序章:覇王の誕生
冥王と呼ばれる存在がいた。
深く昏い闇に包まれた北の最果ての城に、数多の強大な妖魔を従えて座す、恐ろしきもの。
今は静かにそこに存在するだけだが、ひとたび、その妖魔達の王が世界の全てを奪おうと動き出せば、この世の全ては瞬く間に凍り付き、永遠の冬に凍える事になるだろう。
妖魔達は囁く。
王は間もなく軍を上げると。
脆弱な人間達が我が物顔で豊かな土地を闊歩する時代は終わり、妖魔による支配の時が始まると。
殺戮と陵辱の期待に嗤う妖魔達は。
しかして、その日、絶望を見た。
たったひとりの、人間の男だった。
星の瞬きのような聖剣を携えて、銀の篭手を嵌めた、麗しい騎士。
たったひとり、その男は突如として極北の冥王の城の前に現れ、立ちはだかる強大な妖魔達を片手間にあしらうと、悠々と玉座に至ったのだ。
そうして、ひと晩の激闘の末、冥王を打ち破った。
玉座の間。
蒼白な氷の床に膝を突いた冥王を前に、騎士はひとつ大きな息を吐く。
そうして聖剣を振り上げて。
「やー、疲れた、疲れた」
どす、と。
聖剣は冥王のすぐ横に突き立てられる。
「な、に……!?」
ギョッと見上げる冥王に、騎士は銀の篭手までも外して投げ出すと、さて、と膝を突き、視線を合わせて。
「私の勝ちだ」
にんまりと、微笑む青い青い瞳を、冥王は呆然と見詰めた。
「そうだろう?私が勝って、貴公が負けた」
「ならば、どうした……!?」
それは侮辱かと冥王が僅かに残った力を集めて攻撃に転じる前に。
「助力を願いたい、我が好敵手」
じっと、見詰める青い目に、冥王は何故か胸を突かれた気がして動きを止めた。
「覚えているだろうか、私のことを」
じっと、顔を付き合わせたままの沈黙があった。
そうして、冥王はやがて、静かに、その目を見開いていく。
「お前、は……」
「やっぱり覚えているな、魔神殿」
その瞬間、騎士は嬉しげに微笑んだ。
それはこれ以上ないほどに楽しげで、満足げな、かつて冥王が、〝世界が終わった〟後、〝この世界〟が始める前に見たままの、彼がただの人として見せた、唯一の表情だった。
「そうそう、会ったら訊きたいと思っていたんだが、私の肉は、どんな味がした?美味しかったか?」
楽しげにクフクフと笑う騎士を、かつて玉座も名誉も得られなかった忘れられた騎士王を、遠い遠い以前の世界で魔神と呼ばれていた冥王は、唖然と見詰める。
「お前、どうして」
「いや、やっぱり味の感想は後でゆっくり聞こう。それよりも、先に要件だった」
騎士は、小首を傾げて冥王に手を差し出した。
「私と世界征服して欲しい」
今度こそ、時が止まったように、静寂が満ちた。
何を言っているのだと、呆然の顔で見詰める冥王に、騎士はキョトンと首を反対に傾げ直す。
「……ええと、私は、貴公に勝ったな?妖魔は、強い者には絶対服従だな?……だから、貴公はもう私の言うこと、何でも聞いてくれるな?……な?」
少し不安になったように確認を取られ、冥王はついに頭を抱える。
「……何があったというんだ、お前に」
前世で生きたまま食い殺されたせいで気が狂ったのか、と。
溜息を吐いて問う冥王に、それは、と騎士は目を瞬いて、少しだけ遠くを見るような目になる。
「私はかつて世界を救った勇者で、そして、今世でも世界を救う勇者になるはずだった。……そう、神にだってなれるはずの、勇者の中の勇者だ。……自分で言うと恥ずかしいな」
宣言しながら、少しだけ照れたように眉尻を下げる顔は、しかし、次には冥王が見たことの無い挑発的な表情を浮かべる。
「その私が、世界の最大の敵になるなんて、神でも予想していない。いや、そもそも神は、私にそんな事が出来ると思っていない」
名も顔も知らぬ誰かの為に。
玉座も、名誉も得られなくとも。
万民の守護者であり、全ての人にとっての理想の誰かを映す鏡である、最高の王。
「かつての私なら、確かにそうだった。誰かを支配したいと思う事も、誰かを傷付けたいと思うことも、他の全てを投げ出してでも誰かを助けたいと願うことも、無かったんだ」
けれど、と、騎士は笑った。
心底で嬉しそうに、愛しそうに。
「けれど、この世界では違う。私は全霊を持って、他の誰の為でもなく、私の為に、戦える」
神様の設計は既に破綻したと、その声は言い切った。
「貴公、人間よりずっと長寿だろう。ならば貴公と契約すれば、私もほぼ不老不死になる。……合っているか?」
「……ああ」
「すると、だ。本気で世界征服が出来てしまうくらい強い、しかもほぼ不死身の悪者が誕生してしまうな?」
「……言いたいことは色々あるが、続けろ」
「すると、世界の基礎で安全機構が発動する」
そこで、騎士は、ふわりと微笑んで。
「私の大事な友人が、やって来る。最期の最期に、私自身の幸せを願ってくれた、友人が」
目を瞬いた冥王に、聞こえていたんだ、と騎士は目を閉じて囁いた。
「書斎の中に神と彼がいた。どうやら私の復元を、彼が神に交渉してくれた様だった。だから、復元されながら、私は全てを聞いていたんだ」
そうして騎士は訥々と、以前の世界の最後、この世界が始まる前に、神の書斎で結ばれた交渉を語ってから、目を開き、真っ直ぐに冥王を見た。
「頑張った者が報われないなんて、あっていい訳がない。私は経験者だからわかる。皆が平和なら良いというのも本音だが、それとは別に、報いがないのは、本当は、凄く辛かったんだ」
「……だからお前は、自ら世界の脅威になることで、安全機構を作動させ、あの箱庭で出会った勇者を……世界の基礎に埋め込まれた銃士を、呼び出すというわけか」
「そうだ」
迷いない肯定に、しかし、冥王は眉を顰める。
「しかし、それは無意味な行為だぞ。お前を倒せば、あの銃士は再び眠る事になる。ほんの一時の解放に過ぎない。まして、あの銃士の家族や花嫁がこの時代に再生している保証もない」
知らず忠告のような、気遣わしげな響きを帯びた声に、騎士は笑って首を左右に振った。
「呼び出す事が目的ではないんだ。その先が、目的になる」
「その先?」
「2度目の神殺しだ」
迷いのない断言だった。
「貴公は物凄く強い。それで、私は貴公よりも強いし、神にもなれる勇者だ。そして、その2人を倒すための最適値を設定して目覚めるはずの銃士殿。……つまり無敵では?……たぶん」
篭手を外した手の平は、冥王に向けて差し出されたまま、少しだけ左右に揺らされる。
「神を殺して、安全機構として埋め込まれた魂を、世界の輪廻に戻すんだ」
冥王は暫し絶句してじっと青い視線を見返した。
「本気か……?創造主を殺して、しかも世界の根幹を弄るつもりか?何が起きるかわからんぞ」
「そう心配する事でもない」
騎士はにんまりと首を傾げた。
「この世界で、神は既に絶対ではないのだから」
あの書斎の記憶を騎士が保持したまま再生してしまった事自体が、それを示していた。
騎士の記憶の存在こそが、神にとって不都合なこと、その思惑、その絶対性の崩壊を示しているのだ。
まして、かつての世界では、勇者であること、顔も名前も知らない万民のための理想の王であること以外の選択肢など考えられなかったはずの騎士が、それを跳ね除け、たったひとりの友人のために世界の敵になろうなどと思考を抱いたのならば。
「軍師殿は、竜退治殿は、銃士殿は、やり切った。彼等は確かに、人間と対等に交渉させるという事実を持って、この世界における〝神の絶対性〟という概念を殺した」
この世界は、既に神の手から離れた。
書き込まれた運命通りに進む無機物ではなく、自ら思考し、変化する有機物へと変貌を遂げたのである。
「この世界に神は不要だ。そして、神の敷いた基礎がなくとも、この世界は崩壊しない」
言い切る騎士を前に、冥王も状況を把握して、なるほど、と思わず自分の顎を抑えた。
しかし。
「だから、まずは私と貴公で世界征服を目覚すとしよう」
騎士が楽しげに差し出す手を見て、ポツリと、溜息を零す。
「……だが、あまりにお前が救われない。誰かのために存在を悪として消費されるのは、かつて万民を救う勇者として存在を消費された事と何が違う?」
その呟きに。
「いいや」
騎士は笑って首を左右に振った。
「違うさ。絶対に、違う」
青い目は再び細められ、冥王は怪訝に首を傾げる。
「誰かの願いを叶えた結果、勇者と呼ばれ、玉座も栄光も得られなかった事と、自分の意志で魔王になって玉座に座る事は、まったく違う」
もう一度、騎士は冥王に手を差し出した。
「誰かの願いじゃなくて、私の願いだ。ならば私が私の願いを叶えることの、何が不幸だと言うんだ」
早くこの手を取れとばかりに。
「俺の願いを、一緒に叶えてくれるか?」
じっと見詰められた冥王は、やがてゆっくりと苦笑いして、その手を取った。
「……あの最期の時、我が願いは叶えてくれなかった口で、よくぞ言う」
「今叶えてやった。私に懇願させたかったんだろ?」
悪びれない顔に、ああコイツはこんな男だったのかと、冥王は笑った。
高潔で完全無欠の、神にも慣れた騎士王は。
本当は、こんなに不遜で我が道を往く、口の減らない愉快な奴だったのだ、と。
「お前に悪さなど出来るものか?」
「……頑張って考えた結果、世界征服は凄く悪そうだと思ったんだが、もしかしてズレてるか?」
永遠の冬の中に佇む城で。
氷の玉座の間、神妙な顔の騎士王の手を、冥王は呆れて少し引っ張った。
「……先が思いやられるな」
仕方ない、と、そうして楽しげに。
「いいだろう、どう足掻いても高潔で愛すべき冬の騎士王アルンフリード。……俺がお前を、世界一の悪役に仕立て上げてやる」




