第2話 鈴の音(2)
土曜日。
祖母に「行ってきます」と声をかけ、澪は自転車で家を出た。
春の日差しは穏やかだったが、湖から吹く風にはまだ冬の欠片が混じっている。頬に触れるたび、ほんの一瞬だけ息が白くなりそうな錯覚がした。
リュックの中の影印本が、こぐたびにとん、とんと背中を叩く。その重みが、なぜか心地よかった。
『諏訪大明神画詞 影印本』
ずっと欲しかった本だった。
父が覚えていてくれたことが、少し――いや、思っていたよりずっと嬉しかった。
諏訪市博物館へ行くのは、小学生の社会科見学以来かもしれない。
あの頃は、ただ先生の後について歩いていただけだった。展示の説明も、右から左へ抜けていくだけで。
今なら、少し違う見方ができる気がする。
そんなことを考えながら、澪はペダルを踏み続けた。
◇
博物館は休日らしく、それなりに人がいた。
観光客らしい夫婦がパンフレットを片手にひそひそと話している。
歴史好きらしい年配の男性は、一つの展示の前からもう十分近く動かない。
小さな子どもを連れた家族は、子どもが飽きるのと親が読みたいのとの間で、ちょうどせめぎ合っているところだった。
澪は受付で特別展のチケットを渡し、ゆっくりと展示室へ足を踏み入れる。
冷房と古い紙と木材の匂い。この匂いを、澪は嫌いではなかった。
御柱祭の映像が、壁際のモニターで静かに繰り返されている。
縄文土器。
黒曜石。
そして、諏訪信仰。
展示ケースの前で足を止める。
鞄から影印本を取り出し、展示の解説と見比べた。
「……なるほど」
本で読むだけでは分からなかったことが、実際の資料を見ることで少しずつ繋がっていく。線と線がゆっくりと像を結んでいくような感覚だった。
祭りの道具。
古文書。
残された記録。
そこには、長い時間を越えて受け継がれてきたものが、静かに――けれど確かな重さで――積み重なっていた。
澪は一つの展示の前で立ち止まった。
知らない時代。
知らない人々。
それなのに、どこか懐かしいような気がした。喉の奥にうまく言葉にできない何かが引っかかっていた。
「それ……」
静かな声がした。
澪は振り返る。
そこにいたのは見覚えのある少年だった。
同じ学校の三年生。
名前だけ知っている。
宮守真尋。
目立つタイプではない。
けれど、周囲の空気だけが彼の周りだけ少し澄んでいるような、そんな不思議な印象があった。
「……宮守先輩?」
真尋は少し驚いたように目を見開いた。
「覚えていてくれたんですね」
「名前だけですけど」
正直に答えると、真尋は小さく笑った。柔らかい、けれどどこか遠くを見るような笑い方だった。
「宮守真尋です」
澪も少し間を置いて答えた。
「神代澪です」
「知っています」
その返事に、澪は目を丸くする。
「え?」
「同じ学校ですから」
真尋は展示へ視線を戻した。
しばらくして、静かに口を開く。
「神代拓真先生の娘さんだったんですね」
澪の表情が変わる。
「父を知ってるんですか?」
「祖父がお世話になったことがあります」
それ以上、真尋は語らなかった。
けれど、その短い言葉の奥には、簡単には触れさせない何かが沈んでいるような響きがあった。
ちょうどその時、展示室の奥から声がかかる。
「真尋くん、来てたんだ」
学芸員だった。
「預かっていた史料、確認お願いできる?」
「分かりました」
真尋は静かに返事をする。
その姿は、この場所にいることがごく自然であるように見えた。まるで、この空間の一部であるかのように。
学芸員は澪にも気付く。
「あら、その本……神代先生のお嬢さん?」
「はい」
「お父さんにはいつもお世話になってるの。今回の展示でも資料について助言をいただいてね」
澪は少し驚いた。
家では無口な父が、この場所では信頼されている。
知らなかった一面だった。父の輪郭が家の中とは違う色で広がった気がした。
真尋は学芸員の後を追いかけようとして、ふと足を止める。
「特別展示室は、ご覧になりますか」
「そのつもりです」
「……今日しか公開されないものがあります」
それだけ言って、真尋は奥へ消えていった。
その言葉の余韻だけが、しばらく澪の耳に残っていた。
◇
特別展示室は、照明が少し落とされ、静けさに包まれていた。
外の喧騒が、扉一枚を隔てただけで嘘のように遠のく。空気そのものが、少しだけ冷たく、少しだけ密度を増しているように感じられた。
中央の展示ケース。
そこに、小さな青銅の鈴が納められている。
説明には、
『祭祀用青銅鈴(用途未詳)』
とだけ書かれていた。
「用途未詳……」
澪はケースへ近づく。
なぜか、目が離せなかった。
初めて見るはずなのに。
ずっと前から知っていたような感覚がある。指先は無意識にガラスへ近づいていく。
その時だった。
――チリン。
鈴の音。
澄んで、涼しく、けれどどこか胸の奥まで届くような音だった。
澪は振り返る。
誰もいない。
展示室には、自分一人しかいなかった。
鼓動が、一つ大きく跳ねる。
もう一度ケースを見る。
ガラスに映った自分の姿。
その隣に――
白い狩衣をまとった青年が立っていた。
長い髪が、風もないのに、ゆらり、ゆらりと揺れている。
目が合う。
その瞳は、人のものとは思えないほど静かで深かった。まるで、湖の底を覗き込んだときのような、底の見えない静けさだった。
瞬きをする。
そこにはもう、誰もいない。
「……今の、何?」
声が、思ったより震えていた。
鼓動が速くなる。
気のせいだ。
そう思おうとしても、耳の奥にはまだ鈴の音が――チリン、と残響のように――残っていた。
展示室の外では、春の日差しが穏やかに庭を照らしている。
何も変わらない、いつもの諏訪。
けれど澪だけは、その日を境に二度と『いつも通り』の世界へは戻れなくなることを、まだ知らなかった。




