ダンプと印象派
夜明け前の救出
朝の四時。東の空がようやく群青色から藍色へ変わろうとしていた。
山田健治と佐々木剛は、他県で進行中の災害復旧工事を支援するため、二台のダンプカーを連ね、いつもなら走らない国道を走っていた。二人とも五十代。二十年以上、同じ会社でダンプを転がしてきた相棒だった。
「混まねえといいな」
無線から健治の声が聞こえる。
「まだ五時前だ。混むのはこれからだろ」
剛が答えた、その時だった。カーブの先でヘッドライトが異様な方向を照らしている。ガードレールは曲がり、一台の黒いワゴン車が横転していた。
「おい、事故だ。止まるぞ」剛が言ってハザードランプを点滅させて事故地点の十分手前の路肩に寄せて停車した。健治もハザードランプを点滅させて、その後ろに付けて停車した。
二人は転がるように車を降り、横転した車に駆け寄った。運転席では四十代くらいの男性が気を失っている。後部座席には女性と、小学生くらいの男の子、そして幼い女の子。
助手席側を下にして、その車体は横たわっている。ガソリンの臭い。ラジエーターから立ち上る蒸気。
健治はダンプの道具箱からタイヤホイールのナットを回すための鉄の棒を持ってきて、迷わず運転席のガラスを割った。窓に手を入れてロックを解除してドアを開け、キーを回してエンジンを止めた。
二人は、衝撃で膨らんだあと萎んだエアバッグを退かし、固く締まっているシートベルトをなんとか外して、慎重に、しかし急いで家族を車外へ運び出した。女性は茫然としている、女の子は泣いている。男の子は震えている。健治は、意識を取り戻した男性に肩を貸して、ダンプ近くまで移動して座らせた。剛は、女の子を抱き上げ、女性と男の子に車道に出ないように言いながら、ダンプ前まで連れてきて路肩に座らせた。
数分後、車は炎に包まれた。
救急車が到着するまでの間、健治と剛は家族に付き添い、励まし続けた。父親は肋骨を折っていたが、命に別状はなかった。母親と子供たちは軽傷で済んだ。
「あなた方は……命の恩人です」
父親は担架に乗せられながら、掠れた声でそう言った。
警察の事情聴取を終えて、二人は何事もなかったようにダンプの運転席に戻った。
「缶コーヒー、冷めちまったな」
健治は今朝出発時に自動販売機で買ったホットだった缶コーヒーを飲みながら笑った。
それで終わるはずだった。
旅行会社社長からの手紙
事故から二週間ほど経ったある日、健治の家に一通の丁重な封書が届いた。差出人は「株式会社トラベル・グローブ 代表取締役社長 宮下健二」とある。
中を読んで、健治は思わず声を上げた。あの日助けた父親こそが、日本でも有数の大手旅行会社の社長だったのだ。
手紙には深い感謝の言葉とともに、こう記されていた。
「私たち家族の命を救ってくださったご恩は、一生かけても返しきれません。せめてもの気持ちとして、弊社の手配と負担にて、お二人に世界各地の美術館への旅行をご提供させていただきたく存じます。ご迷惑でなければ、ぜひお受け取りください」
剛の家にも同じ手紙が届いていた。
二人は、会社で顔を合わせるなり、半信半疑で笑い合った。
「俺たち、タダで海外旅行だってよ」
「何かの詐欺じゃねえだろうな」
「いや、あの社長の顔、覚えてるだろ。本物だ」
「しかし美術館?絵なんて観るの銭湯の富士山くらいだろ」
問題は会社だった。 いくら大企業の社長からの招待とはいえ、中小の運搬会社で運転手が二人同時に一週間も抜けるとなれば現場に大穴を開ける。二人は冷や汗をかきながら、自分たちの会社の社長室のドアを叩いた。
「社長……実は、」かくかくしかじかで、と健治が恐る恐る事情を説明し、旅費全額負担の招待状を見せると、自身もダンプ運転手だった男勝りの女社長杉本しのぶは、薄笑いを浮かべてじっと書面を見つめた。
「……パリ、オルセー美術館?」
「す、すみません社長!もちろん現場が第一なんで、無理なら断ります!」剛が慌てて頭を下げようとした、その時だった。
「馬鹿じゃないの?あのトラベル・グローブの社長から直々の招待でしょ!? 行くに決まってんじゃん!」
「でも一週間も休むなんて申し訳ないすよ」
「何十年も休まず働いてきたんだし、一週間くらい世界を見て来なさい!」
「えっ、いいんですか……!?」
「当たり前です!二人が事故現場で体を張って人助けした結果でしょう?二人の代わりは他社に頭を下げてでも穴埋めするから大丈夫。ただし……」
社長はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「神棚に飾りたいから、美術館の絵葉書買ってきてくれる?」
「社長……!ありがとうございます!!」
二人は深々と頭を下げた。
数日後、二人は宮下に会いに、トラベル・グローブの本社を訪れた。宮下は車椅子で現れ、深々と頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。あの日お二人がいなければ、私たち家族は今頃……」
言葉に詰まる宮下に、健治は照れくさそうに頭をかいた。
「いや、当たり前のことをしただけです。そんな大層なお返しは……」
「いいえ」と宮下は遮った。
「これは私のけじめです。どうか受け取ってください。それと、一つだけ、ご相談したいことが」
宮下は続けた。
「弊社には『世界の美術館ツアー』という新しい旅行商品の企画がありまして、お二人に実際に体験していただき、感想を聞かせていただければ、これほど心強いことはありません」
健治と剛は顔を見合わせた。美術館などというものに縁のない人生を送ってきた二人である。
「絵とか、彫刻とか……正直、よくわからないんですが」と剛が言うと、宮下は微笑んだ。
「それでいいんです。専門家ではない、普通の方の目線でどう感じるか。それが一番大事なんです」
半信半疑のまま、二人は出発までの数週間の間に失効して久しいパスポートを再申請して受け取り、奇妙な美術館巡りが始まった。
羽田からパリまでの直行便は、二人にとって生まれて初めてのビジネスクラスだった。シートベルト着用のランプが消えるなり、ウェルカム・ドリンクのシャンパンやナッツが出され、メニューにある食事の種類を選んでカートが来たときにそれを告げて受け取り、食後のリキュールを飲み、チーズを齧った。機内の気圧が少し低い所為か、普段より酔いが回るのが早いように感じた。
「なあ、このシート、リクライニングしても後ろを気にしなくていいみたいだな」
「黙って寝とけ。こんな贅沢、二度とないかもしれんぞ」
「しかし、直行便でも14時間以上だぞ。腰に来そうだ」
パリ、シャルル・ド・ゴール空港に着いた二人は、下着くらいしか入っていないほとんど空の小さめのスーツケースを回収し、パスポート・コントロールを通って外に出た。出迎えの人の顔を見ながら進むと、二人の名前を漢字で書いたボードを胸の前に持って待っているビジネススーツを着た女性がいるのを健治が見つけた。二人が近づくと、「山田様と佐々木様ですか?」と言うので、二人は頷いた。
「社長一家が大変お世話になりました。わたくし、お二人の案内をさせていただく、原田と申します。宜しくお願いいたします」
女性は、そう言って名刺を差し出した。そこには、「株式会社トラベル・グローブ パリ支社営業部 原田マリヤ」と印刷されている。
二人は、原田が手配した黒色のワゴン車に乗りホテルに向かい、難なくチェックインすることができた。それを見届けた原田は、明朝9時に迎えにくるので、それまでに朝食を済ますようにと二人に告げ、ホテル内のレストランがある場所と、朝食提供時間を教えて立ち去った。
二人は、それぞれキングサイズ・ベッドの部屋に荷物を置いた後、ラウンジで落ち合って話をした。時差ぼけと戦いながら、窓からエッフェル塔を眺めて剛が言う。
「本物だ……」
「テレビでしか見たことねえよ、こんなん」
こうしてダンプ運転手の美術館冷やかし旅行が始まった。
(続く)




