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きらびやかな社交界。
誰もが憧れる貴公子と、美貌の令嬢。
あるいは、人智の及ばぬ深淵。
異形の魔物と、救世の魔法遣い。
たしかに、それらはこの世界に存在する。
存在するが、私には無縁のものである。
洗濯場の水槽横。手桶で水を汲んでは、タライの中の洗濯物にぶち撒ける。水が跳ねて仕着せが濡れるが気にしてはいられない。
ヒビ割れてごわごわになった手で、タライの中の洗濯物を掴み、洗濯板に擦り付ける。そして引き上げて水を絞る。
雇われの洗濯女中。
キツイ汚い危険の肉体労働。前世の記憶もチート能力も必要ない。仮にそんなものがあったとしても、だから何だと一蹴される人海戦術の名もない駒。
それが私だ。
「ミア、手伝って」
絞り終わった洗濯物を入れたタライを両腕で抱え、屋外の干し場へ行こうとしていたところである。
湧き上がる蜃気楼とともに怒気を背負った同僚ライラが、ずんと目の前に立ちふさがって、奈落の底から這い上がってきたような声で私を呼ぶ。
周りの同僚たちが何事かと興味深そうに顔を向けてきた。
ライラと言えば、なぜ最下層の洗濯女中なんぞやっているんだと言われる程、整った顔立ちをしている。
どんな時も「余裕よ」と、キャップから出した金髪の緩く波打つ後れ毛をサラリと揺らし、澄ましたように笑うのが常なのだが。
今は見る影もない。
般若の面を連想させるような、眉間に深いしわを刻み、目はカッと見開いている。
その手には、羽虫のたかる桶。
蜃気楼ではなかった。ライラの周りを羽虫が飛び回って、そのように見せているだけだった。
「調理場からの洗濯物。
晩餐会の雉を絞めた時の前掛け。今ごろ出してきたのよ!」
ドンと乱暴に桶が台に置かれる。
その衝撃に羽虫がいっせいにブワッと飛び立つ。
同僚たちが「うわぁっ」と鳥肌を立てながら後ずさりした。
晩餐会。
それが行われたのは随分と前の事だったと思う。
準備期間から片付けが終わるまで、連日、この洗濯場で、山体崩壊を起こすほどに積まれた洗濯物と文字通り死闘を繰り広げていた。客間のシーツにまで葡萄酒やら脂やら調味料やら、謎の染みがこびりついて、同僚の何人かが、汚した奴を呪ってやると絶叫していたのは、そこそこ遠い記憶だ。
桶は、羽虫とともに異臭を放っている。
のぞき込んでみると、錆色の血汚れに、点々と無数の白い蛆がいるのが見えた。
まあ、成虫がこれだけ湧いているのだから、幼虫も相当数いるわけだ。
「うわあ」と大根役者も顔負けの棒読みの感嘆詞を口にしながら、目を細めて生物循環の分解者を見つめていた。
「20日よ、20日!
よくこんな臭いモノ放置してたものよね!
取りに来ない洗濯係が悪いとか言って、冗談じゃない!
調理場の連中、鼻に虫が湧いてるんじゃないの?」
腰に手を当てて、怒髪天を衝く勢いのライラ。
鼻に虫が湧く。言うなら、鼻ではなく頭だと思うが。
なんて考えながらも、目下の桶の洗濯物に、なぜかいつも気取っていて尊大に構える調理場の女中たちの整った鼻筋を思い浮かべてしまった。
思わず、「うぇ」と変な声が出てしまう。
同じ事を想像したのか、何人かが、鼻を触りながら、「やめてよ」「最悪」と不快そうな声を上げていた。
それを皮切りに、「調理場と言えばさぁ」と同僚たちが囀り始めた。
「また皿洗いの子辞めちゃったんでしょ」
「え。ついこの前入ったばかりじゃない。もう辞めたの?」
「新人イビリ過ぎなのよ」
「調理場は優秀じゃなきゃ続かないーとか言って、古参連中が威張り散らしてるけど、下働きに優秀もクソもあるかっての」
「そのくせ、料理番には媚びてるし」
「料理番もさぁ、いっつも怒鳴り散らしてるし、なんかずっと不機嫌だし」
「調理場って居心地、最悪」
「その点、洗濯場は良いわよね、お喋りしても叱られない」
「肌はボロボロになるけどね」
「あんたたち! 口を動かすのは良いけど、ちゃんと手も動かしなさいよ」
良く通る太い声が、干し場の出入り口から飛んできて、洗濯場内に響き渡る。
洗濯婦長ネッサ・ブレンネンである。
亜麻色の髪に、日に焼けた肌。縦にも横にも体格の良い姿。彼女が片手でクルミの殻を粉砕する姿を見たことのある女中ならば、その一声に思わず青ざめることだろう。
今だって、水を含んで見るからに重量級になった大きな敷布を、くるくると丸めて軽々と抱えている。その上腕二頭筋と上腕三頭筋、上腕筋、それに前腕筋群の張りとバランスが惚れ惚れするほど絶妙である。
そんなネッサに、「動かしてまーす」と顔色一つ変えず、明るく返事をする洗濯女中たち。
「ミア、これ干しておくから。ライラと一緒にその前掛お願いね」
ネッサは、敷布を自身の左腕に持ち直し、私が抱えていたタライをひょいと片手でさらって、足早に屋外の干し場に行ってしまった。
バサッと豪快な音がしたかと思えば、濡れているはずの敷布が宙を舞い、いっきにロープに広がる。洗濯女中たちが複数人で汗かき悪態零しながらやる作業が、彼女の手にかかれば一瞬である。
洗濯婦長に言われたからには、やるしかない。
桶を挟んで、ライラと顔を見合わせた。
ライラは最早、無の境地に達した顔だ。
どちらともなく「さてと」「やりますか」と溢して、蛆虫たちが踊る桶に手を入れた。
本作をお読みいただきありがとうございます。
近世ヨーロッパ風の異世界を舞台に、魔法とは無縁の下層階級の主人公が、泥臭くもがきながら、鮮やかに汚れを洗濯していく物語です。
時代背景や技術など、現代でも役に立つ(立たないかも)豆知識を詰め込みました。
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