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女神の箱庭  作者: 空野 氷菓
綻びの英雄達
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勇者の献身


 そこは、ひどく居心地の良い離宮でした。


 「寒くないだろうか?」


 「ええ。とても温かいです」


 白銀の髪をした勇者の問に、うつくしい女神は答えました。


 終わった世界の残滓。女神が保つ箱庭の宮殿。その隅にある離宮。

 窓の外には、しんしんと雪が振り続けています。

 深い深い青を帯びた夜空に、鈍い鈍い灰色の雲が入り混じって。

 暗い空から降る純白の雪は、下界を染め尽くしていました。

 外は一面、白と、その影の青に包まれています。


 動くものもない冬の世界。


 窓の向こうに広がる無音を見詰めて、青年は窓辺に立っていました。

 雪の影と同じ、青い青い瞳と、雪そのものと似た白銀の髪をした青年でした。

 きめ細かな肌に、通った鼻筋、形の良い唇と、アーモンド型の瞳。粉雪のように透き通るような優美さと、氷のように鋭利な頑強さとを兼ね備えた容貌の、玲瓏な勇者でした。

 その銀の篭手は外されて小机の上にありましたが、剣帯には名高い長剣が燦然と備えられています。


 王国歴三〇二年、世界を呑み込もうとした忌まわしい魔神の進軍を退けた、第二王子アルンフリード。

 百万の怪物の軍団を退け、神すらも名乗った忌まわしい魔の王を討ち取った、世界一の名将、救世の騎士王子。


 「しかし、ここには何も面白いものはない」


 その騎士は、少しだけ困惑したように女神を振り向きました。


 「中庭に行かれてはどうだろうか?あそこならば暖かいし、栗鼠や兎もいることだろう」


 終わった世界に残された箱庭の宮殿。

 その中庭は常春でした。いつも春風が吹き抜け、若草の合間には冬眠から覚めた栗鼠や、冬毛の抜けたばかりの兎が走り回っているのです。


 対して、この騎士が居所と定めた離宮は、永久とこしえの冬の宮。

 常に雪が降り積り、木々も動物達も、葉を落とし、息を潜めて、静寂を守っているのです。


 「竜退治の騎士も、貴女を待っているはずだ」


 穏やかに、騎士は言いました。


 「彼は貴女をとても懸命に慕っている」


 微笑ましげに首を傾げる姿に、女神は答えません。


 暖炉では赤々と焔が揺れていました。

 ランプが一つ灯っているものの、その光の届かない天井、そして家具や部屋の隅が闇に沈んでいる、離宮の寝室。


 そこはとても静かで、凍えない程には密やかに暖かく。

 いのちあるものの気配は、なく。


 ひどく居心地の良い場所でした。


 沈黙、静寂。

 しばし、窓の外を再び見詰めてから、騎士は静かに息を吐きます。


 「私は口の上手い男ではない。貴女を楽しませる話しなど、できる自信はないのだが……」


 「私がここにいては、迷惑ですか?」


 女神の声は、微かに震えていました。

 鈴の鳴るような可憐な声は、怯えたように震える桜色の唇から心細く落ちます。


 「私を、ここに置いては頂けませんか?」


 「貴女を厭うているのではない」


 騎士は困ったように眉を下げて、女神を振り向きました。


 「貴女が望むのなら、好きなだけ、ここにいらっしゃれば良い。しかし、ここには何もない故、私の方が些か申し訳ないと思ったものだから……」


 「なにも、なにも無いことこそ、救いなのです」


 女神は儚く、崩れそうな声で囁きます。


 「ここは、とても静かです。囀る鳥の声も、若草を揺らす栗鼠の足音も、あまりに眩しい少年の声も……ありません」


 獣に攫われた生娘のように震え、それでも懸命に嗚咽を堪えて口元を抑える女神に、騎士は目を瞬きました。


 「……あの少年の思慕は、貴女を苦しめるということだろうか?」


 「いいえ、いいえ」


 女神は首を左右に振ります。


 「苦しめるなどと、あんなにも、いとおしく、かわいらしい、やさしい子の、思いを……」


 「だが、だからこそ、貴女はそのように震えているのだろう」


 騎士は静かに首を傾げ、問い掛けました。


 「あの魂が、本来、生きて享受すべきだった年月を奪ったこと。そして今、勝ち目の薄い過酷な戦場に置く駒として目覚めさせたこと。貴女は、悔いておられるのか?」


 蒼白な女神は、とうとう、世界の何よりも青くうつくしい瞳から涙を流し、肩を震わせました。

 しかし、気丈に口を引き結び、フルフルと、懸命に首を左右に振るのです。


 「いいえ、いいえ」


 せめて悔いてはならぬのです、と。

 掠れた声で、鈴の声は喘ぎました。


 「いけません。私は、せめて、せめて、悔いてはいけないのです」


 「……しかし、貴女は泣いておられる」


 騎士の言葉に、女神は答えられぬまま、憐れに震えます。


 「……私は牢獄の中で、ひとり死んだ」


 やがて騎士の穏やかな声が言いました。


 「叛逆の罪と、そう人々は言ったが、私に兄の継ぐべき玉座を簒奪する気などありはしなかった」


 それは、この騎士が魔神を討伐して間もなくの事でした。

 無敵の将軍にして、最高の勇者と讃えられながら、栄光を噛み締める間もなく。

 この悲劇の騎士が追求されたのは、兄王への叛逆の罪でした。


 「覚えのない罪だった。全身に毒の回るのを感じながら、最期まで、騎士として忠誠を示し切れなかったことを、悲しいと思っていた」


 数々の苦難を乗り越えて、世界を救いながら。

 その最期は、誰にも救われることなく、看取られることなく。

 孤独に、幽閉塔の中で誰かが水差しに忍ばせた毒に蝕まれ。

 苦痛のうちに、ひとりだけで死んだ、騎士王子。


 それでも今、彼は一点の曇りもなく、静かに微笑みました。


 「だが、それで良かったんだ、きっと。たとえ俺に、僅かも玉座を奪う気などなかろうと」


 ただ透き通るように真摯に。


 「俺が生きていれば、きっと、民や臣下の中には惑いが生まれただろう。人の世とはそういうものだ。俺か兄か、玉座に据えるべき者を争い、派閥が生まれ、世は乱れたはずだった」


 そんなものは望んでいない、と。

 世界を救った勇者は、迷いなく言い切るのです。


 「誰もが笑っていられる世界が良かった。戦の恐怖に震えることもなく、田畑を燃やされて飢えることもない、そんな世界が。そういう世界を守る為に、俺は全部を賭けて戦ったのだから」


 だから良かったのだと、歌い上げる声がありました。

 その一途な誠実さと優しさで、世界すらも救い切った高潔な歌声こそ、千年王国の至宝。


 「せっかく救った世界で、誰かを苦しめてしまう前に。退場出来たことを、俺は幸運に思っている」


 顔も知らぬ誰かの幸福のために。

 名も知らぬ無辜の人々の為に。

 自らの死すらも幸運と歌う、高潔な声。


 女神がかつて、その一等輝く時に摘み取って保存した、勇者の魂。


 それは自らが享受するべき時間を、他ならないこの女神の計略に摘み取られたものと知りながら、なおも。


 「貴女が泣くことを、俺は望まない」


 来るべき日の為に死を撒き、勇者達の魂を保存し続けた女神に、微笑むのです。


 「……貴方は、優し過ぎるのです、アルンフリード」


 女神は震えながら言いました。


 「……あの冷たい幽閉塔で、貴方はひとりきりで……あんな、あんな、さみしい最期を……」


 涙を流して震える女神に、高潔な勇者は困ったように再び小首を傾げて微笑みます。


 「俺は許している。いや、最初から、憎んでなどいない」


 だからどうか、ここにいる時は泣かないで欲しい、と。


 真摯な声色に、女神は嗚咽混じりの吐息を漏らしました。


 「その高潔さは、時に翻って残酷と、知っているのでしょう……?」


 「……なるほど、そうかもしれない」


 震えて自らを抱き締める女神に、勇者は静かに頷きます。


 「……私は」


 女神は震える足で長椅子から立ち上がりました。


 「私は……許されては、いけないのに……」


 「……では、貴女は憎まれたいと仰るのか?」


 静かな声に、女神はフラフラと後ずさり、やがて、寝台に躓いてそこに仰向けに倒れ込みました。


 天蓋付きの広い寝台に、女神の長い金の髪が投げ出されます。


 女神は騎士の寝台に頬を寄せました。


 「……ええ。どうか……わたしに、ばつを……」


 「……そうか」


 勇者は窓辺を離れて、女神へと歩み寄ります。


 「ならば、この身の不遇、これより先の戦への参陣について」


 ぐったりと顔を伏せ、無防備に横たわる女神の涙に濡れた女神の手に、跪いた勇者は口付けました。


 「代償を払って頂きたい」


 形ばかり拒むように上がった女神の手は、けれど結局は、何もしないまま。 


 「……どうか、そうして」


 掠れた女神の声に応じるように、ランプの灯はフゥと消えました。


 真っ暗闇の中、窓の外ではしんしんと雪が振り続けています。


 室内では轟々と暖炉の焔が燃え、肌に触れる空気はやがて熱せられました。


 「……貴方は、高潔すぎるのです。栄光も、玉座も望まず、得られなかった騎士王、忘れられた英雄、アルンフリード……」


 白銀の髪を引き寄せながら、女神は泣きました。


 何もかもを蕩かすように優しい、悲劇の勇者の寝室。

 その高潔さ故に何も求めず、求められるままに何もかと差し出してしまう、青年の腕の中。


 「……おねがい、ゆるして……」


 女神は、泣き続けます。

 全てに対する懺悔、痛みからの逃避。そんな、細い悲鳴を上げながら。


 「許すが、恨むだろう、ずっと」


 望む通りに、応じてくれる勇者は、ここにいるから。


 ひどい、ひどい、と、泣きながら。

 何一つ、酷い事などしはしない、優しく甘く、言い訳としての罰も、苦しみを忘却するほどの安堵も、全て与えてくれる腕の中。

 上擦った泣き声すら、無垢なものばかり集めた常春の庭には届かないことを知っているから。


 いのちの気配なき、永久の冬の離宮。

 何も考えることないまま、泣き叫ぶ事を許される腕の中。


 そこは、ひどく、居心地の良い場所でした。

 

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