







「ああ……ああ……!」



「生きて……出られる……!」





掠れた声が落ちた瞬間、せき止めていたものが一斉に決壊した。

すすり泣きが波紋になって、広間を揺らす号泣に変わっていく。

泥まみれの腕が互いを抱きしめ合い、冷たい床に額を擦りつけ、声にならない声が空気を裂く。

涙が血と泥に落ち、小さな染みを作る。



それは、檻が壊れた家畜の喜びじゃない。

恐怖に縛られて、生きる意志そのものを握られていた連中が――自分の肺で、自分の呼吸を取り戻した鳴き声だった。

ランは喉の奥が妙に痛むのを自覚して、舌打ちした。

こういうのは、森じゃ見ない。森で泣くのは、死ぬ時か、食う時だ。

なのに目の前の連中は、今、生きるために泣いてる。





「……っ」





一歩、踏み出しかけて止まる。どう声をかければいいのか分からない。

分からないのに、胸の内側が、さっきの熱の残り火みたいにじりじりする。

その光景を、マリアは少し離れた場所から腕を組んで見つめていた。

漆黒の服は裂け、埃にまみれ、それでも背筋は折れていない。

切れ長の瞳は冷え切って見える――けれど、ランは気づく。

彼女の肩の力が、ほんのわずかに抜けている。

虚勢。

強がり。

男勝りの口調。

それで自分を鎧みたいに包んでる女だ。

マリアが小さく息を吐き、ヒールを鳴らして近づいてくる。





「……ねぇ」





喧騒の中でも不思議と通る声。硬くて、ぶっきらぼうで、でも……どこか揺れている。





「この国、どうなるの?」





視線の先には、崩れた柱の向こうに見える九黎城の市街。

魔都。

富豪・文圍の掌の上で回っていた巨大な機械。

支配者が消えた今、歯車は止まる。止まった歯車は、次にどうなる?

暴走して、人を噛み潰す。

解放された連中だって、外へ出た瞬間に飢える。奪い合いが始まる。

結局、また誰かが鎖を作る。

ランは答えを持っていなかった。

森なら、弱い奴は死ぬ。強い奴が食う。

それだけだ。

でも――それをここで言ったら、今泣いてる連中をもう一度殺す気がした。





「大丈夫ですよ」





場違いなほど軽やかな声が割り込む。 くすんだ緑色の外套を揺らし、リョクシが瓦礫を踏み越えて現れた。いつもの底知れない笑み。目だけが笑っていない、あの笑み。





「反乱軍が、もうすぐここへ到達します。統治も始まるでしょう。……彼らなら、この人たちを“正しく”導けますから」





“正しく”――その言い方が、ランの背中を冷やした。 マリアの眉も、ほんの少しだけ動く。





「なぜわかる?」





ランが短く問う。森で育った勘が告げる。こいつは、適当に言ってない。 でも、外の匂いがしない。足音も、地面の震えもない。



リョクシは指先をひらひらさせ、壁の亀裂にそっと触れた。 そこに、霧が消えた後の“冷え”が残っているみたいに、石が白く霜を吹いている。





「九黎城はね、ラン君。地脈――古い設備の血管と繋がってる。そこを流れる“脈”が、今、騒いでるんです」





言い方は軽い。けれど、内容はぞっとするほど具体的だった。





「誰かが、動かした。外から。……だから来ますよ。必然として」





必然。という単語が、鎖みたいに耳に絡む。

ランは自分の掌を見つめる。さっき骨の奥で鳴った“鎖の音”が、もう一度よみがえった。 霧は消えた。なのに、まだどこかに鎖が残っている気がする。 見えない鎖が、人も国も、同じ形で縛り直そうとしている――そんな感覚。





「……ふん」





マリアが鼻で笑った。いつもの、強がりの音。





「あんたが言うなら、大丈夫なんでしょ。無駄な心配だったわ」





言い捨てて、わざとらしくリョクシから視線を外す。 “信じる”なんて素直に言えない女の、ひねくれた肯定。ランはそれを、少しだけ羨ましいと思った。





「ええ、ええ! 僕を信じてくれて嬉しいですよ、マリアちゃん!」



リョクシは急に上機嫌になり、距離を詰める。





「さぁ〜ぼくらは、とっとと次の目的地へ! マリアちゃんが命がけで取ってきた書類のお陰で、文圍の背後にいた連中の手がかりもバッチリですからね!」





そう言いながら、馴れ馴れしく手を伸ばし、マリアの頭に触れようとした。





「いやぁ、本当に大活躍! えらいえらい、なで――」





空気が凍った。 ランは反射で一歩下がる。

野生の勘が叫ぶ。

これは敵より危ないやつだ、と。

マリアの裾が、ゆっくり揺れた。 彼女は手を払わない。ただ、絶対零度の視線を、その手のひらへ向ける。





「……今すぐその手を、私の視界から消しますか?」





声は低く、平坦。けれどそこに込められた殺意は、さっきの死闘に匹敵した。 髪に一ミリでも触れたら、腕ごとねじ切る。瞳がそう告げている。





「……はい、消します。瞬時に消去いたします。シャキーン」





リョクシは完璧な笑顔のまま、音速で手を引っ込めた。 そして何事もなかったかのように踵を返す。





「さぁ、出発の準備をしましょう! 旅はまだまだ長い!」





マリアはため息をつき、乱れた髪を掻き上げた。 その仕草が、ほんの少しだけ“普通の十九歳”に見えて、ランは目を逸らした。

泣き叫ぶ人々の方へ、ランはもう一度だけ振り返る。 崩れた天井の隙間から、薄日が差し込み始めていた。九黎城という巨大な墓標に刺さる、新しい朝の光。

その光の下で、誰かがしゃくり上げながら笑った。 笑いながら泣く。生きてる証拠みたいな音。

ランは唇を開きかけて、結局、短い言葉だけを落とした。





「……息、していい」





誰に言ったのか、自分でも分からない。 あの人たちにか。自分にか。それとも――霧の向こうへ溶けた“戦神”と“姫”の残滓にか。

返事はない。 けれど次の瞬間、胸の奥の残り火が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。

ランは小さく息を吸い込み、マリアとリョクシの背中を追って歩き出す。 鎖の音が、今度は聞こえなかった。

代わりに、遠い場所で、何か大きなものが動き出す――地面の奥の“脈”みたいな、嫌な予感だけがした。




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