誰よりも賢い彼と
「まずは私からいきましょう。私と踊っていただけますか?」
そう静かに言って詩衣の前に歩み出たのは、グレーの燕尾服を身に纏った麦だった。
低い背と大きな目が幼く見せるが、醸し出す落ち着いた雰囲気からして彼が三人の中で一番年上だろう。
その人の良さそうな顔に穏やかな笑みを浮かべながら、詩衣の前にゆったりと優雅な様子で手を差し出す。
「えっ!? 本当に踊るの? 私、ダンスなんか踊れないわよ!」
本当に踊るとは思っていなかった詩衣は必死に顔を左右に振ったが、麦は「大丈夫。私がちゃんとリードしますから」と満面の笑顔で彼女をダンスへと誘う。
その全ての人を安心させてしまうような笑みをうけて、詩衣はおずおずと差し出されたその手をとった。
「……じ、じゃあよろしくお願いします。む……」
そこで詩衣は一度言葉を切りうつむく。
「……もう麦なんて呼んだら失礼ですよね? なんてお呼びしたら……?」
そう。彼はもう詩衣の知っているかかしの『麦』ではなく、王を除いたこの国の政治の頂点に立つ大臣なのだ。
今までのように気軽に麦なんて呼んでいい存在じゃない。
「ははっ。そんなかしこまらないで下さいよ」
そんな詩衣の感じた距離感を麦は軽く笑い飛ばす。
「それに名前も麦でいいです。見た目は変わっても中身はあのバカなかかしのままなんですから」
「バ、バカなんて……! 賢い大臣様に道中偉そうなことさんざん言ってすみませんでした」
詩衣は旅の間の自分の言動を思い出し、顔を青ざめさせる。
「いえいえ。本当のことですから、良かったのです。あっ……音楽が流れ始めましたね」
そんな少しぎこちないやりとりをしている間にどこからか音楽が流れ始めた。
「かわいい曲……」
流れ出したのはスローテンポの曲調の中にどこか茶目っ気を含んだかわいらしい曲だった。
「さぁ。いつまでも突っ立っているだけではつまらない。踊りながらお話しをしましょうか」
麦は丁寧な動作で詩衣を引き寄せると、緊張で強ばっている彼女の体をリズムに合わせて軽やかに揺する。
「大丈夫です。ちゃんとリードするって言ったでしょ? そんなに緊張しないで。作法なんて気にしないで、楽しめばいいのです。ほら、右、左、右、上手ですよ。ちゃんと踊れるではないですか」
麦はそう優しげな語り口で初心者の詩衣でもわかりやすいように彼女を導いていく。
踊りの内容は初めての詩衣でもできるような簡単なステップを組み合わせただけのものだったが、麦の上手なリードのおかげでちゃんとしたダンスに見えた。
どんなに彼女が失敗しても決して笑顔を崩さない麦につられて、堅くなっていた詩衣の顔にも自然と笑顔が浮かんでくる。
「楽しいね! 麦!」
「はい! 楽しいですね! ドロシーさん!」
麦もうれしそうに笑った。
「……私は本当にバカだった」
しばらくそう夢中で踊っていたら、不意に麦が声を潜めて言った。
その表情は笑顔のままだったが、どこか悲しい影がかかっていた。
「そ、そんな! あれは魔法のせいでかかしになっていたから……!」
「いいえ。魔法でかかしになった私の姿は正に私の真の姿。私の頭はたとえ勉強ができても藁が入ったようにすかすかで、本当に正しいことは何一つ考えることができていなかったのです。……私は見ての通りの中途半端な背丈。四種族の中でも最も背の高いウィンキーと一番背の低いギリキンの間の子です。最初は母の母国の西の国に住んでいたのですが治安の悪化のために命の危険を感じ、父の実家のある北の国まで引っ越したのです。平和な北の国では混血児だからと言って命の危機に怯えることはありませんでした。でも、このウィンキーにしては小さ過ぎて、ギリキンにしては大き過ぎる中途半端な身長……やはり、小さなギリキンの子共達の目には奇異に映るらしく、よく「巨人! 巨人!」と背が原因でいじめられました。だから、どうにか周りに認めてもらいたくて、唯一人並みにできた勉強をひたすら一生懸命にしたのです。やがてその成果が出始めると次第にみんなに認められるようになり、周囲が私に笑顔を向けてくれるようになりました。褒めてもらえるのがうれしくて、みんなに喜んでもらうのがうれしくて、それから私は更に勉学に励むようになり、ついにはエメラルドの都の文官の採用試験にも受かることができました。エメラルドの都が混血に優しいことも国に仕えることを決めた理由の一つですが、何よりの理由は私が何か思いつく度にみんなが浮かべてくれる笑顔がうれしかった。みんなの笑顔のため、みんなが平等に生きられる偏見のない世界を作るためにこの頭脳を役立てたかった。……最初はそんな些細な理由で国に仕えることを決めたのです。しかし、そんな人に喜んで欲しくて得た知識を私はいつの間にか戦争の――人を殺すことの道具としか使用しなくなっていました。本来の目的をすっかり忘れてしまったのです。これを愚かと言わず何と言うのでしょう……」
「……でも、麦は思い出したんでしょう? 本当にやりたかったことを」
詩衣が言うと――麦は本当にうれしそうな、今までで一番満面の笑顔で笑った。
「はい! あなたのおかげです! ドロシーさん。あなたのおかげで私は本当にやりたかったことを思い出すことができたのです。あなたには何と感謝したらいいのか」
「そんな私は何も……」
「いえ。あなたは私が本来進むべき道をしっかり照らして下さいました。あなたが導いて下さった通りに今度こそ私は道を間違えずに、本当にみんなが笑って暮らしていけるような国をつくっていくことを誓います。本当に本当にありがとう」
麦は詩衣の手を握る手に力を込めるとそう深く感謝の意を述べる。
「麦……」
その時、今まで流れていた音楽が止まった。
「……ちょうど曲が終わりましたね。話が長くなってすみませんでした。でも、とても楽しかったです。それでは次の方」
そう麦は最後に彼女の手をもう一度強く握ると笑顔で詩衣の手を離す。
「ありがとう! 麦! 私もとっても楽しかった!」
詩衣もそう笑顔で麦のもとを去った。




