第一話:秘密の温室
フィオル王国。
豊かな土壌と広大な穀倉地帯を有する、小さな農業国家である。国民の気質は穏やかで争いを好まず、植物を育てる魔術に長けた者が多い。
そのため各地には美しい花畑や果樹園が広がり、四季折々の実りが人々の暮らしを支えていた。
もっとも、その平和が本当にフィオル王国自身の力によって守られているのかと問われれば、答えは怪しい。
だが、この国の王族も民衆も、そんなことを深く考えたりはしなかった。今夜も王都は穏やかな静寂に包まれている。
――そんな深夜。
バサラブ侯爵家の敷地奥にある巨大な温室から、不穏な高笑いが響き渡っていた。
「ハーッハッハッハ!王子のバカめっ、これで婚約回避は目前よ!」
色とりどりの花々に囲まれた温室の中央で、私は両手を腰に当て、高らかに勝利宣言をしていた。
私の名前はイリンカ・バサラブ。十八歳。こう見えても由緒正しい侯爵令嬢である。
私は前世の記憶を持っている。気づけばこの世界に生まれ変わっており、成長するにつれて、ここが前世で読んだ物語によく似た世界なのだと知った。
そして、その物語の中での私は、ヒロインをいじめ抜いた末に断罪され、厳格な修道院送りになる悪役令嬢ポジションだったのである。
冗談ではない。たかが恋愛沙汰で人生を終わらせられてたまるものか。
私は、原作から離脱しようと即座に決意した。
幸い、努力の方向性は間違っていなかったらしく、現在の私は、王子の婚約者候補の中でも見事最下位付近を維持している。
実に素晴らしい成果である。
数か月後、王宮では大規模な舞踏会が開かれる。原作では、その場で断罪イベントが発生していた。
逆に言えば、そこさえ無事にやり過ごせば、私は晴れて物語から退場できるということでもある。
待っているのは、夢にまで見た悠々自適の隠居生活。
静かな屋敷、大量の蔵書、自給自足可能な温室、貯め込んだ資産。
最高では?
笑いが込み上げてくるのも当然だった。
私は机の上に広げたノートへ視線を落とす。原作のイベントや人物相関図を、前世の記憶を頼りに細かく書き留めた重要資料だ。
「ふむふむ……。そろそろ王立公園のイベントが起きる頃ね。ここには絶対近づかないようにしなきゃ」
主人公と王子の恋愛イベントには、近寄らず関わらなければ安全である。素晴らしい。
私は満足げに頷き、ふと温室の壁際に置かれた鏡へ目を向けた。
そこには、一人の少女が映っている。
流れるような黒髪に、澄んだ碧眼。白磁のようになめらかな肌と、涼やかで整った顔立ち。
思わず見惚れてしまうほどの美貌を持つ少女――つまり私だ。
「ほんと、イリンカって美人よねぇ……」
しみじみと呟く。
「この見た目で、あの王子がヒロインと天秤にかけ始めるのよね。優柔不断のへなちょこ王子め」
そう。私イリンカ・バサラブは、悪役令嬢役としては非常にスペックが高い。家柄良し、頭脳良し、高い魔力まで持っている。
だからこそ私は早々に対策を講じた。王子は原作通りの面食いだったのである。王子が見た目重視なら、美貌そのものを封印してしまえばいい。
髪には特殊な薬剤を塗り込んで徹底的にボサボサにし、姿勢は猫背、さらに瓶底眼鏡で仕上げれば、陰気で冴えないモッサリ系令嬢の完成である。
我ながら涙ぐましい努力だった。おかげで王子とヒロインは順調に距離を縮めているらしい。
……ただ。
「私が邪魔しないせいか、イマイチ盛り上がりに欠けるのよねぇ……」
原作ヒロイン、ソフィア・コドレア。本来なら私の幼馴染という設定だったが、現在の関係は顔見知り程度だ。
親同士に仕事上の交流があるため接点はあるものの、深い付き合いにはなっていない。
それもあってか、原作ほど彼女が際立って見えないのだ。子爵家という微妙な立場もあり、特に王妃様はあまり良い顔をしていないらしい。
……頑張ってほしい。
切に願う。王子をしっかり攻略していただかないと、私の平穏な未来に関わる。
「さて、と。今日は新しい美容液でも作ろうかな」
私は気持ちを切り替え、趣味と実益を兼ねた研究へ意識を向けた。前世の知識と、この世界の植物魔術。その二つを組み合わせれば、驚くほど様々なものを生み出せる。
実際、私はこれまで数多くの事業改善や領地改革に関わってきた。もっとも、それらの功績はすべて可愛い弟の名義になっているのだけれど。
王家に目をつけられるなど、ごめんである。
「目指せ、原作離脱で夢の隠居生活っ!」
勢いよく宣言し、私は魔力を解放する。足元から淡い緑色の光が広がっていく。
すると美容液の材料となる花々が、一斉に芽吹き、みるみる成長を始めた。花弁は艶やかに色づき、甘く濃密な香りが温室いっぱいに広がっていく。
「ふふん〜♪」
鼻歌交じりに、私は独自改良した魔術を重ねていく。香りの持続性、保湿成分、魔力浸透率。次々と調整を加えていると、時間を忘れて没頭してしまう。
ここは、研究所を兼ねた秘密の温室。誰にも邪魔されない、私だけの閉ざされた空間。
――だから気づかなかった。
温室の隅から、じっとこちらを見つめる、金色の瞳の存在に。




