(幕間) 帝国歴一二七九年 ブリムスティルの獣 〇二
「やはり碌な命令じゃねえよ……」
「まあそういうな、治安維持や偵察任務も俺たちの仕事だぞ」
命令受託より数日後……アナスタシアとニルスは真新しい命令書を手に、戦士級人形騎士フェラリウスを伴ってブリムスティル渓谷へと赴いていた。
この渓谷は帝国領にかろうじて組み入れられてから一〇〇年ほどが経過しているものの、ヴォルカニア王国との国境近くにあるため、戦略上の防衛拠点として検討されていた時期がある。
しかし現在ではこの渓谷を防衛拠点や移動経路に使うことはなく、半ば放棄された場所となっていた……この渓谷は入り組んだ迷路のような構造を持っており、地元の狩人ですら足を踏み入れない秘境の一つだからだ。
両国ともにこの渓谷へと軍を進駐させたことがあったが、行方不明者を多く出したことで結果的にこの場所を利用しようと進言してくる者はいなくなっている。
「なあ……おっさんも知ってんだろ、この渓谷の話」
「知っているよ、帝国領に編入されるよりも前から知られている魔の渓谷、人喰いブリムスティルとか、魔物が住むって言われてるよな」
「そんな場所を偵察しろって、命令が性格悪すぎるんだよ、あのクソ殿下」
「お前なあ……不敬だぞ」
フェラリウスのハッチに腰を下ろしたまま、遠眼鏡を使って渓谷の奥へと視線を向けているアナスタシアだが、少し霧のかかった渓谷内部までは見えないらしく軽いため息をついた。
帝国軍は結構な被害を受けながらも渓谷の半分程度を偵察することに成功しており、命令書の中にはそれまで作成された簡易地図が同封されている。
渓谷そのものが人を食うと噂されているが、実際にはそうではなく単純に迷路のように入り組んだ地形が多く、方向感覚を失わせる特殊な魔力が漂っているという結論らしい。
それはそれで厄介なのだが、未調査地域に足を踏み入れた偵察兵はこぞって帰ってこなかったばかりか、獰猛な猛獣らしい吠え声が響いたことで、偵察部隊は慌てて撤退を余儀なくされた。
「どちらにせよ、この渓谷には魔物らしき何かがいる、ってのが現在の予想でな」
「それをどうにかしてここを使えるようにしろって話かよ、だりぃな」
「まあ、俺たちは軍人だから命令には逆らえんよ……とはいえ魔物の種類もわからんのがな」
グラディス中将と軍司令部はこの渓谷を通過して王国領内への迂回行動を取りたいと考えていて、なんとかしてこの場所の危険を取り除きたいという意図があった。
過去にも何度かこの渓谷を使うことは検討されていたものの、肝心の王国側につながる場所がどうやら魔物の生息地域になっているようで、そこから先へと進めない。
そこで中将はこの魔物を排除するために麾下の人員から最適なものを選んだ……という名目で二人に白羽の矢が立っていた。
命令としてはシンプルだ……『渓谷内を通過し、王国領内への橋頭堡を確保せよ、脅威がある場合はこれを排除すること』だけ。
その脅威が問題なんだけどな……とニルスは少し胃がキリキリと痛む気がして思わず腹部に手を当てる。
「胃が痛え……ポーション欲しい」
「ちょっと前に飲んでなかった?」
「そうなんだけどさ、痛いんだよ」
「先日頑張りすぎたからじゃねえの?」
「やるなら真面目に、ってのがおっさんのモットーなの」
ニルスは軽いため息をついてから再び痛む腹部を軽くさするが、確かに無理をしすぎたという自覚はある……先日行ったようなやり方は魔術師の戦い方ではない。
特に魔法である『アクセラレーション』の負荷が、体に強い疲労を感じさせており正直ここ数日の休息では完調には至っていないのだ。
それでも軍の命令とあればやるしかない、所詮軍部における階級が低い彼らには任務を選り好みするような権限はなく、回ってきた仕事を地道にこなす以外に日々の糧を手に入れる術はないのだから。
軽いため息をついた後、ニルスはハッチの上で何度も指を鳴らして首を傾げているアナスタシアへと声をかけた。
「何してんだ?」
「いや前におっさんが見せてくれた魔法の練習を……」
「ティンダーか? お前タバコ吸わねえだろ」
「一応支給品でもらったんだ」
見ればアナスタシアの口には帝国軍で愛用されている『帝国印』がくわえられ、それに火をつけようとしていたらしい。
初めて会った時にタバコを渡したのだが、酷くむせてそれから彼女が吸っているところを見ることはなかった……そのため吸わないものだと思い込んでいたのだが、いつの間にか支給品のタバコを所持するようになっていたのか。
軽く指を鳴らすと、ひとりでに彼女のタバコに火が灯る……軽くふかしてから、再び咳き込むアナスタシアを見て思わず口元を歪める。
「無理すんなよ」
「む、無理じゃ……ゲホッ!」
「帝国印はかなり強いからな、貴族向けの『黒薔薇』や少し高めの『鷲章』あたりがいいと思うが」
「黒薔薇? は匂いが好きじゃねえよ、甘ったるくて」
「貴族御用達だしな、あれは……鷲章はどうだ?」
「どんなのだよ?」
「あれだよ、鷲の紋章が描かれてるやつ」
黒薔薇は帝国領内で流通しているタバコの中では最も高価で、貴族向けの商品として知られており、鷲章は比較的裕福な人物が嗜む銘柄である。
そのほかにもいくつかの銘柄が存在しているが、帝国印は軍の支給品として配られる程度には安く、そして味もニオイもいまいちという評価でしかない。
それでも最前線勤務においては戦場の友として愛され、軍を除隊してからも懐かしさを覚える人も少なくはないと言われている。
とはいえ、初めて吸うにはかなりきつい味をしていて、軍隊で配られた帝国印の味が酷すぎてむしろ嫌煙家に転向するなどという笑い話すら存在していた。
「あー……あれはなあ、あんまり印象の良くない上官が吸ってたんだよな」
「尉官からは希望すれば支給されるしな」
「まあ、タバコになれる意味でも今はこいつでいい……うげっゲフッ!!」
「……無理すんなよ」
酷く咳き込むアナスタシアを見上げながら、簡易地図を広げたニルスは任務のために頭を回し始める……この渓谷は一度迷うとそう簡単に出てこられない。
人形騎士が通れるだけの広さがあり、目印になるようなものが少ないためどうしても似たような場所をぐるぐる回っている感覚に陥るそうだ。
そして迷路のように畝った道などもあちこちに存在し、次第に感覚がおかしくなってくるという‥…おそらく渓谷内にはまだ脱出できなかった帝国、王国両方の兵士の遺体や人形騎士がそのまま放置されているに違いない。
「とりあえず一緒に行動しよう、俺が足元にいるのだけ注意してくれ」
「わかった、少し距離をとってもらえれば大丈夫だと思う、近づきすぎると見えなくなるから」
人形騎士は足元の視界が酷く悪く、外を見るためのモニターでは足元に何があるかわからない……そのため指揮魔術師のような存在が補佐をするのだが、慣れていない兵士だと味方を踏みつけることもあるそうで、移動時にも一定の距離をとることを推奨されていた。
タバコを機外へと放った後アナスタシアは、ハッチの上に立ち上がって大きく伸びる……その様子を見ていたニルスは仕事に移るために、広げていた命令書を片付け始める。
渓谷に突入した後、何があるかわからない……せめて問題が起きたとしても、この相棒だけは逃さなきゃいけない、と決意を新たにするのだった。
「それじゃいくとするか……アナスタシア、これに成功すれば少し休暇がもらえそうだからな、頑張ろうぜ」
_(:3 」∠)_ 渓谷アタック!
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