第一曲 いちじく
視線の先には、生徒たちを微笑んで見守る担任教諭がいる。担任教諭である男性が生徒たちに声をかける姿を、じいっと実色は観察中だ。
「田山ちゃん、さよーなら」
教室から出ていく女子生徒が、担任教諭に向かって手を振った。手を振られた担任教諭は、にこにこと綺麗に微笑むばかりで返事をしない。女子生徒が「スルーされた!」と笑っている。
「『ちゃん』をやめたら返事するよ」
前髪を少し直しながら、担任教諭がようやく口を開いた。今朝、寝ぐせがついていたところを気にしているのだろう。そういう小さな仕草でも、黒髪の美しさがよくわかる。ついでに言えば、担任教諭は特別な髪の手入れをしていない。
「え、田山ちゃんは田山ちゃんだから」
「じゃあ返事しない。気をつけて帰るように」
「はーい」
女子生徒は楽しそうに笑って、また手を振った。担任教諭は手を振りかえしはしないが、優しく微笑んで女子生徒を見送っている。
面白くなく思っていたら、担任教諭が顔の向きを変えた。あ、と思ったときには美麗な顔がこちらへ向き、視線がぶつかった。思わず実色は目をまたたく。もしかして、実色の観察に気がついていたのだろうか。まるで頷きのように微笑まれ、気まずさとともに悔しさも覚えた。
こうして真正面から見ると、美しい顔立ちがはっきりとわかる。つまり、相手にも実色の平凡さがはっきりとわかっているわけだ。いや、相手はそんなことくらい、昔からよく知っているのだけれど。
「どうしたの、『飯沢くん』」
「……」
わざとらしい呼び方に眉を寄せると、担任教諭が先ほどの女子生徒のような笑みを浮かべた。反応で遊ばれていると理解し、がたんと鳴らして椅子を立つ。
「さようなら、田山先生」
「はい、さようなら」
「……」
(俺には『気をつけて』は言ってくれないんだ)
またむっとしながら、少し乱暴に足を進める。教室の扉を出るとき、ちらりと背後を振り向いてみた。期待に反して、担任教諭は実色を見ていなかった。当然といえば当然だが、気持ちがすっきりとしない。
もやもやとしながら早足で自宅に向かった。高校が徒歩で通える距離であることは、とてもよかった。でも担任教諭が気に入らない。
「紅埜くんのばーか」
もうごはん持っていってあげない、と唇を尖らせて帰宅する。苛立ちまじりに自分の茶色の髪をかきまぜて、ぶつけられない腹立たしさをごまかした。
「!」
隣家の玄関に照明がついた。時計を見ると夜七時、今日は少し遅い。
リビングでテレビを見つつ、ちらちらと隣家を気にするのはいつもと同じ行動だ。さっとソファから立って玄関に向かうと、すかさず母が実色に声をかけた。
「どこ行くの?」
「隣」
「毎日行ったら、紅埜くんが迷惑がるんじゃない?」
「……」
ぐさっと胸に刺さった。
母の言葉はだいぶ痛いが、迷惑がられるからと距離を置くわけにはいかない。そのまま紅埜は、はるか遠くへ行ってしまう気がする。大学に進学したときだって、紅埜はあっさりひとり暮らしをはじめたくらいだ。だから実色は距離を広げられないよう、しつこく隣へ通っている。
「紅埜くんに、なにか持っていくものない?」
「はいはい、口実ね。じゃあ、これ持っていってあげて」
渡された保存容器を受け取り、なんとなく肩を落として家を出る。口実なのは正しいけれど、あんなにはっきりと言わなくてもいいのに。もやもやする気持ちで隣家のインターホンを押すと、なかから担任教諭でもある幼馴染が顔を出した。
「また来たのか。俺が帰ってくるの、見張ってるんじゃないだろうな」
「いいでしょ、別に。母さんからごはんも預かってきたし」
「よし。あがれ」
「ごはんがなかったら、だめって言った?」
問いに答えはなかった。悔しく思いながら玄関に入って、サンダルを脱ぐ。実色を待たず、先にリビングへと戻る背中を追いかけて声をかけた。
「紅埜くん、おいしいごはん好きだよね?」
「まあな」
「俺も料理けっこうできるよ」
「そうでもないだろ」
意地悪に笑まれ、またむっとなる。こうやっていつも実色をからかうのだ、この人は。
実色のクラスの担任教諭――田山紅埜は八歳上の二十四歳で、隣家にひとりで住んでいる。
もともと隣には田山家が家族で住んでいて、実色の飯沢家と今でも家族ぐるみで仲がいい。紅埜が大学進学で家を出たあとは、紅埜の両親がふたりで暮らしていた。その紅埜の両親も母方の実家近くに引っ越すことになり、家も売る予定だったらしい。でも、売るくらいなら、と紅埜がひとり暮らし先から戻って住みはじめたのだ。それが、実色が中学三年生だった去年のこと。
実色が幼い頃から一緒に遊んでくれていた、大好きな人。紅埜が隣家を出るまで、どこへ行くのもくっついてまわったくらいだ。
紅埜が隣に戻ってきて、いつでも会えるようになった。大人になった年上の幼馴染は相変わらず少し意地悪で、でも基本が優しい。嬉しさから勉強へのやる気も満ちて、第一志望の高校に合格することができた。恋の力は受験も乗り越えられる。
そこまではよかった。
入学式の日、学校教員の列に紅埜の姿を見つけて、実色は動けなくなった。
紅埜はそんなことを教えてくれなかったし、実色が合格した学校の話をしても微笑んでいるのみ。そもそも、高校で教員をやっていること自体知らなかった。仕事へ行くときにスーツではないのも、そういう会社なのだと思っていた。
(逆に言うと、俺も聞かなかったんだけど)
聞かなかった実色も悪いが、教えてくれない紅埜もだいぶひどい。
リビングについていくと、ソファの前のローテーブルに文庫本が置いてあった。紅埜は昔から読書が好きで、以前は紅埜の両親が使っていた部屋は現在書斎になっている。本の背表紙がずらーっと並んでいるのを見るだけで、実色は目がちかちかしてしまう。本を読みはじめると相手をしてくれなくなるので、文庫本をこっそり隠したくなった。
「お、栗おこわだ。おばさんにお礼言わないとな」
「俺が言っておくよ」
「こういうことは自分で言わないとだめなんだよ、覚えとけ」
「ふうん」
隣同士で昔から知ってる仲なのに、と不思議に思いながら、ダイニングセットの椅子に座る。紅埜は保存容器の栗おこわをごはん茶碗に移し、ダイニングテーブルに持ってきた。
「実色も食べるか?」
「俺はさっき食べた」
「そうか。じゃあ、いただきます」
姿勢よく両手を合わせる姿に、つい見惚れてしまう。こういうひとつひとつの動きが綺麗で、外見の恰好よさだけが魅力ではないとつくづく思う。
そもそも実色が紅埜に惹かれたのは、見た目なんて関係ない。優しくて、いろいろなことを知っている年上の幼馴染が素敵だと思っていた。気がついたら好きになっていたのだ。だから外見が違っても紅埜の優しさや考え方、性格がそのままなら、実色は間違いなく恋をする。
栗おこわを食べる姿を見ているだけで胸が高鳴るのは、かなり重症の恋だと思う。実色としては、その重症の恋を成就させたい。
年上の幼馴染に、まずは恋愛対象として意識してもらう必要がある。頭を働かせ、食事をする紅埜を優しい微笑みで見守ってみた。普段自宅ではひとりでいる紅埜は、こうやって包み込む笑顔を向けられたら意識するだろう。どきりとしてくれたら成功だ。
「なに? 食べたいなら分けてあげるけど」
「そうじゃないよ。なにか感じない?」
「ホラー系の話か?」
「……」
こういうことを真剣な顔で言ってくる。がっかりと肩を落として、首を横に振った。
紅埜はけっこう――いや、だいぶ恋愛に興味がない。昔から好きな子の話や、恋人の話をしたこともない。
紅埜が大人になる前は、いつも実色と遊んでくれて他の人といなかった。大人になって戻ってきてからは、学校で女子生徒からきゃあきゃあと騒がれているだけだ。紅埜本人がどうこうという話は、小耳に挟んだこともない。
(もしかして……紅埜くんって鈍感?)
だとしたら、かなり押さないと効果が出ないかもしれない。紅埜の無反応さをイコール鈍感と考えれば、いろいろと納得できる。そんな相手に、どう仕掛けるべきか。
実色がぐるぐると考えているあいだに、テーブルの向かい側で紅埜は食事を終えた。見守り作戦は失敗だ。
食器を片づけた紅埜がリビングのソファに移動したので、もちろん実色もついていく。ソファに腰をおろした紅埜は、ローテーブルの文庫本を開いた。やっぱり、と残念な気持ちでその様子を見る。
「ねえ、紅埜くん」
「本読んでるから、あとで」
「読書の秋?」
「そういうわけじゃない」
本を読む紅埜にまとわりついて声をかけても、すげない反応が返ってくるばかり。あまり邪魔をするのはよくないとわかりながら、つい声をかけてしまった。でも反応がそっけない。
「……小学生のときに戻りたいな」
「今も子どもだろ」
「子どもじゃないよ!」
本のページに目を落としたまま突っ込まれ、むっとなって言いかえす。にやりと紅埜が口角をあげた。その反応が子どもだ、と言っているような顔だ。実色が小学生のときの約束を覚えていないのだ、絶対。
実は、すでに実色からプロポーズ済みだったりする。
紅埜が大好きで、無邪気に「絶対幸せにします。結婚してください」と言ったのは小学二年生のとき。すでに高校生だった紅埜は、微笑んで「いいよ」と答えてくれた。
(本当に俺と結婚してくれるつもりなら、子ども扱いなんてしないはずだよね)
ということは、あのプロポーズは忘れられている、もしくは冗談だと思われている。アニメで言っていたプロポーズの言葉を、そのまま使ったのがまずかったのだろうか。もしかしたらアニメの真似事と思われただけかもしれない、と最近思う。
実色が向ける恋心にまったく気がつかない鈍い幼馴染には、どうしてもため息が出る。そもそも実色を意識していないから、そんな気持ちを持っていると想像もしないのだろう。押しても押しても無反応で、そっけない返事ばかりをされる。
今も紅埜は読書に夢中で、全然相手にしてくれない。でも家に帰るのも寂しいから、許可をもらって、書斎から一番簡単そうな本を持ってきた。絵本だ。表紙には男の子とうさぎの絵が描かれている。優しい雰囲気の絵で、難しそうな感じもしないから、これなら実色にも読める。
「へえ、いいチョイスだな」
「子どもにぴったりって思ってるんでしょ」
「思ってない。いいから読んでみろ」
「……?」
首をひねりながら絵本を開くと、『あ、そっか』と柔らかいピンク色の字が大きく書かれている。これがタイトルだろう。ぱらぱらとめくっていき、ページ数が少ないのですぐに読み終えた。本のサイズが大きくて絵がメインだから、目が楽しい。
「どうだった?」
紅埜の問いに、頷いて返事をする。
「別に、普通に絵本だと思うけど」
「じゃあ、その絵本からなにを感じ取った?」
「感じ取る?」
言葉の意味がわからなくて首をひねると、その様子をじっと紅埜が見ていた。実色は今読み終えた絵本の内容を頭に浮かべる。
主人公の男の子は綺麗な石が好きで、いつもひとりで石を探しては集めている。
ある日、森へ行った男の子は一匹のうさぎと出会う。うさぎに綺麗な石を見せると、笑顔になって石を褒めてくれた。もっと喜んでほしくて石をあげようとしたら、うさぎは「いらないよ」と断る。綺麗な石なのにどうして受け取ってくれないのか、男の子が聞くと、うさぎは問いかけを返す。
――きみは、どうしていしをもらってほしいの?
男の子は、いっぱいよろこんでほしいから、と答える。男の子がもう一度石を差し出すと、うさぎは喜んで石を受け取った。
森からの帰り道、なんでうさぎがはじめは石を受け取らなくて、次は受け取ったのかを考える。でも答えは出なかった。
次の日、うさぎが男の子の家にやってくる。
――きみにも、よろこんでほしいから。
そう言って、一緒に綺麗な石を集めてくれた。森でうさぎと石を集めて、「いつもひとりだったから、うれしい」と男の子の満面の笑顔がラストのページ一面にあり、おしまい。裏表紙には、漫画の吹き出しのような黒い枠のなかに、絵本のタイトルである『あ、そっか』が書かれていた。
「うさぎと仲良くなって、男の子に友達ができたって話でしょ?」
実色の答えに紅埜はひとつ頷いた。頷いたということは、答えは合っているようだ。では、先ほど紅埜が言った『感じ取る』とはなんだろう。
しばし思案していたら、隣で紅埜が腰をあげた。どうかしたのかと見あげると、キッチンへ行った紅埜が冷蔵庫を開ける。
「いちじく食べるか?」
「食べる」
「わかった」
水を出す音が聞こえるから、いちじくを洗っているのだろう。紅埜が戻ってくるのを待ちつつ、また絵本について考えた。
(ていうか、感じ取るってなに?)
考えてみると、まずはそこからわからない。絵本には別の意味があるのか。それとも、いつものように実色をからかっているだけか。ううむ、と唸りながら首をひねっていると、紅埜が戻ってきた。カットしたいちじくがのったお皿を持っている。
「切ってくれたの?」
「そのほうが、実色が食べやすいだろ」
「ありがとう」
お礼を言うと、じっと紅埜が見つめてくる。
「実色は今、どうしてお礼を言ったんだ?」
「え、切ってくれたから」
「それは、切るという作業をしたことへのお礼?」
そんなふうに聞かれると、自分の思考がわからない。なにかをしてもらったら、お礼を言うものだと思っている。だから実色は深く考えずに、ただ『ありがとう』と言ったのだ。
頭を悩ませている実色に静かな視線を向けたまま、紅埜がまた口を開いた。
「じゃあ、実色が嬉しいと思うのは、いちじくを切ってもらったことか?」
「うーん……それより、紅埜くんが『実色が食べやすいように』って思ってくれたことが嬉しいかな」
なにを聞かれているのかまったくわからないが、自分の気持ちに一番ぴったりとくるものを答える。実色の答えに紅埜は満足そうに頷いた。
意味がまったくわからない。首をかしげると、紅埜が二本のフォークでいちじくを刺した。片方を実色に差し出すので、受け取っていちじくを口に運ぶ。
濃厚な甘さが口内に広がり、思わず笑顔になる。口に含んだだけでじゅわりと果汁がしみ出して、噛むと小さな種のぷちぷち食感が楽しい。
おいしい秋を味わっていると、隣でいちじくを食べていた紅埜がフォークを置いた。
「もう食べないの?」
実色の問いに紅埜は答えず、先ほど実色が開いていた絵本を手に取った。なんだろうと動きを見ていると、絵本を差し出される。
「さっきの嬉しかったことを考えながら、あとでもう一度読んでみろ」
「……?」
優しい微笑みで言っているから、なにかいい意味なのだろう。頷いて絵本を受け取り、さらにいちじくをフォークで刺す。口に運びながら紅埜を盗み見ると、紅埜は微笑んで実色を見ていた。
「な、なに?」
微笑みながらでも、そんなにしっかりと見つめられたら緊張する。実色が身体を強張らせると、隣の紅埜はまたフォークを持った。
「いつも実色がごはんやおかずを持ってきてくれるの、嬉しいよ。おばさんが作るものは全部おいしいし」
「うん……?」
「でも俺は、そうやってなにか理由をつけてでも、俺に会いたいと実色が思ってくれることが嬉しいんだよ」
言葉の意味がわからず、目をまたたく。今の紅埜の言葉を脳内で繰りかえす。わかるような、わからないような言葉だった。
「そういうこと考えながら、あとでもう一度さっきの絵本読んでみな」
「うん。読んでみる」
「ついでに、実色が俺に会いたいと思ってくれることを、俺が嬉しいと思うのはどうしてか考えろよ」
「なにそれ、考えることばっかり。言いたいことあるなら、そのまま言ってくれたらいいのに」
唇を尖らせると、隣で紅埜が噴き出した。
「そのまま言うより、自分で考えたほうが記憶に強く残るだろ」
「そういうもの?」
「そういうもの」
ふうん、と呟きながら、もう一度絵本の表紙に目を落とす。絵本の意味も、紅埜が言いたいことも、きちんとわかればいいけれど。なんとなく不安になっていると、また紅埜が噴き出す。
「さっさと大人になれよ。幸せにしてくれるんだろ?」
「え?」
「まあ、俺はいつまでも待つけどな」
意味深な笑みを浮かべた紅埜は、またいちじくをフォークで刺す。それを口もとに差し出され、実色はどきどきしながら唇を開いた。
いちじくを食べたあと、紅埜の言っていたことや、自分が感じたことを考えながら絵本を読んだ。
「あ、そっか」
思わず絵本のタイトルをそのまま口にしていた。
「物や行動じゃなくて、気持ちが嬉しいってことだ……」
実色は綺麗な石や、一緒に石を集めたという部分しか見ていなかった。きちんと『よろこんでほしい』と書いてあるのに、絵で描かれているものばかりを見ていた。
「あれ?」
それだと、先ほど紅埜が言っていたことはどういう意味だろう。実色が紅埜に会いたいと思っていることを、紅埜が嬉しいと思う。つまり、どういうことだ。
むむむ、と首をひねったら、動いたことで脳内のパズルがはまったのか、ぱっとひとつの感情が頭に浮かんだ。
隣の紅埜へ視線を向けると、やはり意味深な笑みを浮かべて実色を見ていた。目が合い、ゆっくりと実色へ手を伸ばしてくる。
「ここまでヒントがあったら、あとは簡単だろ。実色にどういう気持ちがあって俺に会いたいか――これは実色が一番よくわかるよな。じゃあ、俺はどうしてその『気持ち』が嬉しいか」
まさか、と思いながらも、期待が胸に開きはじめる。
「答えをどうぞ。というか答えろ」
強引な促しに、おずおずと紅埜を見つめかえす。
「間違ってても減点しないでよ?」
「間違えたら、しっかり補習授業してやる。ほら、答えは?」
合っているかはわからない。でも合っていたら嬉しい。どきどきと高鳴る鼓動を感じながら口を開く。
「――――」
そうっと慎重に答えた実色に、紅埜は頷いた。
「実色が大人になったら、次は俺から言うよ。アニメの台詞じゃなくて俺の言葉で」
撫でられた頬が、じんわりと熱くなった。
終




