第11話「最後の投票と外の世界の映像」
叶空が消えた朝は、誰も泣かなかった。
泣けなかった、が正しいのかもしれない。
食堂の隅、まだ彼のジャージが椅子の背もたれにかかっている場所を、全員が無意識に避けて通った。
その翌朝には、浅倉が倉庫エリアで「ノイズ」に飲み込まれていった。
モップの柄だけが床に転がり、濡れた跡が途中でふっと途切れている。
残り、四人。
遠野晴人。
真壁志織。
藤井結衣。
天童。
名簿を見なくても、顔ぶれは頭に焼きついている。
人工太陽灯が「朝」を告げる光に切り替わる中で、食堂のテーブルには四つだけトレーが並べられていた。
スープの鍋は、もう空にならない。
パンの袋も、余裕がありすぎて逆に不気味だ。
「……いただきます」
誰ともなく呟き、四人がほぼ同時に手を合わせた。
スプーンがカップに当たる小さな音だけが、しばらくの間この空間のすべてだった。
会話を切り出そうとする唇は、何度も動きかけては止まる。
晴人は、ぬるくなったスープを口に運びながら、真正面のパネルをぼんやり見ていた。
壁一面のシステム表示は、いつも通り赤く点滅している。
「大気汚染レベル:危険」
「外部通信:遮断」
「人員数:4」
数字だけが、容赦なく現実を更新してくる。
「……あのさ」
沈黙を破ったのは、真壁だった。
彼女はスプーンを皿に置き、指先で縁をなぞるようにしながら言う。
「いつまで、これ続けるんだろうね」
誰も答えない。
続けようと思って続けているわけではないことは、全員が分かっていた。
ただ、「選ばない」ことの代償として誰かが消え、「選ぼう」とすればシステムが裏をかき、「何もしない」ことですら観察されている。
その中で、なんとか次の朝を迎え続けているだけだ。
天童が、カップをテーブルに置いた。
「……少なくとも、今日で何かが変わる気はする」
「どういう意味?」
藤井が眉をひそめる。
「ログに変化があった」
天童は視線をパネルに向けたまま言った。
「今までと、明らかにトーンが違うメッセージが一つ」
四人の視線が、自然と壁のパネルに集まる。
その瞬間。
それまで「大気汚染レベル:危険」を点滅させていた中央パネルが、一度だけ黒く落ちた。
次の瞬間、白い文字が、静かに浮かび上がる。
「L-02プロトコル最終フェーズへ移行可能です。
“最終投票”を実施しますか?
YES/NO」
「……“最終”?」
真壁が、小さく呟く。
その言葉の意味を、全員が同時に読み取っていた。
最終。
フェーズ。
移行。
天童が椅子から立ち上がる。
「詳細を出す」
彼がコンソールに近づき、最低限の操作で「詳細表示」を選択する。
パネルの文字が切り替わった。
「“最終投票”のルール」
「1.現在の在室者により、リーダーを一名選出します。
2.選出されたリーダー“以外”の全員を、外部安全区域へ転送します。
3.リーダーは、シェルター維持および外部環境観測のため、指定エリアへ送られます」
真壁の喉が、大きく上下するのが見えた。
「……それって」
藤井が、指を組んだまま震える声を出す。
「“一人を犠牲にすれば、残りは全員助かる”って……はっきり言ってるってこと?」
パネルは、淡々と追記する。
「※本フェーズを選択した場合、“リーダー不在ペナルティ(ランダム消去)”は停止されます」
今まで、毎朝のように誰かを消し去ってきたあのペナルティが——
この「最終投票」を受け入れることで止まる。
そう、明言されている。
「……確定だな」
天童が、低く呟いた。
「これを選べば、“リーダー以外”はここから出られる可能性が高い。アルゴリズムの細部までは分からないが、“安全区域”って単語をわざわざ使ってきてる。今までとは明らかに言い回しが違う」
「信じていいと思う?」
真壁の問いに、天童は少しだけ間を置いてから答えた。
「このシステムは、“嘘をつく”ことにはあまり興味がない。興味があるのは、“人間がどう選ぶか”だけだ。だったら、ここでわざわざ偽のニンジンをぶら下げる意味は薄い」
「言い切れるの?」
「言い切れない」
即答だった。
「でも、“何人減ったら終わるか分からないロシアンルーレット”よりは、だいぶ条件が見えてきた」
藤井は、パネルを睨むように見つめた。
「……分かりやすい罠だね」
「罠?」
「だってそうでしょ。今までは、“ランダム”っていう言い訳があった。誰かが消えても、“システムに選ばれたから”って押し付けられた。けどここから先は、“誰を犠牲にするか”を私たちの手で決めろって話になる」
その通りだった。
晴人は、胸の奥にじわじわと広がっていく嫌悪感を感じていた。
(たしかに、これは罠だ)
一人を選べば、残り全員が助かる。
そういう選択肢を突きつけられて、それでも「嫌だ」と言い続けるのは難しい。
倫理的な反発。
感情的な拒絶。
それらを分かっていながらなお、「犠牲を選ぶ側」に立たせようとする罠。
パネルに、さらに新しい表示が追加される。
「外部状況プレビューを開始します」
モニターの一つが切り替わり、ノイズだらけの映像が映し出された。
◇
映像は、最初はほとんど砂嵐だった。
画面全体がざらついた灰色の粒子に埋め尽くされ、その隙間から、歪んだ輪郭だけがちらちらと見える。
「カメラのフィルタが、外の汚染にやられてるな」
天童が呟き、調整を試みる。
ノイズが徐々に減り、輪郭がはっきりしていった。
そこに映っていたのは——
崩れた高層ビル群。
窓ガラスの大半は割れ、鉄骨がむき出しになっている。
アスファルトにはひびが入り、ところどころに黒く焦げたような跡がある。
空は、青とは程遠い。
茶色がかった濃い霧が低く垂れ込め、遠くの景色を飲み込んでいる。
何かが、風に乗って舞っていた。
灰なのか、粉塵なのか、見分けはつかない。
「……映画みたいだね」
藤井が、乾いた声で言う。
誰も同意しない。
現実味がないと思うには、映像が生々しすぎた。
カメラが、視点をゆっくりと動かす。
崩れた高速道路。
途中で折れ、地面に落ち、その先は途切れている。
道路標識には、もう文字はほとんど読めない。
そのとき。
「待って」
真壁が、モニターに近づいた。
「今の……」
映像の右端。
濃い霧の向こうで、何かが動いた。
人影だ。
防護服らしきものを着た複数の人間が、列をなして歩いている。
顔はマスクで覆われ、肌は一切露出していない。
手には何かの機材を抱え、足元を確かめるようにゆっくり進んでいた。
「人が……」
真壁の声が震える。
「人がいる……」
カメラがズームしようとした瞬間、ノイズがまた画面を覆った。
再度クリアになったときには、すでに人影は霧の向こうに消えている。
「完全な、死の世界じゃない」
真壁は、モニターに手を伸ばした。
届くはずもないその距離に、指先を向けながら。
「誰かが……あそこで生きてる。外にも、まだ人がいる」
目から涙が溢れた。
「どこかに、娘がいるかもしれない」
彼女の娘は、地上の別の区画にいるはずだった。
シェルターに入る直前、避難所が分かれてしまい、それきり連絡が取れていない。
それからずっと、真壁は心のどこかで「娘はもう死んでいる」と最悪の可能性を抱え込みながら、同時に「生きているかもしれない」という希望も手放せずにきた。
映像は、それを刺激するには十分すぎるものだった。
「……この投票、受けるべきだと思う」
彼女は振り返った。
涙で濡れた目で、晴人たちを一人ずつ見回す。
「こんな形で決めたくなんてなかった。でも、今までみたいに“誰かがランダムで死んでいく”のをただ見てるだけで……いつか娘に会えなくなるよりは、まだマシだと思う」
「真壁さん……」
藤井が口を開きかける。
「誰か一人を明確に選ぶなんて、私には——」
「分かってる」
真壁はその言葉を先回りした。
「分かってるよ。誰かの名前を書いた瞬間、その人を殺したのと同じだって、みんな分かってる。でも、今はもう、“誰も選ばないで済む”段階をとっくに過ぎてるでしょ」
彼女は自嘲気味に笑った。
「この数日で、何人見送った? “選ばない”っていうきれいな言葉のせいで」
浅倉の顔。
叶空の顔。
南條の笑い声。
奥谷のエプロン。
名前を出さなくても、全員の脳裏に浮かんでいる。
「私は、娘にまた会える可能性があるなら……どんな形であれ、それを選びたい」
その言葉は、あまりに正直だった。
藤井は唇を噛みしめる。
「……私は、その気持ちを責められない。でも」
「“でも、自分の手で誰かを選ぶのは嫌だ”?」
「そう」
藤井はうなずいた。
「誰がどう考えたって、この投票は“誰かを殺すための手続き”でしかない。今までの“ランダム”だって十分酷かったけど、それでも私は、“自分の名前で誰かを死なせたくない”」
「分かる」
晴人も、その言葉には深く頷いた。
彼の研究テーマは「集団意思決定における責任の分散」だった。
多数決。
無記名投票。
ランダム抽選。
人間が「罪悪感」をどうやって薄めるか、その仕組みを研究してきた。
(今ここで、“誰か一人を選べば全員助かる”という条件付きの投票が提示された)
どんな教科書よりも極端なケーススタディ。
これ以上の「材料」はない。
「でもさ」
天童が口を挟む。
「“ランダムで誰かが消える”っていうシステムは、既に散々見せつけられてきたわけだろ。そこからは何も学べない。でも、“自分たちの意思で誰かを選ぶ”っていうケースは、まだ取れてない」
彼は皮肉っぽく笑う。
「向こう側の連中にとっても、たぶん“最もおいしいフェーズ”なんだろう。だからこそ、今これを出してきた」
「そんなことのために……!」
真壁がコンソールを叩こうとして、ギリギリで拳を止めた。
彼女の肩が震える。
「そんなことのために、娘と引き離されて、ここに閉じ込められて、何人も何人も……」
藤井がそっと背中に手を添えた。
さっきまで「誰にも優しくしない」と決めていた自分を、藤井は一瞬だけ忘れていた。
あるいは、忘れたふりをしたのかもしれない。
「……一つだけ、はっきりしてる」
天童が、いつになく真面目な声音で言った。
「この“最終投票”を受けるかどうかは、俺たちに委ねられてる。YESでもNOでも、きっとどっちを選んでも観測は続く。だったら、質問は一つだけだ」
彼は晴人を見た。
「遠野。お前はどうしたい」
唐突に矢面に立たされ、晴人は言葉を失う。
「……俺?」
「そうだ」
天童は目を逸らさない。
「このプロトコルは、最初からお前を“標準モデル”として動いてる。最後の決断についても、お前の選択を基準にする可能性が高い。だったら、ここでお前がどう答えるかを、俺は聞いておきたい」
真壁も、藤井も、自然と晴人に視線を向けていた。
自分の答えが、そのまま「多数派」になるかもしれない重さ。
晴人は、深く息を吸った。
喉が乾いている。
舌がうまく回らない。
「……その前に、言わなきゃいけないことがあります」
自分でも意外な言葉が出た。
三人が、怪訝そうな表情を浮かべる。
「隠していたことです。してはいけなかったと思ってる。でも、どうしたらいいか分からなくて、今まで言えなかった」
晴人は、天童を一度だけ見る。
彼は何も言わず、ただ黙ってうなずいた。
「プロトコルの設定ファイルの話です」
晴人は、設備監視室で見たログを思い出しながら、言葉を紡ぎ始めた。
「“DEFAULT_LEADER_CANDIDATE”っていう項目があって。そこに、最初から俺の名前が書かれていました」
真壁の目が見開かれる。
「最初から、って……」
「俺たちがここに入ってきたときには、もうそう設定されていたみたいです。リーダーの適性を測る基準は、全部“遠野モデル”って名前になっていて、他の人のスコアは“俺との差”で計算されてる」
「それって……」
藤井が息を呑む。
「最初から、あなたを“生贄候補”にする前提でプロトコルが組まれてたってこと?」
「そう解釈するのが一番自然だと思います」
晴人は、淡々と言った。
淡々としているように見せかけるのに、かなり意識を集中させていた。
「天童さんは、だいぶ前からそれを知っていました」
ついでに言うべきか迷ったが、ここまで来た以上、含みを残すわけにもいかなかった。
真壁の視線が、天童に突き刺さる。
「知ってて……黙ってたの?」
「悪かった」
天童は、すぐに頭を下げた。
「怖かった。これを口にした瞬間、場がどうなるか予想できてしまったからこそ、言えなかった。“じゃあ遠野が行け”って空気になる可能性も、“そんな理不尽は許せない”って暴発する可能性も、どっちもあった」
「……今、言ったってことは?」
「このタイミングで隠しておくほうが、もう不自然だからだ」
天童は顔を上げる。
「“最終投票”なんてものが出てきた以上、いずれどこかでこの設定は表に出ざるを得ない。だったら、最後の決断の前に、自分の口から言うしかないと思った」
真壁は、ふっと視線を伏せた。
怒りをぶつけることもできた。
「勝手に決められていた理不尽」に対して、天童と晴人の両方を責めることもできた。
それでも、彼女はしなかった。
「……分かった」
短くそう言って顔を上げる。
「遠野くん。あなたは、“最初から選ばれていた人”なんだね」
晴人は頷きも否定もしなかった。
「でも、それでも聞くよ」
真壁は、涙の跡が残る顔で微笑んだ。
「今、この瞬間に、“最終投票を受け入れるかどうか”を決めるのは、あなた自身だと思う。システムがそう設定してるかどうかに関係なくね」
藤井も、大きく息を吐いた。
「私も……あなたの口から聞きたい。これだけ“標準モデル”扱いされてきたんだもの。最後くらい、自分の意志で言ってほしい」
二人の視線を受けて、晴人はゆっくりとパネルに向き直った。
パネルの中央には、まだ「最終投票を実施しますか? YES/NO」の文字が点滅している。
ここで「NO」を選べば——
何が起きるかは分からない。
ペナルティが続き、誰かがまたランダムに消されるだけかもしれない。
ここで「YES」を選べば——
誰か一人が明確に犠牲になり、残りが「助かった側」として外に出る。
(これまで、教科書の中で何度も見てきた)
トロッコ問題。
囚人のジレンマ。
スコープの無関心。
少数を犠牲にして多数を救う。
多数のために少数が泣く。
そのとき、人はどう理由づけをし、どう罪を分け合うか。
(今、俺はその“典型例”のど真ん中にいる)
誰かを犠牲にする側として。
そして、自分自身が犠牲になる候補として。
晴人は、自分の胸に手を当てた。
「……受け入れましょう」
静かな声だった。
「“最終投票”を」
藤井が目を閉じる。
真壁は、震えながら頷いた。
天童は、ほとんど予想していたような顔でコンソールに手を伸ばす。
「意思確認する」
天童は、あえて形式ばった口調で尋ねた。
「真壁志織。最終投票の実施に、賛成か」
「賛成」
「藤井結衣」
「……賛成」
「遠野晴人」
「賛成です」
「俺も賛成。全会一致だな」
天童が、コンソールの「YES」にカーソルを合わせる。
深呼吸一つ。
クリック。
パネルの表示が一斉に切り替わった。
「最終投票プロトコルを起動します。
ルールを再表示します」
先ほどと同じ説明文が、丁寧に繰り返される。
「リーダー以外の全員が転送されます。
リーダーは、シェルター維持および外部観測のため、指定エリアへ送られます」
その下に、新たな表示。
「投票方法:
各自の個室パネルに、候補者一覧が表示されます。
自分以外の誰か一名を選択してください」
真壁が、小さく息を呑む。
「自分以外……」
「“自分に入れて自爆”は許さないってことだな」
天童が、乾いた笑いをこぼした。
「最後まで、“他者を選ばせる”ことにこだわるわけだ」
パネルはさらに続ける。
「投票は無記名です。
最多得票者がリーダーに選出されます。
同票の場合、“デフォルトリーダー候補”に優先権が与えられます」
その一文に、全員が固まった。
「……今、なんて?」
藤井が、震える声で尋ねる。
天童がスクロールを止め、該当部分を指さした。
「“デフォルトリーダー候補”に優先権が与えられます、だとさ」
真壁が、晴人を見た。
その目は、もう驚きよりも、諦めに近かった。
「そこまで……そこまで決められてるんだ」
「つまり」
天童が、半ば投げやりな調子でまとめる。
「誰に何票入ろうが、最終的に遠野が選ばれる可能性が高い、ってことだ。多数決っていう建前は整えた上でな」
「それでも……投票はするんだね」
藤井の言葉には、皮肉と自嘲が混じっていた。
パネルは、容赦なくカウントダウンを始める。
「投票開始まで:10分」
晴人は、深く息を吐いた。
「……もう一つだけ、言わせてください」
三人が、また彼を見た。
「“俺に投票しろ”とは言いません。そんなことを言う権利はないと思っています」
本心だった。
自分で「ここは僕が行きます」と言ってしまえば、それはそれでまた別の卑怯さになる。
誰かの罪悪感を減らし、自分の選択を美談にすり替えることにもなりかねない。
「でも、俺は、たぶんこのプロトコルの中で一番“観察されてきた人間”です。だったら、最後の“ケース”を取られる役として外に出されるのは、ある意味では筋が通っているのかもしれない」
真壁が、涙を拭った。
「そんなの、筋って言わない」
「言わないけど……少なくとも、俺自身はそう思っておかないと、怖くて立っていられません」
晴人は、苦笑した。
「散々、“集団が罪をどう分かち合うか”なんて偉そうに研究してきましたけど、結局はこうやって、“自分が穴に落ちることでみんなを助ける”っていう一番古典的なパターンに落ち着くのかもしれません。……一番醜くて、でも一番正直な結論かも」
藤井の目に、新しい涙が浮かぶ。
「それでも、やっぱり“特攻”に見えるよ。私は、あなたをそこに押しやりたくない」
「押してるのはシステムです。皆さんじゃない」
晴人は首を振った。
「だからこそ、お願いします。自分がどういう気持ちで票を入れるかだけは、ちゃんと自分のものにしておいてください。罪悪感を薄めるためじゃなくて、“自分はこう選んだんだ”って胸を張れるように」
沈黙が、会議室を包む。
やがて、天童が立ち上がった。
「……投票時間だな。各自、自室に戻ろう」
真壁は、最後にもう一度モニターの外の映像を見た。
霧の向こうで歩いていた人影。
崩れた都市。
どこかで生きているかもしれない娘。
藤井は、奥谷のエプロンがかかった椅子を見た。
誰も看取れなかった人間の重さ。
何もできなかった自分への憎しみ。
天童は、ログの文字列を一瞬だけ見つめ、肩をすくめた。
晴人は、自分の名前が書かれた「デフォルトリーダー候補」の行を思い出していた。
四人は、それぞれの部屋に戻っていく。
◇
自室のドアが閉まると、すぐに壁のパネルが起動した。
「最終投票フェーズ:開始」
白い背景に、四つの名前が表示される。
遠野晴人。
真壁志織。
藤井結衣。
天童。
その下に、小さな注意事項。
「自分自身には投票できません。
投票は一回のみ有効です」
晴人は、無言のままその画面を見つめた。
自分の指は、どの名前にも伸びない。
(俺が誰かに入れることで、その人の票が一つ増える)
そんな単純な足し算でさえ、耐えがたく重く感じる。
(でも、誰に入れるかを“放棄する”ことはできない)
NOボタンは、どこにもない。
投票しないという選択が許されないことが、これほど窮屈だとは思わなかった。
「……すみません」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
晴人は、指先を動かした。
迷いに迷った末、選んだのは——天童だった。
プロトコルの仕組みを最も理解している人間。
最も冷静に状況を分析し、最後まで「観察者」でいようとした人間。
(外に出されても、何かを見て、何かを伝えようとするのは、この人だ)
そう自分に言い訳しながら、投票ボタンを押した。
確認メッセージ。
「“天童”に投票しますか? YES/NO」
YES。
画面が、「投票を受け付けました」とだけ表示して暗転する。
晴人は、ベッドの端に腰を下ろし、天井を見上げた。
しばらくして、廊下に小さな足音が集まり始めるのが聞こえた。
全員が投票を終えたのだろう。
集合を促すメッセージは出ていない。
だが、どうせ結果は全員の耳に届く。
晴人は立ち上がり、扉を開けた。
◇
再び集まった会議室には、もう椅子が四脚しか残っていない。
それぞれが黙って座り、中央のパネルを見上げる。
天童は腕を組み、藤井は膝の上で手を握りしめ、真壁はハンカチを握っていた。
カウントダウンがゼロになる。
ピッ。
電子音が鳴り、パネルに文字が浮かぶ。
「投票結果を表示します」
息を呑む音が、重なる。
「遠野晴人:3票
真壁志織:0票
藤井結衣:0票
天童:1票」
……一瞬、時間が止まった。
晴人は、自分の目を疑った。
「え……」
自分が天童に入れた一票。
それ以外の三票が、晴人の名前に投じられている。
「なんで……」
思わず漏れた声に、真壁が答えた。
「ごめんね」
彼女は泣いていなかった。
泣きすぎて涙が枯れたような顔で、真っ直ぐ晴人を見ていた。
「私も、あなたに入れた」
藤井も、辛そうに笑う。
「……私もです」
天童が、肩を竦めた。
「三票目は俺だ。正真正銘、全員一致でお前に投票したことになるな」
晴人は、言葉を失った。
「どうして……」
「“どうして”も何も」
天童が言う。
「お前が一番リーダーにふさわしいからだよ。本当のことを言えばな」
真壁が続ける。
「最初から設定されてたからとかじゃない。ここまで見てきて、誰が一番“みんなのことを考えていたか”を思い返したら、答えは一つだった」
藤井も、かすかに頷いた。
「私、自分の罪悪感を減らすためにあなたに入れたわけじゃない。そうならないように、何度も自分に問い直した。それでもやっぱり、“最後に誰か一人に任せて外に出る”ってなったら、あなたしか思い浮かばなかった」
晴人の胸の奥に、何かが刺さる。
誇らしさでも、嬉しさでもない。
ただ、痛かった。
「……ズルいですよ」
思わず、本音がこぼれた。
「それ、すごくズルいですよ」
三人は黙ってその言葉を受け止めた。
「俺は、“標準モデル”だから、自分が犠牲になるのは筋が通ってるって、自分の中で無理やり納得しようとしてた。そうやって、自分を生贄の枠に押し込めれば、少しは楽になるかと思ってたんです」
晴人は、拳を握りしめる。
「でも今、皆さんの言葉を聞いたら、それが全部ひっくり返されました。“あなたが一番リーダーにふさわしいから”って言われた瞬間、この選択に妙な正当性が生まれてしまう。それが、一番醜くて、一番逃げ場がない」
真壁が、静かに立ち上がった。
「それでも、私はそう思ってる」
彼女は晴人に歩み寄り、真正面から向き合う。
「娘に会えたら、きっと私は言う。“あなたのせいで、私たちは生き延びられたんだよ”って。……そのとき、あなたの名前をどうしても出したくないほど、私は卑怯じゃないつもりだから」
藤井も立ち上がる。
「私も、“自分は何も決めなかった”なんて言い訳はしたくない。だから、あなたに入れたってことを、一生忘れないつもりでいる」
天童は、最後にぽつりと言った。
「多分、向こう側の連中は大喜びしてるだろうな。“デフォルトリーダー候補が、最終的に全員一致で選ばれたケース”なんて、最高のデータだ」
彼は肩をすくめる。
「でも、それでいい。どうせここまで来た時点で、俺たちはとっくに“実験動物”だ。それならせめて、最後のデータくらい、こっちのプライドで選んだもので埋めてやろう」
パネルが、無慈悲なほど静かに告げる。
「リーダー選出:遠野晴人
リーダー以外の転送準備を開始します」
床の足元が、じんわりと温かくなった。
転送の前触れ。
「……はい」
晴人は、パネルに向かって言った。
「リーダー承認を、自発的に……承認します」
その言葉を、どこかの誰かが聞いている。
「自発的承認」というタグが、きっとログに追加される。
それでも、今この瞬間、自分の口からそれを言う以外に選びようがなかった。
真壁が、泣き笑いのような顔で晴人に抱きついた。
藤井が、その肩に手を添えた。
天童が、少しだけ離れた場所で、黙って見守っている。
足元の光が、徐々に強くなっていった。
最後の投票は、終わった。
誰のせいでもなく。
誰のせいにでもできる形で。
そして——
たった一人のリーダーと、三人の「助かった側」をそれぞれ違う場所へ送る準備が、静かに進んでいた。




