第十七話 桜の木の下で
――あっけなくやってきた別れの朝。
蒼の春休みは終わり学校は始まっていたが、今日は日曜日なので1日を一緒に過ごすことができる。
そしてこの1週間で蒼は必要なものをすべて用意してくれた。「フクロウの羽」「藍の花の塗料」「蝋」「榊の枝」。そして一番重要な花は「サプライズ」だと言う。正直何の花にするべきか悩んでいたので、お言葉に甘えて任せることにした。
朝起きてリビングに入ると、じいさんちゃん、うめさん、ゆうかさんはいつも通りの朝を過ごしている。昨日と何も変わらない風景。ごく普通の何でもないこの特別な時間を、私は死ぬまで忘れないし、忘れたくないと思った。
1年間お世話になった部屋。きっとエーデルワイスでは感じることができない畳のにおい。床に座る文化。低い机で何をするのかと驚いたあの日。
毎日濡れた髪でこの部屋に来た蒼の姿。ココアを持って座る蒼。日記を読む横で絵を描く蒼。目をつぶらずともすぐに思い浮かぶ、たった1年の日常。
4つの季節を過ごした私の洋服は数えきれない量になった。そしてそのひとつひとつに思い出が刻まれている。初めてのデートで着た黒いワンピース。本当は持って帰りたいぐらいだけど、私はそれを置いていくと決めた。
初めて浅草で買ってもらったがま口財布。そこに桜の花びらが描かれた指輪をしまう。
私はこの家に来た日と同じ服装に着替え、すっかり長く伸びた髪を簪で結う。机の上にスマホを置いて、自分のかばんの中に「がま口財布」と「2枚の写真」「家族の肖像画」をしまい、忘れ物がないかを確認した。
家を出るとき、誰も別れの言葉を言わなかった。じいちゃんはちょっと涙目で、うめさんとゆうかさんは笑顔で「いってらっしゃい」と送り出してくれた。
家の敷地を出た蒼は「最後のデートをしよう」と言った。心の中でこだまする「最後」という言葉。私は強がりの笑顔を作って蒼の手を取った。
いつものバス停に向かうが、今日に限ってすぐにバスが来てしまう。いつものように2人掛けの席に腰掛ける。向かった先はもちろん上野だ。
春の上野公園には出店がたくさん出ていて、まるでお祭り騒ぎだ。焼きそばとたこ焼きを買って、2人でわけっこする。外国人がたくさんいたので、私は特別目立ったりはしなかった。
初めてスワンボートにも乗った。箱根で乗った船とはまた違う楽しさがある。一生懸命漕いでたら、蒼と肘がぶつかった。
別になんてことないことのはずなのに、妙な小っ恥ずかしさを感じる。
最後はよく通ったチェーン店のカフェに行き、お気に入りの「黒糖ラテ」を買ってもらった。それをテイクアウトして、上野公園のベンチに座った。
そこから、日が暮れるまで私たちは話し続けた。箱根に向かう電車の中で会話したように、本当にたわいもない話をした。
月が見えるほど暗くなってきたとき、蒼は空を指差した。
「あの月と、ローザの世界の月は同じなのかな」なんて言って笑うが、私の手を握ってくれたあの日と同じように瞳が少し揺れていた。私は何も答えられなかった。ただただ静かな時が流れ、頭の中で言葉を探した。
先に口を開いたのは蒼だった。
「俺の人生が変わったんだ」
「私もだよ、蒼」
「俺が1番好きな花はエーデルワイスになった。お前が見せてくれるまで知らなかったのにな」
「魔法を初めて見た蒼の顔、覚えてるよ」
「なんで俺はお前を助けようとしたんだろうな。正直面倒なことになったって思ったよ。でも、それは思い違いだったな」
「蒼に出会ってなかったら……私どうしたんだろうね」
「お前に出会ってなかったら、俺は自分のルーツを知ることはなかった。興味がなかったんだ」
「みんな、あんなに神棚へ手を合わせてたのにね」
「学校だってダラダラ通ってただけだったと思う。」
「蒼の描く絵、私好きだよ」
「誰かと過ごすことがこんなに楽しいって知らなかった」
「私も……」
蒼の声が春の空気を揺らす。
私の瞳は熱くなった。
深く息を吸った蒼は、私の目を見つめる。
「あの日、ローザと俺が会ったのは偶然だと思う?」
「最初はそう思ってた。でも今は、陰陽師の血に導かれたんじゃないかって思うよ」
「俺もそう思うんだ」
蒼はその日のことを話始めた
――俺とローザが出会う30分前。
不忍池のベンチにいた。桜の花と池をスケッチブックに描いてたんだ。もう暗くなって、帰る時間になった。それでも、なぜか帰りたくなかった。
だから、わざわざ遠回りをして帰ることにした。灰色の鳥居をくぐって、石の階段を上った。
俺は息が切れて心臓がバクバクした。でも、少し休んでもその動悸はなぜか治まらなかった。
ふと、もう閉まってるはずの上野東照宮が気になった。行ったことなんてあまりないのに。月が綺麗だから、あの景色を見たいと思い込んだんだ。
柵越しに人がいるのを見た。こんなに高い柵の向こう側に、どうして人がいるのかと思った。なぜか、それがすごく気になった。
俺はお前を見て、心臓がさらにバクバクした。何かを感じたんだ。
――俺たちの出会いは運命だ。
蒼がいつもは通らない道を通ったから出会った。その事実がなんだか嬉しかった。
陰陽師の血か、運命か、両方か。蒼と出会えたから、その要因はなんでもいい。
月が浮かび、月光が輝き始めるまでの時間はほんの一瞬だ。
私たちはあの場所へ向かう。
一つ目の灰色の鳥居の前で、私たちは手を繋いだ。3つ段を上がり、小さな屋根のもとまで歩く。石灯籠の並ぶその道には誰もいない。
足の裏で地面に敷かれた石の凹凸を感じながら歩く。目的地の柵までは、ほんの少し距離がある。そこへ向かう私たちの足取りは、とてもゆっくりだった。
いざ柵の前に立つと、鮮明に思い出せるあの日の景色。私たちが出会った場所はあの日と何も変わらない。
私は覚悟を決めて、蒼の手を引き空を駆ける。そっと柵を飛び越えて敷地の中へと忍びこんだ。
ただ黙って魔法陣を描いた。蒼も私に話しかけてこない。でも、考えていることは同じだと思う。
魔法陣の中央にフクロウの羽を添え、指先から血を垂らす。私は静かに蒼の顔を見た。
蒼はリュックから7本の赤い花を出した。赤いだけど魔族の花ではない。それは見たことのない花だった。
蒼の穏やかな顔が「素敵な花言葉」の花なんだと教えてくれた気がした。
準備はできた。目が合った私たちは、お互いに逸さなかった。いや、逸らせなかった。
わかっていても、別れが惜しかった。
そして、またしても先に口を開いたのは蒼だ。
「ローザ、ありがとう」
「もう行かないとだよね」とつぶやいた蒼は、魔法陣に手をかざした。それなのに力は込めない蒼は、何かを待っているように見えた。
笑顔で別れよう。
そう思っていたはずなのに、耐えきれなかった私の目から1筋の涙がこぼれた。私はこの時、やっと蒼への想いを自覚した。
蒼はそれを待っていたかのように、私に「またね」と告げる。蒼の手から溢れ出す霊力。応えるかのように私からも魔力が流れ出した。
私たちを包み込む風がどんどん強くなる。そして桜の花びらが私たちの視界を覆った。光出した魔法陣の上で、私はやっと言葉をついた。
――「大好き」




