夜凪の心
最初に見えたのは自分の視線よりも大きな背中を追いかける光景だった。
その背中の持ち主がこちらへと振り返り、優しく笑って手を伸ばしてきた。温かい手が頭を撫でていく。それが嬉しいのかこの視線の持ち主であるエリティオスが笑った声が聞こえた。
しかし、時間が経つほどに、抱えている気持ちは少しずつ重くなっていく。日々の勉強も剣術も武術も何もかもをそつなくこなしては、淡々と過ぎていく。
王子だから何でも出来る。
誰もがその言葉で自分の努力を片付けていく。
別に努力を認めてもらいたいわけじゃない。
それでも、エリティオスは第二王子としての役割を果たすべく、真っすぐと立ち続けた。
時折、王宮内で見かける黒い影のようなものが呪魔であると知ったのは今より半分も小さい頃だ。
自分には見えるのに周りには見えない。指を指してそこにいると言っても気付いてもらえず、周りの大人達からは不気味なものを見るような目で見られてしまう。
幸いだったのが両親と兄弟が、自分が見えるものを否定せず、理解してくれていたことだ。
だからこそ、エリティオスは抱いていた心を全て折ることなく、立ったままでいられた。
ある日、とある政治家の一人が呟いた一言をエリティオスはこっそりと聞いてしまう。
――媚びを売るなら一番目。二番目も三番目もいないのと一緒だ。
自分が陰でその言葉を聞いているとは知らないままで政治家は誰かに笑いながら話していた。その言葉に同意するように他の者達も笑い声を上げる。
――それでも、保険くらいはかけておこう。
――見えぬものが見えるという珍妙な王子だ。構ってやらねば可哀想だろう。
次々と降りかかる言葉に心臓の奥が矢で貫かれていく感触がじわりと広がっていく。
王子としての責務を果たそうと努力する一方で、周りは自分のことを何も思ってはくれていない。誰もエリティオスという人間を見てはくれていない。
自分とは何か。
自分の存在とは何のためにあるのか。
第二王子など、居てもいなくても同じなら、どうして自分は上に立つべきものとして努力し続けなければならないのか。
いつしか、心の中にぽっかりと大きな穴が開いていく感覚が生まれていく。そこから零れだすように、黒いものが這い出て、そして――呪魔を生み出していった。
自分自身を貶めるように、抱く思いは深みへと落ちていく。
誰も分かってくれない。誰も見出してくれない。
逃げたい。自由になりたい。ここではない場所へ。
表面では笑顔を作りつつも、心の奥底は夜の海の凪のように静かなままだ。何かに揺り動かされることも、深く感じることもないまま日々だけが過ぎていく。
生活が変わっても自分が変わるわけではない。悟っていても虚しいとも思えなくなってしまっていた。
そんな時だった――。
暗闇の中に一筋だけ、月の光が心に射してきた。エリティオスの瞳が映したのは、月明かりの下で輝く眩しい色。
自分を心配するようなその表情を見た瞬間、重く沈んでいた心がふっと一瞬だけ沸き上がったのだ。
・・・・・・・・・・・・
「――っ!」
ばっとアリノアは顏を上げて、意識を取り戻す。
「あぁ……良かったぁ。……戻って来たんだね」
影の壁を保ちつつ、ノティルが心配そうな声を上げる。
「……私が意識を手放して、どれくらい経っていたの」
「多分、一分くらいかな」
「そう……」
まるで死ぬ間際に見える走馬灯のような光景を短い時間で巻き戻すように見ていたということか。
……まだ、身体が重いわね。
それでも動けない程ではない。巡る感情も記憶もエリティオスの中で大きく主張していた断片的なものだ。それを受けただけで、彼の全てを理解したと言えるわけではない。
それでも――。
アリノアがすっと立ち上がるとノティルから驚きの声が上がる。
「もう、大丈夫なの? 怪我は?」
「掠り傷だから平気よ」
ドレスの肩口が呪魔の攻撃によって破けてしまっている。値段がいくらするのか分からないが、弁償しなければならないなら、後回しで考えよう。
「再開するわよ、ノティル」
「うん。でも……」
口籠るノティルにアリノアは不敵に笑った。
「別に、エリティオスを倒すわけじゃないわ。確かにこれほど大きな呪魔は初めてだから、私もどうしようかと迷っていたけれど」
「……もしかして、打開策でも考えたの?」
相棒が感心するように声を上げる。
「そんなに頭のいい方法じゃないわ。……ただ、想いを伝えるだけよ」
「……どういう方法であれ、僕はアリノアの援護をするよ。だから、好きなようにやって」
頼れる小さな相棒にアリノアは笑みを浮かべて頷き返した。
「えぇ、そうさせてもらうわ。……ありがとう、ノティル」
「相棒だからね、当然だよ。……それじゃあ、とりあえず最初はどうするつもりだい?」
「そうね……。……まずは、突っ込みましょうか」
「うん。……えぇっ!?」
驚きの反応がすぐに返って来たが、アリノアはそのまま話を続ける。
「ノティル、あなたどれくらいの大きさまでなら影を伸ばせる?」
「え? うーん……。せいぜい、あの呪魔の半分くらいの大きさかな」
「それじゃあ、一番耐久度と防御力が高いものへと変化して。呪魔を食べることは後回しで良いから、出来るだけ呪魔の動きを止めて、時間を稼いで欲しいの」
「うん、それはいいけれど……」
「その間に私が……エリティオスを説得するから」
アリノアの真剣な表情にノティルも短く喉を鳴らした。
「……分かった。それなら、僕は全力で君を守るよ」
「無理しないでね」
「無理しているのはアリノアの方さ。僕は影だから、いくらでも再生可能だもの」
小さく笑い合って、ふっと息を吐いた。
「……いくよ?」
「ええ」
アリノアが答えた瞬間、ノティルによって築かれていた影の壁はすっと消えていく。
再び、対峙したエリティオスの表情はアリノアが無事であることを知ってか安堵したように見えた。
彼自身もこの大きな呪魔をどのように扱えばいいのか分からないのだろう。作ったまま、吐き出すことが出来ずに溜め込み続けた想いが現状のように形成されているのだ。
……王宮魔法使いも手出しが出来なかったから、ずっと魔具で抑えるしかなかったと言うの?
誰もエリティオスを助けることが出来ないままだったのだ。深い海に沈んだままの彼を引き上げることが出来ず、呪いを溜めた呪魔だけが大きいものとなったのだろう。




