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第二十八話:物語のはじまり

パキッ――。


ウラドが軽く指を鳴らした、その瞬間だった。


イリンカの髪を無理やり膨らませていた特殊な整髪料が、まるで魔法が解けるようにその効力を失っていく。

ごわごわと広がっていた黒髪はさらりとほどけ、夜の闇を溶かしたような艶やかな黒髪となって背中へ流れ落ちた。


予想もしなかった美しさに、ざわり、と会場が揺れる。


だが、覇王の紡ぐ魔術の悪戯はそれだけでは終わらなかった。


血色を悪く見せるために塗っていた特殊な顔料が消え去り、本来のなめらかな肌が現れる。

さらにどこからともなく淡い光を纏った化粧の粉が舞い上がり、花びらのようにイリンカの頬へ降り注いだ。


薄く色づく唇。華やかさを増す目元。

大陸屈指の高度な魔術を、まるで当然のように化粧へ使っている覇王の姿に、誰も声を上げられない。


そして最後に。

ウラドはイリンカの顔に手を伸ばすと、そっと瓶底眼鏡を外した。


現れたのは――。

鮮やかな碧眼を持つ、息を呑むほど美しい令嬢だった。


静寂が落ちる。水を打ったように静まり返る大広間。


ウラドは満足げにその美貌に笑みを浮かべると、周囲を鋭く見回して自慢げに確認した。


「これなら、余の妃に相応しいだろうか」


その声は、大陸を統べる覇王のものとは思えないほど得意げで、どこか子どものようですらあった。


隣では当のイリンカがあまりの急展開に白目を剥きかけている。

その様子を見たクリスティアンとラゴスは、揃ってそっと視線を逸らした。イリンカの事情を知っているだけに気まずい。


「あら……」


最初に沈黙を破ったのは王妃だった。


「整った顔立ちの令嬢だとは思っていましたが、まさかこれほどとは……」


驚きに目を見開く王妃。そして、それは会場にいる誰もが同じだった。


「モッサリだったのに……」

「モッサリだったのに……」

「ずっとモッサリだったのに……」


あちこちから困惑した呟きが漏れる。

その声を聞き続けていたイリンカのこめかみに、ぴくりと青筋が浮かんだ。


「うるさいわねっ!」


ついに我慢できず叫ぶ。


「さっきから黙っていれば、モッサリモッサリハッキリ言うな!」


広間中に響く渾身のツッコミ。


「おっ、姉ちゃん、それゴロいいな!」


ラゴスだけが妙なところで感心し、豪快に笑っていた。


そんな奇妙な空気の中。今まで呆然としていたダリアン王子が、ようやく声を絞り出す。


「イリンカ令嬢が……こんなに美しいなんて聞いていない」


悔しげに顔を歪めながら、信じられないことを言い出した。


「これなら、私の婚約者にしたのに」


その瞬間。

ウラドの顔から、先ほどまでの子供じみた笑みが跡形もなく消えた。底知れぬ黄金の瞳が冷酷な皇帝へと変化し、彼は低く短く命じた。


「クリスティアン」


「はっ」


宰相クリスティアンが滑らかに一歩前へと進み出る。懐から取り出した書状を怜悧な声で淡々と説明を始めた。


「もし、イリンカ・バサラブ侯爵令嬢が我が帝国へお越しいただけないという不条理が通るならば――」


そこで言葉を切り、広間全体を射抜くような冷たい視線を投げる。


「我がダキア帝国は直ちに平和条約を破棄し、この国に対して宣戦を布告いたします」


会場中が凍りついた。


「なっ……!」


王宮を揺るがすその脅迫に、フィオル国王も、ダリアン王子も、そして居並ぶ貴族たちも一斉に顔色を失った。しかし、クリスティアンの容赦のない追撃は止まらない。


「そもそも、このフィオルという小国は、我が大陸における穀物の供給元としてあえて存続させていたに過ぎません。ですが、先の征服戦争もすでに終結し、近年では我が帝国の領内だけで十分な食料を確保する目処が立っております」


クリスティアンはわざとらしく目を細め、その薄い唇の端を吊り上げた。それは明らかな挑発であり、絶対的な強者が行う値踏みであった。


「いかがいたしましょうか、国王陛下。我が国の未来の妃をこの場に留めて帝国との全面戦争を選ぶか、あるいは……」


もはや脅迫だった。国王は青ざめた顔で首を横に振る。


「も、もちろんだ! 我が国と偉大なる帝国との、平和の架け橋として嫁がれるイリンカ・バサラブ侯爵令嬢のご婚約を、我が国は国を挙げて心から祝福する!」


その国王の言葉を合図に、さっきまでイリンカを罪人扱いしていた貴族たちも、生き残るために我先にと手のひらを返して歓声を上げ始めた。


「世紀の婚約だ!」

「なんとお似合いのお二人!」

「一刻も早く、帝国での盛大な結婚式をお挙げください!」


誰だって命は惜しい。祝福の声は瞬く間に会場を埋め尽くした。


そんな歓声の嵐に包まれた会場の中、ウラドはそっとイリンカの腰から手を離すと、ダリアン王子の前へと歩み寄った。

そして、王子の耳元へ顔を寄せ殺気を孕んだ声で囁いた。


「次、イリンカを欲してみろ、お前の首を掻っ切る」


ダリアンの身体が大きく震え、恐怖で顔は真っ青になり一歩も動けない。


用は済んだと言わんばかりに、ウラドはすぐさまイリンカの元へと戻ると、当然の仕草で彼女の細い腰を再び引き寄せた。


「これで、お前が気にしていた物語からの退場が出来たな」


ウラドは上機嫌な様子で微笑んだ。まるで全てが丸く収まったとでも言いたげな顔である。


「夢の隠居生活は!?」


イリンカは最後の抵抗とばかりに声を上げた。

だが、ウラドは少しも動じない、むしろ不思議そうに首を傾げる。


「俺の妃になって隠居生活をすればいいんじゃないか?」


そんなん聞いたことないわっ! 思わず叫びそうになる。


何とかここから逃げ出す方法はないだろうか。

馬車を奪うか。国外へ逃げるか。いっそ山奥に隠れ住むか。


イリンカが必死に逃亡計画を練り始めた、その時だった。


「言っておくが、逃げるとかありえないからな」


心を読まれたような言葉に、イリンカの肩がびくりと震える。ウラドは平然と続けた。


「地獄の果てまで追いかけるから」


脅しではない。冗談でもない。この男は本当にやる。

十年で大陸の大半を制圧した覇王が、実に当然のような口調でそう断言したのだ。


イリンカの背筋を冷たいものが走った。逃げ切れる未来がまるで見えない。


そんな彼女を見つめながら、ウラドの瞳がふっと甘やかになる。

そして不意に顎へ手を添えた。


「え――」


クイッと持ち上げられた顔。

次の瞬間には、柔らかな感触が唇へ落ちていた。


一瞬の口づけ。


驚きのあまり思考が真っ白になる。

ウラドは離れると、満足そうに微笑んだ。


そして、たった一言だけ告げる。


「諦めろ」


楽しげな黄金の瞳には、隠そうともしない愛情と執着が宿っていた。


「…………」


イリンカは何も言えない。突然の口づけに顔が熱を持ち、頭の中は完全に混乱していた。


きっとこの男は、本当に私を逃がさない。

あるいは、この勘の良い男は気付いているのだ。


自分が彼を憎からず想っていることに。


完全に詰んでいる。詰みまくっている。


だから、とりあえず。


「いやぁぁぁぁぁぁっ!?」


イリンカは盛大に叫んだ。



――完――

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