特別で大切
「はぁ。はぁ。私、何やってるんだろう……。こんなところまで逃げ出して……。みんな心配してるだろうな。ここは西の魔女の領地なのに……」
走り疲れて我に返った詩衣は息をきらせながらそう呟いた。
詩衣は一心不乱に走りに走ってみんなと一緒にいた川からは随分離れた場所まで来てしまった。
やっと立ち止まった詩衣は自分の短絡的な行いに自己嫌悪に陥る。
「それとも私なんかいなくなっても関係ないかしら? 私なんてどうせ何もないつまらない人間だもの……。みんな私のことなんか……」
「ドロシー!」
「わん! わん!」
やっと詩衣に追いついた太陽とトトが叫んだ。
「太陽! トト!」
「ド、ドロシー! よ、良かった! と、とっても心配したんだよ! ひ、一人で行動しちゃだめだ……!」
「心配? 私なんかを本当に心配しているの? いなくなってせいせいしているんじゃないの!」
いつもの詩衣なら素直に彼らに感謝するところだが、今の彼女にはそんな余裕はなかった。
詩衣がそう噛みつくように言う。
「い、いなくなってせいせいするなんてそんなことあるわけないだろう! ね、ねぇ。ど、ど、どうしたの? ド、ドロシー。き、君何か変だよ? ふ、普段の君ならそんなこと絶対に言わないじゃないか。か、顔も真っ青だし……。な、何かあったの?」
「普段の私って……太陽に私の何がわかるって言うのよ? 本当の私のことなんて何も知らないじゃない! ……いいわ!」
そこで詩衣は全てを投げ出すような投げやりな大声を出した。
「さっき私があなた達に話そうとしたことを教えてあげる! それは私がこの国に来た方法! 私この世界へはビルの屋上から飛び降りて来たのよ! 自殺しようとしたんだわ!」
「じ、自殺……?」
詩衣の話す言葉が理解できなかったのか、太陽は一瞬きょとんとした顔をした。
ただ言葉の持つ異様な雰囲気はわかるのか、その表情は不安げだ。
「そう! 自殺! あの日私は自分で死のうとビルの屋上から飛び降りて――そして、気づいたらこのオズの国にいたの!」
「し、し、し、死のうって……! な、何でそんな愚かなことをしたんだい! い、い、生きていたから良かったものの、もし、本当にい、い、命を落としていたら、と、と、取り返しがつかないことになっていたんだよ……!」
彼女をもし失っていた場合の時を想像したのか、太陽が血の気の失せた顔で詩衣を咎める。
「愚かなこと? そうね! 確かに賢いとは言えないわ! でも! あの時の私にはそうするしかなかったのよ……! ……私……お姉ちゃんがいるの……」
詩衣はくしゃりと顔を歪ますと、絞り出すようにそう言った。
先ほどまでの興奮した状態から様子を一変させ、小さな声でまるで一人言を言うように話しを続ける。
「すっごく優しくてきれいで髪もまっすぐな妹の私から見ても完璧なお姉ちゃんなの……。みんながみんな、両親でさえ私とお姉ちゃんを比べたわ。私は何をやっても『普通』で……そんなにだめってわけじゃないんだけど、どんなに頑張ってもいい! っていうのが一個もないの。私なりに周りの期待に応えようとはしたんだけど……だめだった……。みんな私を見てはつまらなそうに目をそむけるの……。お姉ちゃんさえも私を見ては悲しそうな顔をしたわ……」
そう太陽に語る詩衣の脳裏には文明国での出来事が駆け巡っていた。
実は小さい頃は詩衣と姉の関係は今のような拗れてしまったものではなかった。
むしろ、優しくて賢い姉に詩衣はよくなつき、また姉もそんな詩衣を大変かわいがってくれていた。
そんな自他ともに認める仲の良い姉妹だったのだがしかし、詩衣が年齢を重ねるにつれ、二人の距離はじわじわと離れていった。
――なぜなら、詩衣が成長する毎に彼女と姉の違いに周囲が気づき始めていったからだ。
きっかけはひらがなの覚える早さ。
姉は幼稚園に入園する前から字が書けたが、詩衣は小学校で習い出すまで自分の名前さえ書けなかった。
「お姉ちゃんは教えなくても自分で絵本を読んでいたのにあんたは何でなんだろうね? 同じ姉妹なのに……」
そんな詩衣に両親はそう心底不思議そうに首をかしげていた。
次に逆上がり、水泳、九九……どれをとっても詩衣は姉よりできるようになるのが遅く、またその出来も劣っていた。
「お姉ちゃんはできるのに何であなたはできないの?」
「お姉さんはあんなに優秀なのだから君ももっと見習わないと」
姉と詩衣を比べては、人々は口々にそう言った。
詩衣を詩衣として見ているのではなく、姉の妹としか見ていない周りの声に詩衣は怯え、萎縮し、次第に自分がそんな扱いを受けるのは姉のせいだと何の罪もない姉のことを恨むようにまでになっていた。
――そんな詩衣の負の感情が最高潮に達したのは詩衣が中学の三年生に上がった時だった。
実は詩衣は現在高校受験真っただ中の受験生だ。
受験は学力という人のたくさんある要素の一面だけだが、明らかに他人との優劣をつける競争だ。
残念ながら詩衣の学力はいたって平均的で、その競争に関して優れた競争者とは言えなかった。
しかし、そんな詩衣に対して姉は有名な進学校に通っているいわゆる勝者だった。
「お姉ちゃんと同じ学校に行けるように頑張りなさい」
詩衣の平均的な学力ではとても合格は望めるものではなかったが、周りはそう姉と同じ学校に通うことを詩衣に命じた。
別に詩衣は姉と同じ学校に通いたいとは一度も思ったことがなかったのだが、両親や先生にまでそう言われては詩衣に拒否することはできなかった。
詩衣は毎日言われるままに一生懸命勉強をこなしていったがしかし、詩衣の成績は彼女のその努力に反して一向に上がってはくれなかった。
伸び悩む成績に、日に日に大きくなる雑音……。
「はぁー。お姉さんはあんなに素晴らしい人なのに君って奴は……。まるで君はお姉さんの絞りカスだな。君はお姉さんにいいところの全てを持っていかれて生まれてきたんだ」
しまいにはそんな風に酷い暴言を吐かれ、失望のため息さえつかれた。
――何より決定的だったのはそんな精神的に限界に近づいていた詩衣が交わした姉との会話だった。
「おかえりなさい。詩衣。ねぇ。あなた大丈夫? 今日もこんなに遅くまで勉強して、最近根を詰めすぎなんじゃない?」
夜遅くに塾から帰宅した詩衣を出迎えた姉がそう遠慮がちに声をかける。
「しょうがないでしょ! 私はお姉ちゃんみたいに頭が良くないからこれぐらい勉強しなきゃ間に合わないのよ!」
受験が間近に迫ってき、日々焦燥に駆られ続けている詩衣には「ただいま」の一言を言う余裕もなかった。
「そんなことは……あれ? 何か落ちたわよ?」
その時、詩衣の鞄からひらりと落ちた一枚の紙を姉が拾う。
「よ、余計なことしないでよ!」
詩衣は慌ててその紙を姉の手から引ったくったが、姉はその紙に記されているものをしっかり見てしまったようだ。
それは今日塾で返却された模試の結果だった。
ここ数ヶ月間詩衣は寝食さえ後に回し、何よりも勉強を優先して頑張った。
自分でも今までにない手応えを持って今回の模試に挑んだのだがしかし――結果は散々だった。
近くの公立高校に通うには十分だったが、姉と同じ学校を合格することは不可能だということをその紙は残酷な程はっきりと示していた。
詩衣が今日の帰りが遅くなったのもこの結果に対しての叱責を塾の講師から受けていたからだ。
「詩衣……」
紙を握りしめたままうつむく詩衣の名を姉が呼ぶ。
また受ける叱責を覚悟して詩衣が恐る恐る顔を上げると――姉は怒るでもなく、詩衣の顔をただただ悲しそうに見つめていた。
「お姉ちゃんにまで呆れられた……」
――姉のその表情に今まで何とか堪えていた詩衣の中の何かが弾けた。
「もう耐えられなかったの……! 周りの人達の目が怖くてしょうがなかった! お姉ちゃんと比べられるのが辛くて……! 私何かだめだって言われるのが悲しくて……! それでビルから飛び降りたの。こんな世界いらないって……」
そこまで話すと詩衣は拳を強く握りしめた。
「誰でも望まれて生まれてくるなんてそんなの嘘……! だって、私はお姉ちゃんのおまけだもの! それもみんなが見もしないで捨てるようなガラクタよ! そんなガラクタなんて誰もいらない! みんなお姉ちゃんさえいれば十分なのよ! 私なんて生まれてこなければ良か……」
「そんな風に言っちゃだめだ!」
詩衣と出会ってから今までで初めて震えも怯えもしていない強い口調で太陽が怒鳴る。
「太陽……?」
「僕はドロシーが生まれてきてくれて良かったよ。……だって、ドロシーは僕に臆病だからこそ頑張る勇気を教えてくれたんだ。弱虫な僕を認めてくれて、かっこいいって言ってくれたんだ……。だから、生まれてこなければ良かったなんて言わないでよ。だって、君はガラクタなんかじゃない。僕の特別で大切な人なんだから」
「特別で……大切……?」
「そう。誰よりも特別で大切だよ……ひぐっ……!」
もう一度そうはっきりと言い切ってから、太陽は堪えきれなくなったように嗚咽をこぼした。
二つの金色の目からはまるでダムが決壊したように一気に大粒の涙が流れ始める。
「……なんであんたが泣くのよ」
「だ、だって……!」
「や、やめてよ。あんたの泣き虫はうつるんだか……ら!」
そう言う詩衣の目からもぼろぼろと涙がこぼれた。
「ドロシー……」
「ね、ねぇ? 私、生きていてもいいのかなぁ? こ、この世界に生まれて良かったのかなぁ? ずっと……! ずっと! 生きていることが後ろめたくてしょうがなかったの! だって、みんなお姉ちゃんばっか! お姉ちゃんと比べられて酷いこと言われる以上に比べられることで悲しそうな目をされることの方が辛かった……! お姉ちゃんさえいればいいって! お姉ちゃんみたいになれない私なんていらないってそう突きつけられているみたいで! そんな誰からも必要とされない私が生きていていいのかな……?」
詩衣が顔を涙でぐちょぐちょにしながら太陽に問いかける。
「い、生きてていいんだよ! だ、だって、ぼ、僕にとって君は必要だもん! ド、ドロシーがいなかったら僕はまだキツネ達に怯えていたかもしれない! じ、自分には何もできないってあのまま縮こまったままでいたかもしれない! ド、ドロシー! き、君はそんな僕を変えてくれた大切な大切な人だよ! き、君がこの世界に生まれてきてくれて本当に本当にうれしいよ……!」
太陽の目からはあいかわらず涙があふれていたが、その瞳には一欠片の嘘も含まれていなかった。
「太陽……」
「だ、だからもうそんな辛そうに泣かないで?」
「っ……!」
太陽はそう詩衣に近づくと、涙が伝う彼女の頬をその大きな舌でべろりとなめた。
トトはまだしも太陽に、しかも顔をなめられるのは初めてのことだったので、驚きのあまり詩衣の涙が一瞬止まる。
「へ、へへっ。や、やっぱり僕の涙と一緒でドロシーの涙もしょっぱいね」
「……もう。バカ。…………太陽。ありがとう……」
詩衣はそんな太陽に呆れた声を出しながら、感謝の意を表した。
先ほど言えなかった分まで心を込めて強く……。強く……。
詩衣の目からはまた涙があふれてきたが、今度の涙は悲しみの涙ではなかった。




