第十五話 始まりと終わり
たったの半日でもう引き返すことができない――まるで崖のふちでつま先だつような思いだった。
蒼は冬休みが終わり、毎日学校へ通っている。
いよいよ私は3冊目の日記を読み終え、手紙へと手を伸ばした。見慣れたサイズに切られたその紙の大きさは、蒼が外で絵を描くときに使う小さなスケッチブックより少し大きい。懐かしい字から感じるほんのりとした魔力。
文字は日本語だったけれど、右上に小さく書かれていたのは、私の世界の共通言語。「ブルーメン4180年12月19日」。日記では5月21日に手紙が届いたと書かれていた。つまり7か月ほどズレが生じている。さくらもそのことを気にかけているのか、お母さんの書いた日付の下に日本の日付が書かれていた。
私はたった5枚しか手紙がないことを不思議に思ったが、エーデルワイスと日本の時間の進み方の違いが原因かもしれない。私は手紙を読む前に、5枚の手紙に書かれた2つの日付をノートに書き写す。
『4180年12月19日‐1636年5月21日』
『4181年8月26日‐1636年7月14日』
『4182年8月20日‐1636年9月30日』
『4185年2月16日‐1637年3月28日』
『4186年12月10日‐1637年8月7日』
さくらの考察通り、エーデルワイスは日本よりも約5倍の速さで時が進んでいる。5枚の手紙の最初と最後の日付の差は、ぴったり5倍ではない。多分エーデルワイスの暦が日本ほど正確ではないからだ。私は日本のカレンダーを見て初めてうるう年というものを知った。そういった小さなズレが、重なることで誤差が大きくなっていくのだろう。
また、この手紙はお母さんがさくらに宛てて書いた手紙。さくらがお母さんに書いた手紙の日付や内容は、日記を読み進めないとわからない。それでも私は、とにかくお母さんの気持ちを知りたいと思った。
1枚目の手紙。
『さくらの手紙を無事受け取りました。この手紙も無事にさくらが受け取ると信じて書こうと思います。
まずはお誕生日おめでとう。私はさくらと与三郎に誕生日を祝ってもらったのに、直接お祝いできないことを残念に思います。
こちら側の状況はあまりよくありません。魔族は魔力の高い川や湖を拠点に増え続け、エーデルワイスの西側の森は危険な場所になりつつあります。
村のエルフに私は問い詰められて白状しました。突如として姿を消し、魔族とともに帰ってきた私を皆が怪しんだからです。私は妖精の血以外のことを素直に話しました。皆、私を責めたりしませんでした。
こちらに帰ってきて不思議なことがありました。私が全く魔族と遭遇しないということです。その謎が解けたのでこの手紙に記録として残します。
結論から言うと、さくらと交換した簪から力が出ているからでした。誕生日にお揃いで買ったこの簪を、別れの日に交換したことは覚えていると思います。
私は他のエルフに言われるまで気がつかなかったのですが、どうやらこの簪にはさくらの霊力がこもっているようです。魔族は霊力を嫌っているようで、この簪を付けているときは、魔族に遭遇しないのです。
試しに簪を外して湖をまで行くと、途端に魔族と遭遇するようになりました。
こちらに花を送ることについてです。これには鍵の魔法陣を応用できないでしょうか?鍵は結果的に一方通行になってしまいましたが、もしかしたらそれでうまくいくかもしれません。
魔法陣を刻んだ何かを作ることができたらよいのですが。
それからさくらが魔法陣を描けば、そこには霊力がこもると思います。花とうまく組み合わされれば、魔力を倒す力を宿した花になるかもしれません。
さくらの無事と、エーデルワイスの未来を想っております』
手紙を私は拍子抜けしてしまった。淡々と事実だけが書かれた手紙から、お母さんの憎しみとか悲しみは伝わってこないからだ。ただただ、魔族を倒すためだけの手紙だと思った。
しかしこの手紙から得たものもある。お母さんの魔族を倒すことへの覚悟の他に、簪の始まりを知ることができた。離れから出てきた簪は、さくらとお母さんがお揃いで持っていたものだった。そして魔力探査に引っかかったのも、あの簪がさくらの使用していた物ではなく、お母さんが使っていたものが残っていたからだとわかった。私が持っている簪から霊力を感じないのは、エーデルワイスに2000年近くもあったからだと推測した。
そしてこの手紙によれば、魔族は霊力を嫌っている。その理由はわからないが、何かヒントになるかもしれない。
こうして私は3冊目の日記の解読が終わり、4冊目を開いた。並行してお母さんの手紙を読み、日付を整理しながらノートに考察をつづった。
3月上旬、私は2か月で4冊目の日記とすべての手紙を読み終えた。桜のつぼみが膨らみ始め、蒼は再び長い休みに入ろうとしていたころだった。
正直、お母さんの手紙からわかったことはほとんどない。
知りえた少ない情報は、魔族の勢力が増しているということばかりだった。他には魔族に対抗するため、人間も魔法の研究を急いで進めているということ。お母さんも魔法の発展に向けて、人間に力を貸しているということ。さくらの相談に、こうやってはどうかと考察を述べていること。
それからさくらが西暦1637年8月7日の時点で妊娠しているということ。それだけだった。
しかしたった5枚の手紙から、お母さんが相当な覚悟のうえで生活していることが伝わった。自分のせいだという罪悪感と、自分が始めたという責任感だけで日々を送っている。魔族を倒すためだけの生活だった。
一方4冊目の日記でわかったことも、そんなに多くはない。一番大きなできごとは、さくらが結婚したことぐらいだ。さくらは上野東照宮の神主の妻という立場になり、陰陽師としての仕事はしなくなった。その代わり空いた時間を研究に充てている。与三郎も協力してくれているようだが、研究の成果は出ていないようだった。
なかなか新しい情報を得られず焦燥している私に、蒼がこんな提案をしてきた。それは日記を順番に読むのではなく、手紙の日付をもとに重要そうな日付の書かれた日記を読むというアイデアだった。たしかにその方が効率的だと思い、その通り解読をすることにした。
私は5枚目の手紙の日付より後の日記を読むべきだと考え、9冊目の日記の途中から解読を開始した。でもなかなか話は進展せず、そのまま9冊目を読み終わってしまった。
もしかしたら、もう日記から何か手がかりをつかむことはできないかもしれない。そう諦めかけた10冊目のちょうど真ん中で、新しい事実が発覚した。
1637年11月18日
『お腹はだいぶ大きくなり、来月には生まれる予定だ。子どもが産まれたら忙しくなる。そこで研究の方向性を変えることにした。
それはふと、私が生きている間にベギンのもとへ花を送ることができないかもしれないと思ったからだ。
そこで陰陽師の血筋であるものが代々儀式を継ぐことができるように、儀式の簡易化を計ることにする。
そのための魔法陣を刻もうと思う』
1637年11月28日
『私は手のひらサイズの小さな真鍮の板に、目的地をベギンの家の周辺になるような転移魔法陣を組んだ。
成功したかどうかはベギンに手紙を書いたが、いつ返事が来るかわからない。
私は成功したと信じて、儀式化を進めることにする』
さくらは何かを作り上げた。それが何かわかるような記録は残っていないし、お母さんからの手紙も8月7日で止まっている。とはいえさくらの魔法陣が成功していたとしたら、私の家の周辺への転移を確立したことになる。そんなこと可能なのだろうか。私がやるべきことは変わらず日記を読むことだということがわかった。
そしてさくらの人生を、日記の最後のページで知ることになる。――私はさくらの人生の終わりを見た。
1637年12月27日
『2日前に無事男の子を出産した。しかし私たちは名前を付けることができなかった。
私を嫌っていた兄が、私が産んだ子供を呪いの子だとして幕府に密告した。そして私のことも藤乃と名を変えた外国人と謀反を企み、その子を授かったとでたらめな噂を広めたのだ。
この国で外国人と関わることは重罪だ。それも謀反を企てたとなれば、一族死刑になりかねない。
与三郎は知人を介して、子を寛永寺に孤児として預けた。夫も寛永寺に出家することとなった。
しかし私は儀式の確立に成功している。間に合ったのだ。いつか与三郎が身の上を明かし、儀式の継承をさせる。血筋を途絶えさせないように努めると約束してくれた。
私はきっと死刑を避けることはできない。魔族を誕生させてしまった罪を償う日が来たのだ。
それでもいつの日か、私の子孫の誰かが成し遂げる。満月の夜に花を供えてベギンの世界を救うのだ』
うめさんの話していた「陰陽師の死刑」、これはさくらのことだった。しかしその先が続いていた。さくらは自分の子どもと与三郎を逃がすことに成功したのだ。だから蒼の家は陰陽師の末裔として、血を絶やさずに生きている。
私はこの最後の日の日記の内容を読んで、何かが引っかかった。何かを思い出せそうで思い出せない。さくらの言っていることの何かと、私の記憶がつながりそうでつながらない。
何か飲み物を飲んで落ち着こう、そう思いリビングへ向かった。
リビングに入ると、ゆうかさんが神棚に向かって手を合わせている姿が目に入った。
そして次に目に入ってきたのは、神棚に供えられた白い花だ。
その花はエーデルワイスで「ダンキルシェ」と言う。意味は「ありがとう」だ。
ゆうかさんは私に気がついて振り向いた。
「あら、ローザちゃんどうかした?」
私はその特別な花を見て驚いた。花を凝視する私にゆうかさんはこう続けた。
「このお花が気になるの?」
「はい。この花の名前は……何ですか?」
平然を装い返事をしたが、少し震えてしまう声。
「マーガレットって言うの。ローザちゃんは花言葉って知ってる?」
「この花、の、花言葉は何ですか?」
「心に秘めた愛」「恋占い」「信頼」
「そうですか」
「あとね、恋占いから派生して、予言っていう意味もあるって本で読んだことがあるわ」
頭を殴られたように痛い。私の中ですべてがつながってしまった。
ゆうかさんのマーガレットと呼ぶ花を、エーデルワイスではありがとうの花と呼ぶのには意味がある。
その日は満月だった。エルフの皆が私の誕生を祝ってお祭り騒ぎで盛り上がっていた。そして月光が村に差し込んだ時、その花は私の家の周りに突如として咲き広がった。お母さんは私の誕生を神様が祝ってくれたんだと言った。
お母さんもその花を大切にしていた。私が8歳を迎えた頃には、村はエーデルワイスの花とまだ名のない白い花でいっぱいになった。
ある日、お母さんがその白い花をお茶にして飲んだ。勢いよく家を飛び出したお母さんは、村の大人にそのお茶を飲むように言った。それから急激にエルフは魔族と戦い始め、成果を上げた。魔族対戦で人類が優勢になった時、エルフはその花にありがとうという意味を込めて「ダンキルシェ」と名付けた。
――さくらとお母さんの始めた物語はちゃんと終わったのだ。
私は、私の頭の中でぼんやりとしていたことや、引っかかっていたことのすべてを理解した。




