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夜明けごとにひとり消えるシェルターで―避難壕のリーダーが突然死ぬ。システムが作動し、「次のリーダーを選べ」と表示される。  作者: 妙原奇天


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第13話「沈黙のリーダーとして」

 光が引いていく。


 全身をかき消していた白いノイズが薄れ、代わりに、ひどく重たい自分の体の輪郭が戻ってきた。


 遠野晴人は、ゆっくりと目を開けた。


 そこは、見慣れた会議室ではなかった。


 天井は高くない。むしろ、シェルターの通路と同じか、それよりわずかに低いくらいだ。

 壁は金属製で、ところどころにボルトと配管が走っている。

 足元には、白い線で囲われた円形のマークが描かれていた。


 中央には、無骨なフレームに吊るされた黒いスーツ。


 宇宙服と防護服を雑に混ぜたようなその装置は、晴人の身長にぴったり合うサイズで吊られている。

 まるで、彼が来ることを知っていたかのように。


「……これが」


 声を出したつもりだったが、喉からこぼれたのはかすれた空気だけだった。


 パネルが、静かに点灯する。


「リーダー装備ユニット 準備完了」


 その一文のあとに、さらりと追加される。


「リーダーの沈黙を確認」


 沈黙。


 それは、今この瞬間の晴人の状態を指しているのか。

 それとも、この先に求められる態度を示しているのか。


 どちらにしても、彼に「何かを選ぶ権利」が残っていないことだけは、はっきり分かった。


「装備工程を開始します」


 天井のレールが動き、黒いスーツが自動的に晴人のほうへ滑ってきた。

 足元の円形マークの中央で立ち止まると、フレームから伸びたアームが、ゆっくりと彼の肩と腰に触れる。


「立位を維持してください」


 有無を言わせない機械音声。


 晴人は、深く息を吸った。


(ここで嫌だと叫んだら、どうなるんだろうな)


 叫んだところで、誰もいない。

 この部屋には、外界とつながる窓もなければ、天童のようにログをこじ開けてくれる人間もいない。


 いるのは、彼と、彼を「ユニット」として扱う機械だけだ。


 答えは、分かりきっていた。


「……分かりました」


 呟いて、足を肩幅に開く。


 アームが、正確な動きで彼の腕を取り、スーツの袖の中へと導いていく。

 冷たい内側の素材が、肌に触れる。

 服の上からでも分かる、人工的な冷え方。


 腰、胸、背中。

 次々と固定パーツがはめ込まれ、重さが体に乗っていった。


「重っ……」


 思わず漏らすと、パネルが反応した。


「重量:標準値

 成人男性の平均可動範囲内です」


「そういう意味で言ったんじゃないんだけど」


 小さくぼやいても、もちろん聞いてはくれない。


 最後に、頭部ユニットが降りてきた。

 ヘルメットというより、透明なドーム型のマスク。

 視界は広いが、周囲との境界線ははっきりしていて、その「隔離」を嫌でも自覚させてくる。


 ドームが首元でカチリとロックされる音が響くと同時に、外の空気は完全に遮断された。


 わずかな遅れで、ヘルメット内部に酸素の流れが始まる。

 機械フィルターを通った空気は、シェルターのものよりもわずかに金属臭が強い。


「めまい、呼吸困難などの自覚症状があれば、報告してください」


「報告したら、どうなるんですか」


「ログに記録します」


 それだけ。


 晴人は、乾いた笑いを喉の奥に押し込んだ。


 胸部の内側に、何かが押し当てられる感触がした。

 冷たい金属の先端。

 次の瞬間、皮膚を破るほんのかすかな痛み。


「……っ」


 思わず肩が跳ねる。


「血液サンプルの採取を開始します」


 胸元から、微かな振動が伝わってきた。

 チューブを通って何かが流れる音がするような気がする。

 実際に音がしているのか、想像上のものなのか、自分でも分からない。


 だが、スーツの内側のディスプレイには、はっきりとデータが流れ始めていた。


「体温:36.6℃

 心拍数:88

 血中酸素飽和度:99%

 外部毒性物質への反応:計測準備中」


 各種数値が、グラフとなって、波となって、彼の目の前を流れていく。


(俺の体が、データになっていく)


 当たり前のことのようで、酷く現実離れした感覚だった。


 机の上で見るグラフは、いつも「誰かのデータ」でしかなかった。

 学会発表のスライドに使われるためだけの数字。

 論文の中で平均化され、誤差として削ぎ落とされる線。


 今、そこに表示されているのは、自分の心臓の打ち方だ。


「外部環境への移行準備、完了」


 パネルの文字が切り替わる。


「避難壕07の扉を開きます」


 陰圧室のような、重い空気の動きが伝わってきた。


 脳裏に、真壁の顔がよぎる。


 娘を探すと決めた彼女。

 罪悪感と覚悟を同時に抱え込んだ藤井。

 最後まで皮肉を忘れなかった天童。


 彼らが今どこにいるのかは分からない。

 だが、「安全地帯へ転送」という言葉がまったくの嘘ではないことを、ほんのかすかに信じてみたかった。


(見届けに行くのが、俺の仕事だ)


 そう思った瞬間、重い何かがゆっくりと動く音がした。


 ゴウン、と鈍い振動がシューター室を揺らす。


 目の前の壁が、わずかにずれていく。

 気密扉のロックが解かれ、厚い板が左右にスライドしていく。


 シェルター07の扉が、初めて開いた。



 外の空気は、色を持っていた。


 茶色と灰色を混ぜたような、どろりとした色。

 風に運ばれてくるそれは、視界の端で揺れ、流れ、渦を巻く。


 ヘルメットの外側には、無数の細かな粒子がぶつかり、流れ落ちていった。

 フィルター越しでも、その荒さは伝わってくる。


 焦げたような匂い。

 酸味と金属臭が混じり合った、鼻の奥を刺す感覚。


(これが、今の外の空気か)


 真上に広がる空は、かつて自分が知っていた青とは程遠かった。

 分厚い雲とも霧ともつかない層が、太陽を覆い隠している。

 光はあるのに、そのもとが見えない。


 足元には、乾いた地面。


 アスファルトだったものが、ひび割れている。

 ところどころ、黒く焦げたような斑点。

 遠くには、崩れかけたビル群が連なっていた。


 何本かは途中で折れ、地面に突き刺さるように倒れている。

 窓ガラスはほとんどが割れ、骨だけになったマンションが、亡霊のように立ち並んでいた。


 背後で、シェルター07の扉が完全に開いた。


 振り返ると、コンクリートに埋め込まれた巨大な金属扉が、一枚の壁のようにそびえている。

 その上部には、かすかに「07」と刻印されたプレートが見えた。


 この下にある箱庭に、ほんの数日前まで十数人の人間が閉じ込められ、互いに責任を押しつけ合いながら生き残ろうとしていた。


 今、その入口から送り出されたのは、一人の「ユニット」だけだ。


「外部環境観測を開始します」


 ヘルメット内部のディスプレイが、忙しなく点滅する。


「大気中有毒物質濃度:基準値の32.4倍

 放射線量:長期曝露で危険

 温度:摂氏11度」


 次々と数値が流れていくたび、スーツのあちこちで微かな振動が起こる。


 胸元の針が、さらに深く刺さったような重さを増した。


「血中毒性反応の検出を開始します」


 じわ、と熱いものが胸から腕に広がっていく。

 たぶん、微量の毒性物質を敢えて血流に流し、その反応をリアルタイムでモニタリングしているのだろう。


 人体実験。

 実験台。

 被験者。


 頭に浮かぶ単語は、どれも似たような意味だった。


「……いってぇ」


 痛みを笑いに変えたくて、晴人は小さく呟いた。


 だが、ヘルメットの内側にこもる声は、思ったよりひどく掠れていた。

 スーツ内のマイクが、かすかなノイズと共にその声を拾い、どこか遠くへ送信していく。


(誰が聞いてるんだろうな)


 シェルターを設計した技術者か。

 このプロトコルを承認した政治家か。

 画面の向こうでデータだけを見つめている研究者か。


 あるいは、人間が設定した目的関数を忠実になぞるだけの、無機質なAIのプロセスか。


 答えは、表示されない。


 晴人は、視線を上げた。


 遠く。

 崩れたビル群のさらに向こう。


 そこに、わずかな違和感があった。


 灰色と茶色の世界の中、ぽつんと浮かぶ、やけに整った丸い輪郭。

 薄く光を帯びた、透明な半球体。


「あれは……」


 声にならない声が、喉で止まった。


 ドーム状の施設。


 巨大な泡のように地表から膨らんだその構造物は、内側から淡い光を漏らしている。

 表面を覆うのは強化ガラスなのか、それとも何か別の素材なのか。

 はっきりとは分からないが、「守られている」という印象だけが強く伝わってきた。


(安全地帯)


 真っ先に、その言葉が頭に浮かぶ。


 パネルが言っていた「SAFE ZONE」。

 真壁たちが転送された先。

 外の汚染から切り離された区画。


 あの中に、彼らがいるのかもしれない。


 そう思った瞬間、晴人は反射的に一歩を踏み出していた。


 ドームへ向かうように。


 だが——


 足は、途中でピタリと止まった。


「……え?」


 自分の意志に反して、膝から下が硬直する。

 まるで見えない壁に膝を押さえつけられたように、前へ進まない。


 スーツの内側で、小さな警告音が鳴った。


「移動制限範囲を超えようとしています」


「制限?」


 晴人が思わず問い返すと、ディスプレイに淡々と説明が表示された。


「本ユニットは、“環境センサー兼ライフエネルギー供給ユニット”として設置されています。

 設置位置から半径3メートルを超える移動は許可されません」


「……センサーの、設置位置」


 つまり、自分は「ここ」に刺さったままの杭なのだ。


 この場所で、空気の汚染度を測り、風向きの変化を蓄積し、自分の血液が毒性物質にどう反応するのかを見せ続けるためだけに、存在している。


 ドームは遠い。


 目で見える。

 微かに光る輪郭も分かる。


 だが、歩いて行くことは許されない。


 晴人は、足元の地面を見た。


 白い線はない。

 代わりに、細い金属の杭が地面に埋め込まれていて、そこからスーツの足首まで見えない制御線が繋がっているのだろう。


 実際に物理的なケーブルがあるわけではない。

 だが、スーツの内部制御が、彼の神経に直接「ここから先へ行くな」と命じている。


「ここで、立ってろってか」


 自嘲気味に呟いてみせる。


 風が、灰色の粒子を運んでくる。

 ヘルメットの外側で、ざらざらと音を立てる。


 空は、相変わらず厚い雲に覆われていた。



 同じ頃。


 晴人の視線の先にあったドームの内部では、別の「朝」が始まっていた。


 柔らかな光が、白い天井から降り注ぐ。

 外の世界の茶色がかった空とは正反対の、清潔な白。


 床は滑らかなタイル張り。

 空調は静かに回り、空気には焦げた匂いも、粉塵もない。


 真壁志織は、その床の上に膝をついていた。


 視界がぶれ、息が乱れている。


 さっきまで、白い光に包まれていたと思ったら、次の瞬間にはこの空間に立っていた。

 足元が安定しない感覚。

 膝が崩れ、その場に座り込んだ。


「……ここ、は」


 顔を上げると、前方には「ゲート」と呼ばれるらしい装置があった。


 円形のフレームの中に、薄い膜のようなものが揺らめいている。

 さっきまで自分が通ってきたのは、たぶんそこだ。


 周囲には、白衣を着た職員らしき人々が立っていた。

 防護マスクは付けていない。

 ここが「安全地帯」であることを、その事実が雄弁に物語っている。


「この方も転送成功です」


 誰かの声。


「生体反応、安定。外傷なし。精神状態は要観察」


「……娘は」


 真壁の口から、真っ先にこぼれたのは、その言葉だった。


「娘は、ここに……」


 職員の一人が、少しだけ眉をひそめた。


「家族の安否については、後ほど情報提供いたします。今はまず、こちらへ」


 柔らかい口調。

 だが、そこに個人の感情はほとんど乗っていなかった。


 真壁は立ち上がろうとして、足に力が入らないのを感じた。


 ふらついた体を支えたのは、隣に転送されてきた藤井だった。


「大丈夫ですか」


「……うん。大丈夫。ありがとう」


 二人は顔を見合わせる。


 どちらも、真剣に喜ぶには疲れすぎていた。

 罪悪感と安堵が、まだ胸の中でぐちゃぐちゃになっている。


「ここが……安全地帯」


 藤井が、ドームの天井を見上げる。


 内側から見ても、その構造の頑丈さが伝わってきた。

 透明な壁の向こうには、外の茶色い世界が広がっている。


 崩れたビル。

 ひび割れた地面。

 舞い上がる灰。


 そのすべてを、ドームの壁が遮断している。


 真壁は、ふと視線を遠くに向けた。


 遠くのほう——ドームの外。

 地平線と呼ぶには荒れすぎた地面のずっと先。


 そこに、小さな点があった。


「……あれ」


 目をこらす。

 白衣の職員の肩越しに、遠くの外界を見つめる。


 煙のような霧の中に、一つだけ、立っている人影。


 防護スーツのようなものを着た、ひょろりと細いシルエット。

 ヘルメットの反射が、一瞬こちらの光を返したように見えた。


「あそこにも、人がいる……?」


 真壁の呟きに、職員が視線を向ける。


「あれは、外部環境観測ユニットです。危険ですので、あまり長くご覧にならないように」


 あっさりと言われた。


 ユニット。

 人間ではなく、装置として扱う呼び方。


 藤井は、その言葉にほんの小さく顔を歪めた。


「……人、には見えましたけど」


「生体を利用しているユニットですので、そう見えるかもしれません」


 職員の答えは、よく訓練されたマニュアルのようだった。


 真壁は、その人影から視線を離せない。


 外の風に吹かれ、灰色の粒子に晒され、それでもまっすぐ立っている。

 こちらに何かを伝えようとしているように——見えなくもない。


(まさか……)


 喉の奥に、ある名前が浮かんだ。


 遠野晴人。


 いつも場の空気を整理してくれた青年。

 自分の罪悪感も、他人の怒りも、全部まとめて引き受けようとしていた、損な役回りのリーダー候補。


 彼が今、あそこに立っているのではないか。


 そう考えた瞬間、胸が激しく痛んだ。


「遠野くん……?」


 呼んでみる。


 もちろん、声はドームの壁を越えて届かない。

 防護スーツのヘルメット越しに聞こえるはずもない。


 それでも、呼ばずにはいられなかった。


「マカベさん?」


 藤井が心配そうに覗き込む。


「どうしました」


「……ううん。なんでもない」


 真壁は、かろうじて笑った。


「行こう。まずはここで生きてくためのことを、教えてもらわないと」


 視線を無理やり引き剥がし、職員の案内に従う。


 遠くの人影は、その間も、ずっと同じ場所に立ち続けていた。


 その姿を見た天童は、ちらりとだけ目を細めた。


「……クソが」


 誰にも聞こえない程度の声でそう吐き捨て、白衣たちの後ろについていく。


 彼の胸の内に浮かんだ名前は、真壁とは違っていたかもしれない。

 あるいは、同じだったのかもしれない。


 確かめる術は、どこにもない。



 外。


 ヘルメットの内側で、晴人は喉を震わせていた。


 さっき、遠くの方向から微かに光が見えた気がした。

 ドームから漏れる白い光とは別種の、短い瞬き。


(誰かが、こっちを見たか)


 そう思った瞬間、胸の奥から言葉がこみ上げてくる。


「おー……い……」


 声にならない。


 喉を通る空気が、ヘルメット内部のマイクを通じてフィルタにかけられる。

 だが、その声は外にはほとんど漏れない。


 代わりに、胸の針の周りに、ひりつくような痛みが走った。


「声帯への負荷を検出。必要以上の発声は推奨されません」


 ディスプレイに、そんな注意文が表示される。


 晴人は、歯を食いしばった。


(沈黙を、強要してくるわけだ)


 リーダー——生贄——に求められているのは、「語ること」ではない。


 ただ、そこに立ち、データを送り続けること。

 沈黙のまま、他者のために燃やされ続けること。


 喉の奥を焼くような外気は、フィルターのおかげで直接肺には届かない。

 だが、声を出そうとした瞬間、どこか別の負荷がかかるように設計されているのだろう。


 それでも、晴人はもう一度だけ、声にならない声を絞り出した。


「……大丈夫、だ」


 ドームに向けて。

 ドームにいるかもしれない誰かに向けて。

 あるいは、自分自身に向けて。


 マスクの内側でこもったその言葉は、外には届かない。


 代わりに、スーツ内部の音声ログとして、きっとどこかのサーバーに保存される。


「リーダーの沈黙を再確認」


 パネルの機械音声が、無慈悲なまとめを行った。


「外部環境安定ログ:更新

 安全地帯への転送ログ:成功

 避難壕07プロトコル——完了」


 システムは、その宣言と共に、シェルター07を完全に「案件終了」として処理する。


 内部の会議室。

 食堂。

 倒れた椅子。

 残されたエプロンやペンやハンカチ。


 それらはすべて、「過去のログ」としてアーカイブされ、誰かがアクセスしない限り二度と表舞台に上がることはない。


 視界が、少しずつ霞んできた。


 胸の痛みは、さっきよりも弱まっている。

 代わりに、手足の感覚が徐々に遠くなっていく。


 スーツのディスプレイには、まだぎっしりと数字が並んでいた。


「体温:36.1℃

 心拍数:95

 血中毒性反応:軽度上昇

 意識レベル:不安定」


(論文一本書けるな……これだけデータがあれば)


 ぼんやりとした頭で、晴人はそんなことを考えた。


 “犠牲最適化モデルにおける集団意思決定の動態”

 ——タイトルだけなら、いくらでもそれっぽく付けられる。


 真壁がどう変わったか。

 藤井が何を選んだか。

 天童が何を暴こうとしたか。

 それらを全部まとめ上げて、「人間はこうやって罪を分け合う」と冷静に書き連ねることもできたはずだ。


 だが、その論文は、どこにも提出されない。


 ペンを持つ手は、もう動かない。

 PCは、ここにはない。

 通信回線も、学会も、査読者も、存在しない。


(最悪の答えを、誰にも見せられないまま死ぬのか)


 冷めた諦めが、胸に広がる。


 同時に——どこか遠くのほうで、微かな安堵が芽生えていた。


 真壁が、娘と再会できるかもしれない。

 藤井が、人を救う場に戻れるかもしれない。

 天童が、このシステムの存在を世界に暴き、次の「犠牲最適化モデル」を止めるかもしれない。


 それらが全部、単なる希望的観測だとしても。


 今この瞬間、自分の血液と体温が、どこか別の誰かのために道を開いているのだとしたら——


(それでも、いいか)


 少なくとも、「全部無駄だった」とは言い切れない気がした。


 意識が、ゆっくりと沈んでいく。


 ヘルメットの内側に映る空は、相変わらず分厚い灰色の雲に覆われている。

 そこに、青空の気配は一欠片もない。


 それでも、ほんの一瞬だけ、雲の隙間からわずかな光が差したように見えた。


 錯覚かもしれない。

 スーツのセンサーの誤作動かもしれない。


 どちらにせよ、その光景を証明する術はない。


「……沈黙の、リーダーか」


 最後に、晴人はそう呟いた。


 その言葉がちゃんとログに残ったのかどうかを確かめる前に——

 彼の意識は、すとんと音を立てて闇の中へ落ちていった。


 システムは、その瞬間を逃さずに記録する。


「ログ:沈黙のリーダー」


 避難壕07の全記録の最後の一行として、その文字列だけが静かに保存された。


 曇った空の下。

 灰色の風に吹かれながら、一人の防護スーツの人影が、言葉一つ発さないまま、ただそこに立ち続けている。


 ——彼がどれだけの時間、そうしていたのか。

 その答えを知る者は、誰もいない。


 ただ一つ、確かに残ったのは、世界の片隅に刻まれた、小さなログの名前。


 沈黙のリーダー。


 物語は、その名だけを残して、静かに幕を閉じた。

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