第1話 鈴の音(1)
― 諏訪の神は 姿を見せない
だから人は 風を神と呼び
山を神と呼び
水を神と呼んだ
◇
春先の諏訪湖は、まだ冬の名残を手放していなかった。
湖面を渡る風は刃のように冷たく、岸辺の柳の枝先をかすかに震わせては、また静まる。その繰り返しだけが、この湖の呼吸のようだった。
朝の光はまだ淡く、湖面はそれを吸い込むようにぼんやりと白く滲んでいる。遠くの山並みは霞にけぶり、稜線と空との境目はどこにあるのかも分からないほど溶け合っていた。
風が、また湖を渡る。
水面に小さな波紋がいくつも生まれ、重なり合い、やがて何ごともなかったように消えていく。
澪は自転車を止めた。
風が湖面を撫でるたび、水の色が微かに変わる。昨日より青いのか、それとも自分がそう感じたいだけなのか、澪自身にも分からない。ただ、その一瞬を逃したくなかった。
スマートフォンを取り出し、一枚だけ写真を撮る。
シャッター音。
それだけで、胸の奥がすっと満たされる気がした。
「また撮ってる」
振り返ると、彩花がいた。
「おはよう」
「おはようじゃなくてさ」
彩花は呆れたように、それでもどこか楽しそうに笑う。
「毎日見て飽きない?」
澪はスマートフォンの画面を彩花へ向ける。
「昨日より青い」
彩花は画面と湖を見比べる。目を細め、首を傾げ、それでも降参したように肩を落とした。
「……分かんない」
「私も、うまく説明できない」
言葉にすればするほど、こぼれ落ちていくものがある。澪が湖を見るとき感じるのは、いつもそれだった。
「そういうとこだよ、澪は」
彩花は苦笑しながら自転車にまたがった。
「ほら、行くよ。遅刻したら新学期早々みっともないじゃん」
二人は湖沿いの道を離れ、学校へ向かって走り出す。
坂道を上るにつれて、背後の諏訪湖が少しずつ遠ざかっていく。風の音も、水の匂いも、次第に薄れていった。
澪は振り返らない。
振り返らなくても、湖がそこにあることを知っているからだ。
まるで、心臓の音を確かめる必要がないのと同じように。
◇
「そういえばさ」
昼休み、彩花が弁当の卵焼きをつまみながら言った。
「三年生、もう進路説明会なんだって」
「そうなんだ」
「宮守先輩も大変そう」
澪は首を傾げる。
「宮守先輩?」
「あれ、知らない?」
「名前は聞いたことあるような……」
「静かな人だよ。目立たないけど成績いいし」
「へえ」
「それだけ?」
「うん」
彩花は肩をすくめる。
「興味なさすぎ」
澪は曖昧に笑った。
同じ学校でも、知らない人はいくらでもいる。
まして一つ上の学年ならなおさらだ。
窓の外では、雲がゆっくりと形を変えながら流れていた。
その名前が、自分の人生を静かに、けれど確かに変えることになるとは、澪はまだ知らない。
◇
夕方、家へ帰ると玄関に見慣れたスーツケースが置かれていた。
土と埃と、かすかな煙草の匂い。父の匂いだ。
「……お父さん?」
「いるぞ」
居間から声がする。
神代拓真。
考古学者。
発掘調査や史料調査で全国を飛び回り、家にいる日の方が少ない父だった。
「いつ帰ってきたの?」
「昼過ぎ」
「またすぐ出かけるの?」
「明日の朝」
澪は苦笑した。何度も繰り返してきたやり取りは、もう傷つくことすらない。ただ、そういうものとして受け止めるだけだった。
「相変わらずだね」
「仕事だからな」
そう言って拓真は紙袋を差し出した。
「お土産」
「また土器の欠片じゃないよね?」
「人聞きが悪すぎる」
中から現れたのは、一冊の重厚な本だった。ずしりと重い、その手触りだけで特別なものだと分かる。
『諏訪大明神画詞 影印本』
思わず息をのむ。
「……これ、ずっと欲しかったやつ」
「覚えてた」
拓真はそれだけ言って湯飲みに手を伸ばした。視線は本にも澪にも向けられていない。それでも――
不器用な父だった。
でも、ちゃんと覚えていてくれた。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「今、諏訪市博物館で特別展示をやってる」
拓真は新聞の切り抜きを本にはさんで渡す。
「この本と一緒に見ると面白い」
澪はチラシに目を落とした。
『諏訪信仰と大祝』特別展。
開催は今週末まで。
「行ってみようかな」
「ああ」
少しだけ間が空く。湯飲みから立ちのぼる湯気だけが、静かに揺れていた。
拓真は窓の外へ目を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「……母さんも、あの博物館が好きだった」
その言葉に、澪の手が止まる。
「お母さんも?」
「ああ」
それ以上、父は何も語らなかった。
聞けば、きっと話題を変える。
澪には分かっていた。
だから何も聞かなかった。
代わりに、影印本の表紙をそっと撫でる。ざらりとした紙の感触が指先に残る。
母が見た景色を、自分も見たい。
そんな気持ちが、静かに、けれど確かに、胸の奥で芽生えていた。




