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そして至福の時間はすぐに終わりを迎える。
「ちょうど止んで良かったわ」
ナナはビルの谷間に挟まれて走る首都高速と国道の上の狭い空を見上げる。
先ほど、瞬く間に空を真っ黒に塗りつぶし、激しい雨を降らせた黒雲は東の空に移動しており、厳しい日差しが戻りつつあった。雨のためなのか定常的なものなのか、首都高は渋滞している。人々はほっとした表情を見せながら足早に街に戻りつつある。
「ゲリラ豪雨も避けて行くとは、大した悪運だな」
「悪運じゃないわ。日頃の行いが良いからよ」
「それは私のことか?」
「そうかもね。今日も優しい友達のお誘いでケーキバイキングにありつくとができたし」
「ああ、持つべきものは良い友達だ。高級ホテルはやっぱり味が違うな。美味しかった。でも、お前だって優しい友人のおかげで全種類のケーキを食べることができたんだって忘れるなよ」
「あら、私はカッチンに対する感謝の気持ちを忘れたことはないわ」
ナナはルリのことをカッチンと呼ぶ。ルリの母に倣ったのであるが、その呼び方をルリ自身が気に入っているかどうかを考えたことはない。
「美少女らしい体型を維持しつつ、ケーキバイキングを堪能できるのは、カッチンのおかげよ。本当にありがとう」
「それはどうも。私もいつも誘ってもらって感謝している」
ちなみに渋谷の高級ホテルの喫茶店のケーキバイキングの招待券は、ある男子がナナにプレゼントしたものだ。ナナはその手のプレゼントを受け取る際には必ずこう答えることにしている。
「ありがとう。ありがたくいただくわ。でも、それはあなたと一緒に行くということではないわ。あなたと一緒かもしれないし、他の誰かと一緒かもしれない。私にプレゼントをするということは、相手の選択権は私にあるということよ。それでも良いのであればいただくわ」
ナナに恋焦がれるものは一縷の望みを持って、その条件を了承し、様々な招待券をプレゼントする。
そして、一緒に行くことができた男子はこれまで一人もいないということになっている。それでもプレゼントが続けられるのは、ナナが他の男といっているのではなく、たいていの場合はルリが一緒であることを知っているからだし、必ず後でナナから「楽しかったわ、ありがとう」と笑顔をプレゼントされるからであった。
「これからどうするんだ?帰るのか?」
「せっかく雨も止んだんだし、少しは遊んで帰りましょ。私はハンズで雑貨が見たいな。カッチンは?」
「お前と一緒だと、センター街や109には行けないしな。ハンズに付き合うよ」
「ありがと」
センター街や109前には、規制が厳しくなった今でも各種スカウトがうようよしている。ナナが始めて渋谷に来た時、スカウトに取り囲まれて一歩も進めなくなってしまった。その時から、センター街は鬼門になっており近づかない。
ホテルからは高速道路の上を越えていける通路が設置されている。二人はその通路を使って道路を渡る。地上に降りるとナナは日傘を開く。
なお、本日のナナはノースリーブの白いワンピースにピンクの薄手のカーディガンといったお嬢様風の格好。ルリは濃いオリーブ色のキャミソールに七部丈のデニムパンツを合わせている。
ビルの脇の小路を入っていく。小さな居酒屋が両側に並ぶ区画を足早に通り過ぎようとしていた時、角を曲がってきた者と勢いよくぶつかってしまった。
ナナはルリに身体を支えてもらったが、ぶつかってきた主は地面に倒れこんだ。ナナの手を離れた日傘が地面を転がる。
「…メイド?」
ぶつかってきた者に対してナナの口から出てきたのは、罵詈雑言ではなく疑問の言葉であった。
「あいたたたたたたた」と腰をさすりながらアスファルトの上に座り込んでいるのは、二人と同じぐらいに見える少女である。頭の両横で結んだ亜麻色に染めた髪をかわいく巻いて垂らしている。
そして、小柄な身体を包んでいるのは白黒ツートンのメイド服であった。胸元が大きく開き、スカートがやけに短いが、メイド服であった。右手にスーパーのビニール袋を持っている辺りが変にリアリティを感じる。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
メイド服を着た少女は座り込んだまま、やけに甲高い声で尋ねてきた。
「大丈夫だけど…、あなたは?」
少女はルリが差し伸べた手に捕まって、立ち上がる。
「あ、えーと、大丈夫です。本当にすみません。って、あー、卵!」
叫ぶとビニール袋の中をガサガサと漁り、卵十個入りのパックを取り出し、目の前にかざした。
「よ、よーし。セーフ。六個ヒビが入っているけど割れてはいない。セーフ」
「これとこれは完全に割れてるんじゃない?」
「いえ、これぐらいなら全然大丈夫です。オールセーフです。リカバリー可能です。グッジョブ!いや、そんなことより」
早口で言い放つと、ザザッと今度は曲がってきた角に隠れ、通りの向こうをチラチラと見始めた。
「誰か、怪しい人はいませんか?」
「とりあえず、あなたが一番怪しいけどね」
言いながらナナとルリも通りを見る。居酒屋が賑わうにはまだ早い時間であり、人通りは少ない。サラリーマン風が数人と、宅配業者、居酒屋出入りの業者っぽいのが見えるだけである。
「あそこにホームレスっぽいのがいるぞ」
「あの人は顔馴染みだから大丈夫」
「大丈夫の基準がよく分からないわ」
「ごめんなさい。誰かにつけられているみたいなの」
「ストーカーってこと?それらしき人はいないみたいだけど。でも、そんな格好をしていたら興味本位でついてくる人もいるんじゃない?」
「えーだって、こんなの全然普通だよ。いつもこの格好で歩き回ってるし」
メイド服は不本意だと抗議する。
「カッチン、この格好が普通だなんて、渋谷は夏休みの間に私たちの知らない街になったみたいよ」
「そうだな」
「カッチン?って…、えーと、もしかしてルリちゃん?」
「ん?」
メイド服に突然名前を呼ばれて、ルリはメガネの奥の目をすっと細め、まじまじとメイド服を観察する。
「忘れちゃったの?小学校で一緒だった」
「のりちゃんか」
「あったりー、パンパカパーン!うわー久しぶり。中二の同窓会で会って以来だよね。なにしてたの?」
「むしろお前がなにをしていたのかが気になるんだが」
「あ、この服?私はねぇ、今はメイド喫茶で働いてるの」
「メイド喫茶って渋谷にもあるの?」
ナナが割り込んで訊ねる。
「一店だけね。メイドって名前のついたいかがわしい店は何軒かあるけど」
「メイド喫茶はいかがわしくないの?」
「いかがわしくないわよ。店員がメイド服を着ているだけでただの喫茶店だもの。ま、まぁ確かにこの服装が正式なメイドとして正しいかどうかは答えられないけど、服装は時代の要求によって変わっていくの!それに暑くて湿気る日本じゃ、英国式のメイド服は馴染まないじゃない」
「論点が完全にずれてるんだけど。というかカッチン、早くこの人を紹介して」
ちょっといらいらし始めたナナが、ルリを急かせる。
「申し訳ない。きちんと紹介していなかったな。小学校の時の友達で蒲谷則子だ。中学校は別になったからそれからはあまり会っていなかったが、まさかメイド喫茶でバイトするようになるとは思わなかった。こっちは枇々野那奈。中学で知り合って、一緒の高校に行ってる」
「よろしく、ってすんごいキレイだよね。どこで見つけてきたの?」
「中二の時に転校して来たんだ」
「もしかして籠目高?あー、じゃあ、この子が籠目のかぐや姫なのね?確かにすんごい美少女ね。想像以上だわ」
自らの美貌を褒め慣れられているナナであるが、同性に目の前であけすけに褒められて少し怖気づいてしまう。それを悟られぬように質問する。
「ありがとう。でも籠目のかぐや姫ってなんなの?」
「知らない?籠目高にすんごいキレイな子がいるんだけど、男に無理難題ばかり押し付けて絶対に付き合おうとしないんだって」
「私は無理難題なんて押し付けてないわ」
「私が言ったんじゃないわよ」
ナナは憤然と怒るが、則子は軽く受け流す。
「そんなことよりナナちゃんもうちでバイトしない?絶対に一番人気になれるわよ」
お気楽な提案に、またまた憤然と反論する。
「なんで私がメイドのコスプレなんかしなくちゃいけないのよ。メイドになるなんて真っ平ごめん。私はメイドになるよりも、メイドを使う側の人間になるわ」
「確かにそっち側のほうが似合うかもしれないけど、コスプレはコスプレでしょ。ナナちゃんがメイド服を着ている姿を見てみたいな。ルリちゃんもそう思わない?」
「どうせ似合うだけだ。それよりのりちゃんはお使いの途中だったんじゃないのか?こんなところでゆっくりしていていいのか」
「そうだ!今何時?もう四時?うわーもう一時間以上経ってる。絶対に怒られるー」
絶叫する則子を、ナナは疲れた目で見る。
「それじゃあ早く戻って。私たちは行くところがあるから」
手を振って去ろうとするナナに則子はしがみついてきて懇願する。
「お願い、お願いだからお願いを聞いてー」
「お願いお願いうるさい!」
ナナは日傘で則子の頭を叩いた。