玉座 7
地下層。冷酷なまでの幾何学模様で構成されたその区画には、濃密な血とオゾンの焦げた臭いが滞留していた。 漆黒の外套を翻し、マリアは舌打ちをする。
「まったく。どいつもこいつも、手のかかる坊やたちだよ」
口を突いて出る言葉は意図的に粗野で、棘を含んでいる。だが、その足取りの切迫感と、周囲の闇を睨みつける眼差しの揺らぎが、彼女の本質である繊細な情愛を雄弁に物語っていた。強がっていなければ、押し潰されそうだった。
行く手を阻むのは、ひしゃげた巨大な肉塊。先ほどまでこの施設を守護していた敵将・半興の亡骸だ。その奥、重厚な隔壁の前に設えられた防衛ギミックが、警告の赤い明滅を繰り返している。
「悪趣味な玩具だね。命を何だと思ってるんだか」
マリアの指先が、不可視の旋律を奏でるように宙を舞う。
物理的な破壊ではない。
機構の根源たるアニマの脈絡を正確に読み取り、結び目を解く作業。
鈍い駆動音と共に、分厚い隔壁が沈黙し、左右へと割れた。
踏み込んだ先は、九黎城の深部たる史料室。
壁一面を覆う膨大な紙束と水晶の記録媒体。マリアは迷いなく、中央の卓に広げられた一冊の古めかしい帳簿に手を伸ばした。
文圍の、投資録。 そこに記されていた数列と、ある名前に、マリアの息が止まった。
『案件:凶罪の首領・蚩尤』
それはただの肩書きや、過去の記録ではなかった。
アニマの供給、肉体の定着、
その存在のすべてが、文圍の「商談」という名の外系能力によって縛り付けられた、仮初めの命の証明。
文圍の命と資本が尽きれば、対価として現界させられているだけのあの男の存在は、霧散する。
そういう契約体系の基盤として、彼は祀り上げられていたのだ。
「……嘘だろ。急がなきゃ……!」
虚勢の仮面は完全に剥がれ落ちていた。通路の奥、冷たい鉄格子の中に囚われていた無数の人々。その鍵を、通りすがりに最小限のアニマで破壊しながら、マリアは叫ぶ。
「アンタたちは下へ行きな! 道は開けた!」
戸惑う人々に構う暇はない。
嫌な予感が、背筋を駆け上がっていた。
最上階。
あの規格外の野生児と、得体の知れない緑の男がいる場所。そこで今、何が起きているのか。
螺旋階段を一段飛ばしで駆け上がり、蹴破るようにして最上層の広間へと飛び込む。
「ラン! リョクシ!」
マリアが叫んだ声は、しかし、奇妙なほど空虚に響いた。
暴風。
九黎城の最上層は、文字通り半壊していた。
豪奢な玉座も、文圍が常に張り巡らせていた不可侵の結界も、何一つ残っていない。 そこに立っていたのは、くすんだ緑色の外套を風に靡かせるリョクシ。そして、全身に幾多の傷を負いながらも、獣のように荒い息を吐くランだった。 ランの右腕。突然変異を起こしたその腕からは、異常な熱量と、名状しがたい生命の残滓が立ち昇っている。彼はただ、己の生存本能に従い、目の前の空間ごと元凶を殴り抜いたのだ。
「……終わったよ」
リョクシが、静かに振り返った。その声に安堵の色はない。ただ、圧倒的な事象を見届けた者の、淡々とした響きだった。
文圍の姿はなかった。
商談。
取引。
等価交換。
文明が作り上げた最も狡猾で絶対的なルール。
己の利益を対価に事象を強制する、その無敵とも思えた外系能力は、文明の文脈など一切持たない「純粋な暴力」の前に、提示する間もなく粉砕された。
交渉の余地すら与えられなかった。
ランは、自分が何を殴り砕いたのか、その意味すら理解していないだろう。
ただ、立ち塞がる脅威を排除した。それだけだ。 マリアは膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪え、視線を彷徨わせた。
「……蚩尤は?」
崩落の縁。千尋の谷底へと続く吹き抜けの端に、二つの影があった。
蚩尤と、桔妃。
放り出され、落下しようとした桔妃を、蚩尤が抱き留めていた。
彼の周囲には、かつて数多の命を刈り取った「幻霧」が、今はただ彼女を外界の冷たい風から守るように、静かに、柔らかく漂っている。
「……どうして」
桔妃の唇が震えていた。
幼い頃から王族の姫として飾り立てられ、最後はただの政治の道具、肉の器として消費される運命を強いられてきた。
文圍に傅き、尊厳を削り取られるような行為を、蚩尤の目の前で強いられたこともあった。
彼女にとって、己の価値など汚泥に等しい。
誰もが自分を蔑み、利用するだけの世界だった。
だからこそ、目の前の男が理解できなかった。
凶罪の首領。戦神。邪神。あらゆる悪名を着せられ、他者を蹂躙してきたはずの男が、なぜ、自分のような女を命がけで抱きとめたのか。
「……俺は、俺は、何もできなかった。お前が……お前が傷つくのを、ただ見ていることしか」
蚩尤は視線を伏せた。その端正な顔立ちには、もはや冷酷な首領の面影はない。
不器用な、あまりにも不器用な男だった。
桔妃は、ゆっくりと手を伸ばした。
震える指先が、蚩尤の頬に触れる。冷たい霧の感触の奥に、確かな人間の熱があった。
彼女にはわかっていた。文圍の傍らで、辱めを受けていたあの幾つもの夜。
蚩尤が展開していた霧が、いつもほんの僅かに彼女の肌を覆い、文圍の粘着質な視線や、冷え切った空気から、彼女の尊厳を隠そうとしていたことを。
反逆が許されない縛りの中で、彼がどれほどの絶望を抱えてそこに立っていたのかを。
「あなたは……いつも、泣いていたのね」
「!」
「誰も、あなたの本当の姿を見ていなかった。私も、自分の惨めさばかりに囚われて……気づけなかった」
「不器用な人。本当は、誰よりも優しくて、温かいのに。悪神になんて、なりきれなかったくせに」
蚩尤の肩が、大きく跳ねた。
桔妃の目から、一筋の涙が零れ落ちる。それは、彼女が生まれて初めて、他者のために流した涙だった。
その言葉は、蚩尤の魂にかけられていた最も重い呪いを解いた。
文圍に与えられた役割ではない。
世間が押し付けた恐怖の象徴でもない。
ただの、仲間を想う一人の青年としての存在を、世界でたった一人、彼女だけが肯定したのだ。
蚩尤の目から、堪えきれない雫が溢れた。彼は低く嗚咽を漏らし、桔妃の細い身体を強く、強く抱きしめた。
「桔妃……っ、俺は、俺は……!」
謝罪でも、後悔でもない。
ただ名前を呼ぶ。それだけで、二人の間にある絶対的な断絶は氷解していた。
互いが互いの、たった一つの理解者であったことに、ようやく気付いたのだ。
しかし、その抱擁の熱が頂点に達した瞬間。
蚩尤の腕が、淡い光を帯びた霧へと変換し始めた。
「……あ」
「文圍が消滅したからだ……! あいつの契約が切れて、存在を維持するアニマが……!」
桔妃が息を呑む。
少し離れた場所から見ていたマリアが、悲痛な声を上げた。
蚩尤は、己の手のひらが白銀の粒子となって空に溶けていくのを、静かに見つめた。 恐怖はなかった。ただ、得体の知れない寂寥だけがあった。
「……そうか。俺の命は、とうにあの男の帳簿の中にしかなかったのだったな」
「すまない、桔妃。俺は、君を連れて行くことすらできない。仮初めの、偽物の存在でしかなかった」
彼は自嘲気味に微笑んだ。
少しずつ、彼の身体が透明になっていく。幻霧のアニマが、拠り所を失って暴走し、彼自身を分解して世界の循環へと還していく。
「さよならだ。どうか、生きて……君自身の、人生を」
必死に別れを告げる蚩尤。だが、桔妃の瞳には、諦念ではなく、烈火のような意志が宿っていた。
彼女は、消えゆく蚩尤の首に、きつく腕を回した。
「偽物なんかじゃない!」
「私が知っているあなたの優しさは、本物よ。あなたが抱きしめてくれたこの温もりが、偽物なはずがない!」
「桔妃……離れろ……! このままでは、君まで……!」
拠り所を失った外系アニマの暴走は、今や触れるものすべてを分解し、霧に変えようとする奔流となっていた。抱きついたままでは、桔妃の肉体も無事では済まない。 だが、彼女は決して腕を解かなかった。
「嫌。絶対に離さない」
桔妃は、蚩尤の胸に顔を埋めた。
「今まで、誰の役にも立たない、ただ消費されるだけの汚れた人生だと思っていた。でも……あなたが私を見つけてくれた。あなたが私を、一人の人間として愛してくれた」
彼女の身体が、蚩尤の白銀の霧と共鳴するように、淡い光を放ち始める。
「私の世界は、あなたがいないと、また冷たい鳥籠に戻るだけ。……あなたのいない世界でたった一人息をするくらいなら、私は、あなたの霧になる」
「だめだ……生きてくれ……っ!」
蚩尤の懇願は、愛する者を喪う絶望に満ちていた。だが、桔妃の笑顔は、この世界のどんな花よりも美しく、満ち足りていた。
「愛しているわ、蚩尤」
その瞬間、白銀の霧が爆発的に膨張した。
ランが腕で顔を庇い、マリアが悲鳴のような名を呼ぶ。
リョクシの外套が激しく煽られる。
光が収まった後。 崩落の縁には、もう誰もいなかった。
文圍という呪縛から解き放たれ、真の心を通わせた二人の魂は、過酷なアドリムの空へと溶け合い、跡形もなく消え去っていた。
吹き抜ける風が、ただ優しく、微かな花の香りを運んでいった。




