第5話 おっさん、空気を読む
おはよう、ヴェッカ、ミレーヌ。
引っ越して一月弱か。朝っぱらから騒がしいのはよくあったが、怒鳴り声の喧嘩じゃなくて挨拶ってのはいいね。恥ずかしながら、にやついちまう。
ヴェッカも随分と食材を切るのが上手くなった。今までは全部商会で食ってたから仕方ないが、もし独立して出来ません、だと困るのはこいつだ。
教えてやれてよかった。大半はミレーヌが教えてたし、ヴェッカが姉ちゃん姉ちゃんと賑やかで、俺は俺の好みの茶々を入れてただけだがな。
食事前の祈りの言葉は、俺が唱える。最初の時、何だか言葉にならなくて情けなかった。こう、思い出したんだよ、父さんが唱えてたのを。
「あっ。今夜は俺、皆とご飯食べに行くから、帰りは遅くなる」
「ああわかった。楽しんでこいよ。夜十の鐘までには帰ってこい」
ヴェッカが元気よく返事をした。敬語じゃないのも、もう慣れた。家の中限定だが、あまりうるさく言うのもな。……家族の仲って奴だよ。
うん? どうしたミレーヌ。食事が進んでないな。茶パンが厚切り過ぎたか? 尋ねてみたら、何でもありませんと言ってすぐに茶パンに齧りついた。
無いならそれでいい。
何て流石に思わんよ。この娘は、耐えて我慢をするタイプだ。特にヴェッカの前では。
商会に着いたら、いない時に聞いてみよう。
よし、出かけるか。もう三人で家を出るのも慣れたもんだ。ヴェッカの声の大きさは慣れないが。誰に向かって行ってきます、なんだか。
ルージェット市場は朝市でもう賑わってた。旨そうな匂いの柑橘だ、明日は早起きして買うか。ん、取り置きしときますって? ありがたい、帰りに貰うから五個くらい包んでおいてくれ。
ミレーヌはさっきからしゃべってない。視線はあちこちに定まらず、手はもう片方を握っている。
「ミレーヌ。あんたも欲しいものあるなら、取り置きしてもらうぞ。どうだ?」
「あっ、俺! あの黄色くて長いやつ食べたい! 今!」
「俺はミレーヌに聞いたんだが。まあいい、買ってやる。すみません、それ三本下さい」
ヴェッカのやつ、随分と遠慮が無くなったもんだ。まあ、うん、旨い。随分と甘くて柔らかいし、手で剥けて楽だ。……食べないか、ミレーヌ。
ああ、わかってる。ここだと、そんな気分にならないんだよな。
さっきからある、等間隔の足音のせいだろ。
仕事の終わった夕方、帰路の俺はミレーヌとともに歩いていた。断られても引かないとはね、しつこい野郎に目を付けられたもんだ。っと、足音が聞こえやがる。複数か、厄介だ。
市場の通りは出るか、迷惑はかけられん。
夜になったせいか、涼しい風で汗が抜けて気持ちいい。灯りのついた家々からの、香辛料の効いた腹の空く匂い。さて、旨い飯の前の、もう一仕事だ。
ミレーヌの肩に軽く手を置いて、俺は足を止める。細い肩だよ、震えさせてすまんな。
「ミレーヌ、先に少し歩いてくれ。すぐ追いつく」
肩が上がり、ミレーヌが頷く。足早に進む細い姿。しばらく眺めてから、俺は背後に向かって口を開いた。
「さっさと出てこいよ、いるのはわかってる」
人けの失せた通りを、俺の声が走り抜ける。返事の代わりに、じゃり、と砂を踏む音がした。
「あんた達は何モンだ? 俺の娘に何か用か」
「こんばんは、お父さん。怪しい者ではないです」
はっ、挨拶から来たか、合格。二十歳ぐらいの、背の高い男。青い上着の、小洒落た服は冒険者じゃない。そして後ろにいる細身の陰気な方、こっちは強そうだ。
「俺はカルロだ。最近、イレーユを付け回してただろう。今朝もだ。怪しくないとか舐めてんのか」
「見守ってただけですよ。それに、彼女とはもうデートもする仲なんです」
舌の動きは滑らかだ。聞こえなかったか?
もう一度、確かめる。
「本当か? イレーユからは聞いてないぞ」
「恥ずかしがっているんです。ほら、初めての恋人ですし」
「誰が、誰の恋人だって?」
「僕が、イレーユさんの恋人です」
「何だそうだったのか、悪いな喧嘩腰になっちまって」
語るに落ちた。それなのに、俺が愛想笑いを浮かべたら、へらへらとうすら笑いしやがって。何寄ってきてやがる、ふざけんな。
ただ俺も近づいたら、陰気な男が一歩進んだ。護衛ってところか、それなりなとこの息子かね。
「わかってもらえて嬉し」「ところでさ」
街灯が届かない薄闇にも目が慣れてきた。周囲、伏兵は問題無し。膝も平気だな、踏み込みはいける。
俺は立ち止まり、男の声を遮った。
「俺の娘はイレーユじゃなくてミレーヌだ。恋人なのに、名前を間違うっておかしいよな?」
「なっ!? そ、それは」
馬鹿みたいに口ぽかんと開けんなよ。こんな程度のブラフに釣られるなんて情けねえ。だから相手の怯えを恥ずかしがってるとしか見えないんだ。
きっちり現実見せてやろう。
「あんたが勝手に付きまとってるだけだろ。ちゃんと断ったって、ミレーヌから聞いてる。ケジメつけて、俺の娘にはもう近づくな」
「きゅ、急に何ですか失礼なっ! なぁ」
男が目線を右に送る。だが細身の男は、手すら動かさずに首を振った。さすがだ、こいつはわかってる。
「……坊っちゃん、ダメです。相手が悪い」
「何でだ? お前なら、こんなおっさん」
「詰みだよ。チェックメイト前に決まることもあるって覚えとけ」
俺の言葉に、坊っちゃんとやらが身体をびくりとさせた。少し威圧しすぎたか。
俺の距離。抜剣で踏み込めば、下がったとて容易に届く。護衛となりゃ、坊っちゃんのお痛に付き合って怪我させたなんて、免職ものだ。
なおも食い下がる男に対し、護衛が頭を下げる。
「約束します。私エイベルが、もう坊っちゃんをご令嬢に近づかせはしません。だから、見逃し下さい」
構わん、約束だけは覚えとくよ。そう言うと、エイベルは男を強めに促した。
はいはい、帰り道は気を付けろよ。いや、脅しじゃないからぴりっとしなくていいって。
ふう、一件落着ってとこか。
ん? あの坊っちゃんの名前、何て言ったっけ。
◇◇◇◇◇
待たせたな、ミレーヌ。もう平気だよ。
何でそんなにおどおどとしてるんだ?
「あ、あのカルロさん。すみません、色々ご迷惑かけてしまって」
なるほどね。気にしいだったな、ミレーヌは。
よし、ここは年長者として対応すべきところだ。
「ああ、そうだな一つ言っとこう」
「は、はい」
「もっと気軽に頼ってくれて構わんよ。家族とまでは言わないが、俺はあんた達の保護者だろ」
暗い外で、ミレーヌの目の光が明滅した。じわりと滲んだように光が大きくなる。
馬車が、ゆっくりと隣を過ぎ去っていった。
「ありがとうござい」
ああ畜生! 俺の腹が鳴ったせいで、言葉が止まっただろこれ。感動的な場面でこれか。空気読め。
……腹減ったな。折角だ、外で食べてから帰るか。ヴェッカには内緒ってことで。
はい! とミレーヌはもう笑っていた。
何だ。俺の腹、いい仕事するじゃねえか。




