第一話 断頭台で覚醒した黒竜
「相変わらずどんくさいわね! 刺繍も満足にできないの!?」
パシン! 淡い百合の香りとともに振り上げられた枝鞭が、容赦なくシャディアの頬を打った。
「ご、ごめんなさい、リリアーナ……」
痛む頬を手のひらで押さえながら、シャディアはリリアーナに許しを請う。手入れされていない黒髪から覗いた金色の瞳を見て、リリアーナは得体の知れない恐怖を覚えて小さく身震いをした。
「その目で見ないで! 呪われた黒髪の忌み子のアンタが姉なんて、本っ当に信じられない。 アンタなんて生まれてきたこと自体が間違いなんだから!」
「う……!」
ピシャリと、再びリリアーナはシャディアを打つ。シャディアはただ痛みに耐えながら、床にうずくまった。
シャディアとリリアーナは、ヘイズ子爵家に生まれた双子の姉妹だ。双子の出産をよろこんだのも束の間。この国で忌み嫌われる黒色を宿した我が子を、両親は激しく嫌悪した。
対して妹のリリアーナは桃色がかった金髪と水色の瞳を持ち、その見た目の愛らしさから随分と可愛がられた。
「アンタみたいな血縁がいるなんて、聖女の名が泣くわ! 消えてしまえばいいのに!」
繰り返される暴力に、シャディアは心を閉じて、ただ耐えるしかなかった。決して声を上げてはいけない。何がリリアーナの癇に障るか分からないからだ。
(……大丈夫。リリアーナに叩かれるくらい、痛くはないわ。お父様、お母様に比べたらまだマシよ)
頭をかばう両腕が、痛みで熱を持つ。まともな治療も受けられず、まだ治っていない傷の上でしなる枝鞭は、鋭い痛みをシャディアに与えた。
「わたくしの可愛いリリアーナ? 何をしているの? もうすぐ王太子様がいらっしゃるわよ」
母の声に、リリアーナの暴力が止まった。
「え? もうそんな時間なの? オーリック様にお渡しするハンカチの刺繍が終わってないのに!」
「ハンカチは次の機会にして、早く身支度を整えてしまいなさいな」
「はぁい、今行くわ。――いい、シャディア。明日までにこの刺繍を完璧に仕上げるのよ」
「わ、分かったわ……」
淡い百合の香りがシャディアの鼻孔をくすぐる。その清廉な香りは、この国の守護神たる竜に愛された聖女だけがまとう香りだった。
軽い足音とともに淡い百合の香りが遠ざかる。そうしてシャディアは、やっと顔を上げた。
「……っ」
枝鞭で打たれた頬と両腕がじくじくと痛む。勝手に滲む涙を噛み殺しながら、シャディアはすぐ傍に捨てられたハンカチを拾った。
そこには王家を司る獅子が描かれている。しかし丁寧に施されたその刺繍を、リリアーナはお気に召さなかった。
(――明日は王太子様とリリアーナの婚約発表の日。それまでになんとしてでも刺繍を完成させないと……)
今夜も眠れぬ夜を過ごすしかない。掃除、洗濯、料理、母と妹の言い付け。シャディアには十分に休む時間などなかった。
そして翌日。婚約発表に相応しい、晴天の日だった。シャディアがいつものように早起きをして朝食を作っているところに、王城の騎士たちが現れた。
「――この女で間違いない。黒髪だ」
嫌悪感を隠さない鋭い目で睨みつけられ、シャディアは身を怯ませる。
「あ、あの……何か……」
「捕まえろ」
「きゃあ!」
一切の力加減なく、乱暴に腕を掴まれる。そして麻袋を頭にかぶせられ、シャディアの視界には何も映らなくなった。
「やめてください! お願い! 放して!」
乱暴に担がれる身体。どこへ連れて行かれるか分からない恐怖に、シャディアは混乱した。
(どうしてお城の騎士が!? 怖い……! 誰か助けて!)
シャディアの助けは誰にも届かない。連れ去られてからどのくらい時間が経っただろうか。シャディアには、自分が薄暗い場所から、どこか明るい場所へと移されたことが分かった。
(大勢の人の気配が、する……?)
人々がざわめく声が聞こえる。妙に熱気を帯びていて、それが余計にシャディアの恐怖心を煽る。
(一体何が起きてるの……!?)
背後に人の気配がして、荒々しく麻袋がはぎとられる。シャディアの黒髪があらわになった瞬間、周囲からどよめきが起こった。
突然さらされた眩しい太陽の光に、シャディアはその金色の目を閉じる。薄く開いた目に映ったのは、ぐるりと自分を取り囲む群衆の姿だった。
「いや……!」
直感的な恐怖で、この場を立ち去ろうとするシャディア。しかし背中できつく縛られた両腕が悲鳴を上げ、背後に立つ屈強な騎士に縫い留められただけだった。
「みなの者、静まれ!」
響いた声に、シャディアはハッと視線を向ける。そこには、妹リリアーナと王太子オーリックの姿があった。
「今日は竜の加護を授かりし聖女リリアーナと王太子である私の婚約というめでたき日だ! 私たちの絆の深まりとこの国のさらなる発展を願って、忌み嫌われたる黒髪の子を処刑する!!」
それは、民心掌握のために王太子が描いた『筋書き』だった。
オーリックの宣言に群衆が湧き上がる。シャディアは彼の言葉が呑み込めず、ただリリアーナとオーリックを見つめることしかできなかった。
「忌み子を殺してこの国に繁栄を!」
「王太子様と聖女様に祝福を!」
リリアーナから淡く香る清廉な香りが、さらに群衆を熱狂させる。ようやく状況が呑み込めてきたシャディアは、愕然とした表情でリリアーナを見た。
「リ、リリアーナ、嘘よね……?」
「――ごめんなさい、お姉様。わたしだって本当はこんなことしたくない。でもわたしには聖女として、この国を守っていく義務があるの」
さも姉を思う心優しい聖女の顔で、リリアーナは言った。
「これが、お姉様がこの国のために唯一できることなの。だからお願い、受け入れて」
「ああ、聖女様……なんで慈悲深い……」
「あんな黒髪を厭わず姉と呼ぶのか……」
シャディアは目の前が真っ暗になった。ただ黒髪で生まれたというだけで、殺されるほど蔑まれなければならないのか。ただ生きていることさえ、罪だというのか。
「い、いや……」
殺せ殺せと、群衆が叫ぶ。扇子で口元を隠しながらも、笑っているリリアーナの気配がする。
「いや! やめて!!」
無理やり断頭台に跪かせられ、破るようにして服を剥かれる。あらわになったシャディアの細い首筋に、ひんやりと空気が触れた。
処刑人が巨大な斧を振り上げる。
(どうして!? どうして黒髪というだけで私を殺すの!?)
「さようなら、要らない子」
「いやあぁぁぁぁあ!!!」
巨大な斧が振り下ろされるその瞬間。シャディアの金色の瞳が見開かれ、瞳孔が縦に伸びる。そして目が開けられないほどの強烈な光が弾けた。
「――な、なんなの……っ」
突如として発せられた鋭い光に明滅する視界。リリアーナは涙目になりながら、なんとか目を開こうとして気づいた。むせ返りそうになるほど強く香る、百合の清廉な香りが辺りを包んでいることに。
「何、この匂い、――え……?」
リリアーナは、自分の目を疑った。先ほどまで哀れにも泣き叫んでいた姉のいた場所に、見上げるほど巨大な影を見た。
新月の夜のように深く、黒曜石を思わせるほど艶めく巨躯。その中で明星のように一際煌めく神秘的な金色の眼が、リリアーナを見下ろしていた。
「りゅ、竜だ……!」
群衆の中の誰かが叫ぶ。その厳かな姿を見た瞬間、その場にいた誰もが悟った。この黒竜こそ、国を守る竜なのだと。
「……そんな? え? あの忌み子が、守護神様だったっていうの……?」
リリアーナは驚愕で身体を震わせながら、笑おうとして失敗した。そして気づく。自分から漂う、強烈な腐敗臭に。
そんなリリアーナを見つめていた黒竜――シャディアは、前世すべての記憶を思い出していた。この国の建立時代に、王家と絆を結び、この国を守ると誓った日のことを。力を蓄えるため、人間の姿を取って眠りについたことを。そして虐げられ続けた人間の生でのことを。
「――自ら守護神を手放すとは、愚かな……」
シャディアの声は、人々の頭に直接語りかけるように響いた。
「――アンタが守護神なんて嘘よ! 何かの間違いに決まってるわ!」
震える声で、リリアーナが高い叫び声を上げた。シャディアは静かにリリアーナを見下ろすと、残酷な真実を突きつける。
「間違いだったのはあなたの方よ、リリアーナ。聖女の証だと言われたあの香りは、私のもの。近い血筋に移っただけなの」
「ち、違うわ! わたしこそ本物の聖女なの!」
「――では今のあなたの香りは?」
「……え?」
リリアーナは思わず隣を見る。あれほど「良い香りだ」と愛を囁いてくれていたオーリックは、鼻と口元を手で覆い、青い顔をしながら彼女を見ていた。
「ね、ねぇ、オーリック様。わたし、聖女の香りがしますよね……?」
竜の加護を失った偽りの聖女は、その心の醜さが香りとなって現れる。
「近寄らないでくれ! 臭くてかなわない!」
「そんな!?」
リリアーナがカッと怒りに顔を染める。そのとき、晴天の空から光の柱が降りてきた。群衆が空を見上げる。その光の中を舞うように、一際美しく輝く白い竜が降臨した。
白竜が降り立ったとき、その威圧感にオーリックが情けなく尻餅をつく。
「――見つけたぞ、我が愛しの番……」
白竜が低く唸る。その姿を見た瞬間、シャディアは胸に懐かしいような狂おしいような熱が灯るのを感じた。
立派な黒い翼を広げ、まるで誘われるように白竜のもとへと飛び立つシャディア。その背中で、オーリックの縋るような叫び声が聞こえた。
「待ってくれ、シャディア嬢! この国を捨てないでくれ! 私を捨てないでくれ!!」
しかし、シャディアの翼は止まらない。そのまま白竜のもとへと並び、二頭の竜はともにさらなる高みへと舞い上がっていった。
竜の姿が見えなくなったところで、群衆は理解した。――もうこの国に守護神たる竜の加護はない。加護を失くした国の行く末など、決まり切っている。
シャディアが飛び立った世界で、人々はいまさらながらに後悔し、絶望したのだった。




