39話 レン
漆黒のオーラを纏ったレンが、一足飛びにクロエの懐へと肉薄する。
異形へと変貌し、理性を失ったクロエは、周囲を破壊し尽くしていた。その無防備な巨体に対し、レンは災厄化した右腕を叩きつける。
ドォンッ!
凄まじい衝撃に、クロエの巨大な体がぐらりと揺らいだ。
そのままに、右へ、左へと踏み込み、災厄の爪で狂乱する巨体を殴り、えぐり、その暴走の勢いを削ぎ落としていく。
「ガアアァァッ……!」
たまらずクロエは悲鳴のような絶叫をあげ、その巨体を後ろへと大きく飛びさり、レンから距離を取った。
それだけで終わるはずもない。正気を失ったクロエは、爆発的な咆哮を放った。
「ぐっ……!」
文字通り空気を引き裂く衝撃波が、レンの肉体を直撃し、その体を容赦なくえぐる。鮮血が宙に飛び散った。
それでも、レンは一歩も引かない。
地面を蹴って一気に間合いを詰め、逃がすまいと跳躍する。異形と化したクロエの巨体、その盛り上がった分厚い肩の筋肉に、レンは災厄化した牙で噛みついた。
ズブリ、と、肉を貫く音を立てて奥深くまで刺さる。
「ガァ……ッ!」
だが、己の分厚い肉はそのレンの牙をガッチリと受け止めた。防がず、クロエはあえてその牙を受けたのだ。異形の腕をレンの腹部にそっと添える。
次の瞬間、その掌から凄まじい魔力が解放された。
「ぐっ……あ……っ!?」
爆発的な炎の塊が、零距離でレンの腹部を容赦なく焼き尽くす。内部を焦がし、あまりの衝撃にレンは突き刺していた牙が抜ける。
凄まじい爆風と衝撃波がレンの体を直撃し、彼はたまらず血を撒き散らしながら、後方へと吹き飛ばされた。
ぐうっ、と息を詰まらせながら、吹き飛ばされたレンは地面を転がり、身体を起こして見上げた。
目の前で揺らめくのは、クロエが掲げた腕から放たれた余波だ。それは彼女が本来持っていた魔法の域を遥かに超越し、周囲の空気ごと焼き焦がすほどの凶悪で強烈な魔力をもっていた。
倒れ伏すレンの姿を捉え、クロエは再度すっとまっすぐその異形の腕を前に突き出した。
轟音と共に、すべてを灰に帰さんとする強大な炎がレンめがけて一直線に迫る。
「っ……!」
レンの掌から、バチバチと青白い火花が散った。クロエに手のひらを向ける。
レン自身の魔力を超えた力が渦を巻く。
放たれたのは、彼が培ってきた通常雷魔法。しかし、その威力は何十倍も膨れ上がっている。咆哮する稲妻は、まるで意思を持った蛇のように激しくとぐろを巻き、閃光を放ちながら迫り来る炎へと突っ込んでいった
轟音と共に、雷の閃光と紅蓮の炎が激突する。
凄まじい爆発が、戦場の一帯を明るく照らし出した。
熱風と衝撃波が吹き荒れる。
だが、災厄化したレンはその爆煙のただ中を、一歩も怯むことなくまっすぐに突き抜けた。視界を遮る黒煙を切り裂き、彼の姿が一気にクロエの目前へと迫る。
煙がサーッと晴れたその瞬間。
虚を突かれたように目を見開いたクロエを、レンは全身全霊の力を込めた一撃で、容赦なく地面へとたたき伏せた。
ドォンッ!! と大地が悲鳴を上げ、衝撃波が周囲の土砂ごと吹き飛ばす。
暴虐の限りを尽くしていたはずのクロエが、ついにその巨体を地へと這わせた。
レンは、金の瞳でその体を見下ろす。
だが、ドクン、と。胸の奥で、重い鼓動が響いた。
思考の輪郭が、ドス黒い泥の底へ沈んでいく。
違う。俺は、クロエを……。
脳裏で叫ぶはずの意志は、とめどなく込み上げる底知れぬ飢餓感にかき消されていった。足りない。もっとよこせ。目の前にあるその肉を食らえ。すべて貪り尽くせ。
「ガァァァアアアッ……!!」
人間のものとは思えない獣の咆哮が、レンの喉から絞り出される。
レンは、止めどなくあふれる破壊衝動に突き動かされた。
ドォンッ! ドォンッ!
容赦なく、何度も、何度も、クロエにたたきつける。
それだけでは収まらない。異形と化した爪が肉を裂き、レンの牙がむき出しのその肉を容赦なく噛み千切った。
「あ……あぁ……っ!」
口の中に広がる、鉄錆と肉の味。
クロエの肉を食らい、自らの血肉へと取り込んでいく。
己が救いたかったはずの少女を、自らの手で引き裂き、喰らい続ける。
「……俺は、俺は、何をやっているんだ……?」
頭の奥で、かすかに残っていた人間としての心が悲鳴を上げる。
守りたかった少女が。
クロエが。
他でもない、自身の手で食われている。
「やめてくれ。動くな、その手を止めろ。なんで、どうして俺は!」
だが、いくら内側で叫び続けようとも、災厄化した肉体は飢餓感に支配され、意志に反して勝手に暴れ続ける。
視界が真っ赤な血に染まっていく。鈍い音を立てて肉片が飛び散り、血の匂いが強烈に満たしていく。
いやだ、いやだ、嫌だ!
こんなのは俺じゃない。こんなことをするために
誰か……! 誰か、俺を止めてくれ……ッ!
涙すら血にまみれて零れ落ちる。
しかし、どれほど絶望の叫び声を上げようとも、魂を焼き尽くす災厄の衝動は、決して止まらなかった。
レンの意識は、底知れぬ闇のなかに沈み込んでいった。
外の世界の咆哮も、血と肉を踏み荒らす音も、もう何も聞こえない。静寂だけが支配する空間で、レンは両膝を抱え、ぽつりと座り込んでいた。
一体、俺は何のためにあがき続けたのだろう。
「分からない……。俺は、どうすればよかったんだよ……? なあ、教えてくれよ」
レンの隣に、ふわりと、半透明の少女の姿が浮かび上がる。シエルは痛ましげに眉をひそめ、どうしようもなく悲しそうな顔で、崩れ落ちたレンを見つめていた。
「……正直、分かってたんだ。俺はいつだって失敗ばかりで、今回だってどうせまた何かやらかすんだろうって。でもさ、頑張ったんだよ。自分なりに、必死に、必死に……。なのに、その結果がこれかよ」
自嘲する声が、震えている。
「無理なんだよ。うまくいかないんだよ! どう頑張ったって、どうやったって、結局最後にはめちゃくちゃになるんだ! そんなの分かってる、頭では最初から分かってたんだよ……っ! でも、なのに、なんで俺は、クロエ一人助けられないんだよ……!」
「ああ、俺なんてさ……。どうせ何にもなれない、どうしようもない屑だよ」
その背中は痛々しく、あまりにも無力だった。レンは頭を抱え、ただ闇の底にうずくまる。
「ううん、そんなことないよ」
かき消すように、優しく、けれど芯のある声が響く。
「レンはね、いっぱい頑張ってるよ。こんなにボロボロになって、自分の身も顧みずに戦って……」
「頑張ったって、結果が伴わなきゃ意味ないんだよ!! そんなの、最初から何もやらないのと同じだろ!むしろもっと悪い!」
溢れ出る涙を拭うこともせず、レンは自分の頭を何度も叩いた。
「みんなに迷惑かけて、足引っ張って、やっぱ俺なんか、しゃしゃり出てこなきゃよかったんだ。ギルドマスターに最初から全部任せてればよかったんだよ。シエルにだって、あんなに止められたのに……!」
止まらない。一度壊れてしまった口から、醜い本音がとめどなく溢れ出ていく。
「お前なんかのせいで……!」
脳内で、もうやめろと正気が叫んでいる。もう、誰に向かって吐いているのかも分からない。自分自身か、運命か、目の前でただ悲しそうに揺れる少女か。
「なんで、俺にこんな力を与えたんだよ……! なんだよこれ、俺なんかにこんな重いもの背負わせるなよっ!」
その身勝手な叫びに、シエルは小さく肩をふるわせた。
分かっているのに、傷つけると分かっているのに、弱音を止めることができない。
「本当のことを言うとさ……俺、何も分かってなかったんだよ。いざとなったら何とかなるって、いつもその場の気分で調子のいいこと言って、格好つけて……それが俺なんだよ……」
あぁ、もうダメだ。完全に壊れてしまった。
「俺なんかには、責任なんて背負えないよ……。無理なんだよ……っ!」
ごめんなさい、と、レンの口から嗚咽が零れ落ちる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ! 俺なんか、俺なんか……っ!」
「俺なんか、ダメなんだ」
暗い底へと沈んでいく。
あがき続けたその果てに行き着いたのは、あまりにも救いのない自虐と絶望だった。自分が嫌いで、世界が嫌いで、何より、自分の無力が許せない。
その崩れ落ちたレンの肩に、シエルはそっと寄り添う。
半透明の輪郭が、悲しみで微かに揺らいでいた。それでもシエルは、優しく微笑むように首を横に振る。
「……ううん、そんなことない。レンは、ちゃんと頑張ったよ」
声は震え、だが、彼女の手はレンの頬へとそっと添えられる。
「結果が出なくたっていい。間違えたっていい。……だって、レンのその痛いくらいの優しさは、本物だったから」
「シエル……?」
「私ね、少しの間だけどレンの傍にいられて本当によかった。……だから、自分を嫌いにならないで」
紡がれる言葉は、どこまでも温かく、そして切なかった。
シエルの身体の光が、ふわりと強くなる。彼女自身の存在をすり減らし、暴走するレンの魂を内側から抱き締め、その小さな両腕で一身に引き受けていく。
「シエル……っ! 何を……!」
レンが絶叫し、その腕を伸ばす。
しかし、シエルの姿は霞のように、光の粒子となってほどけていく。彼女は最後の最後まで、愛おしそうにレンを見つめ、静かに微笑んだ。
「大丈夫だよ、レン。……いってらっしゃい」




