問いかける靄
食事の後は二人で食器の片付けをして、料理の仕方や注意点、献立の作り方などを説明し終えてから、アリノアは帰り支度を始めた。
「え? もう帰るのかい?」
エリティオスは壁にかけられている時計を見やり、時間を確認してから残念そうに呟く。
「ええ、私の役目は終わったもの。……今日の夕飯はスープの残りがあるけれど、今後、包丁と火を扱う時は十分に注意してから使ってね」
「うん、分かったよ。今日は色々と教えてくれてありがとう。アリノアは説明が上手いから、すぐに料理の仕方が頭に入って来たよ」
「……そう」
エリティオスは心からそう思っていると言わんばかりに素直に自分を褒めてくるので、少々気恥ずかしく感じてしまう。
「途中まで送ろうか?」
「ううん。……私と一緒にいたら、変な噂があなたに立つもの」
「僕は別に構わないんだけどなぁ」
エリティオス第二王子に恋人がいると噂が広まれば、学園の女子共が卒倒しかけるだろう。ただでさえ、気苦労が多そうなエリティオスに迷惑をかけるわけにはいかない。
アリノアが鞄を持って椅子から立ち上がると、エリティオスは扉まで見送るつもりなのか、彼も同時に立ち上がっていた。
「今日は本当にありがとう、アリノア」
「もう、何度お礼を言う気なのよ」
「だって、お礼を言うことは大事だろう? それに君のおかげで僕の暫くの食事は助かるわけだし」
「……また、何か分からないことがあれば聞くといいわ。教えてあげるから」
「学園内で聞いてもいいのかい?」
「ええ」
「……アリノア」
名前を呼ばれたアリノアはエリティオスの部屋の扉の鍵を開けつつ、少しだけ彼の方へと振り返る。
すっと、自分の左耳のすぐ傍にエリティオスの右手が扉に接するように添えられていた。彼の方が身長は高いのに、覗き込むようにアリノアの表情を窺ってくる。
「……また、部屋に遊びに来てくれる?」
縋るようにも聞こえる言葉が間近で聞こえ、アリノアは息を短く吸った。エリティオスの碧い瞳が濡れているようにも見え、その視線は自分の姿だけを捉えている。
憂いを秘めたような表情にアリノアは一度目を閉じて、わざとらしく溜息を吐いた。
「あなたが望むなら、また来るわ。ただし、次はケーキの一つでも買っておくことね」
冗談っぽくアリノアが鼻を鳴らしながらそう言うと、エリティオスは目を丸くし、小さく噴き出した。
「そうだね、今度はそうするよ。次に君が来る時は僕なりに持て成させてもらうから」
「まぁ、楽しみにしておくわ」
やっと和やかに笑ったエリティオスの表情を確認してから、アリノアは安堵するように息を吐く。
「それじゃあ、また教室で」
「またね」
エリティオスが小さく振って来る手に振り返してから、アリノアは廊下に足音が響いていないことを確認して、扉をゆっくりと開ける。
扉を開けた瞬間、お互いに無言となり、視線だけを交わらせる。
「……」
名残惜しそうに自分を見つめてくるエリティオスの表情は意味ありげに見えて、アリノアの心臓はほんの少しだけ飛び上がりそうになった。
瞬間的に沸き立つ感情を抑えて、アリノアはそっと扉を閉めていく。小さく響くのは扉が閉まった音だけだ。廊下には他の入寮者である生徒達は誰一人としていない。
扉を閉めた後で、アリノアはその場に少しだけ佇んでしまう。
本当は自分だって、エリティオスと別れの挨拶をするのは少しだけ寂しかった。
だが、これ以上の時間を二人で過ごせば、彼に対して友人ではない気持ちが沸き起こりそうになったため、静かに逃げたのだ。
……友人だもの。
言い聞かせるようにそう呟いても、誰かが肯定してくれるわけではない。エリティオスが自分に好意を持って接してくれているのは感じ取れている。
しかし、その好意は世間一般の恋愛と同じにしてはいけないのだ。もちろん、自分が恋愛方面に慣れていないということもあるが、きっと彼が自分に抱くのは友達の一人だからだと分かっている。
……分かっているわよ。別にエリティオスの特別になりたいわけじゃないわ。
それでも、自分の中でエリティオスは特別かと聞かれれば、特別だと言ってしまいそうになる自分がいた。彼が王子だからではない。
ならば、この重い靄がかかったような感情は一体何なのだろう。
「……ふぅ」
アリノアは自身を落ち着かせるために深呼吸してから、顔を上げて立ち去るべく廊下を歩き始める。
悩んでばかりいるのは自分の性に合わない。夕飯前に剣の鍛錬でもして身体を動かそうと、アリノアは早足で教団へと戻ることにした。




