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25.古狐山

「宮地奈美香ですって。彼女は被害者の一人じゃないですか?」

 目をまん丸くした麻祐が、まっ先に抗議した。

「それに、どうして彼女が村人たちを無差別に殺そうとしたのよ。全く説明が付かないわ」

 青葉もそれに追随したが、恭助は何ごともなかったかのように話を続ける。

「この事件の犯人の目的はなんだったのだろう。そう、目的は無差別殺人なんかじゃなかった。そもそもそこを誤ったために、俺たちの推理は迷宮を彷徨さまようこととなってしまったんだ。

 最終的に犯人が殺したかった人物は、ただ一人だけしかいなかった。そしてそいつは――、会長の弓削道夫だった!」


 気が付くと、外からミンミンゼミの鳴き声が騒々しく聞こえてきた。部屋は冷房クーラーを掛けずに、風が通るよう南北の両方向の窓が開けられていたのだが、その時一瞬だけ、さわやかなそよ風が舞い込んできた。

「それはおかしいですよ。狙いが会長だったら、なぜ女性たちだけに振舞われる予定だった赤ワインに、毒を仕込んだりなんかするのですか。明らかに矛盾しています」

「矛盾はしていないよ。宮地奈美香はね、ワインが女性たちに振舞われることを知らなかったんだ……」

「えっ、どういうことですか?」

「宮地奈美香は、富岐の会に出席するのが初めてだったよね。だから、ワインが毎年恒例の道夫のサプライズ企画だってことを、彼女ははなから知らなかったということさ。

 彼女が鉄男との立ち話の際に耳にした情報は、鉄男が酒屋から赤ワインを買ってきて、それを道夫に届ける途中だったということと、道夫は面倒くさがり屋だから、この瓶のキャップシールがあらかじめ取ってあるということ。さらには、道夫の家はどうせ今は留守だから、このワインは玄関口に放置しておくつもりだ、と鉄男がいったことだった。

 当然のことながら、奈美香は、道夫がそのワインを自らがたしなむために買わせたものである、と推測したことだろう。しかも、その銘柄ピノ・ノワールは、自分が数日前に購入したものと全く同じものだった。かねてから道夫に恨みを抱いていた奈美香は、その瞬間に、道夫に対する殺意がふっと芽生えたのだろう。

 彼女は鉄男と別れると、急いで自室へこもり、自分が保有していたピノ・ノワールを取り出して、注射器を用いてニッカリンを瓶の中へ仕込んだ。農薬は彼女の家の倉庫にずっと放置されていたものを使用した。たしか、宮地奈美香の家も、かつてはお茶栽培を手掛けていたんだったよね。だから、使用が禁止された危険農薬が、ずっと倉庫の中で眠っていたのさ」

「でも、農薬を注入したりすれば、その注射針はもう医療には使えなくなってしまうわよ。奈美香は注射針が紛失した事実を、診療所にどう言い訳するつもりだったのかしら。はっ……」

 思わず青葉が両手で口を押えた。

「そういうこと。コウメイ先生の医療器具管理はずさんだ。注射針が何本か無くなったところで、いくらでもごまかせた。そして奈美香はその時、たまたまだけど、発熱したみゆゆの看病のために、注射器と採血用の注射針を数本、自宅に所持キープしていたんだよ」

「でも、どうして奈美香は会長を殺したかったのでしょう?」

「それは、かつて道夫が手掛けた葛輪川の堤防工事によって、奈美香の父親が水害に遭って死んでしまったからだ。たしかに築かれた堤防は、村の中心部を守ることに関しては大いに効果を発揮したが、その反面、川の合流部のほとりに位置する宮地家にとっては傍迷惑はためいわくな代物だった。それまで川が氾濫することは一度もなかったのに、堤防が築かれてからいきなり氾濫が起こってしまったのだからね。もちろん道夫に悪意があったわけではなかろうが、結局のところ、宮地家に及ぶ被害までは配慮がなされずに、工事は進行したのだろうね」

「それで会長に恨みを抱いていたわけですね。でも、堤防が決壊したのはずっと昔なのに、なぜしばらく経ってから殺害を企てたのでしょうね」

「それこそが問題の核心なんだよ――。宮地奈美香がなぜ水害事故から数年を経て、恐ろしい殺人に及んだのか。

 事件当時の宮地奈美香は、弓削守から頼まれて、熱を出したみゆゆの看病のために、守の家にいた。そこでさり気なく交わされた会話が、奈美香の気持ちに火を点けてしまうんだ。守は、道夫に対する五年前の遺恨を、つい奈美香へぶちまけてしまう。道夫は許すべからざる奴だとね。その際に、うっかり奈美香の父親が亡くなったのは、堤防工事の設計ミスで、しかも道夫が意図的に仕組んだのじゃないかなどと、根拠のない出まかせを発言してしまった。もちろん、守は奈美香がその出まかせによって殺意を抱くなんて、露ほども考えておらず、単にその場の怒りに任せて軽率に口ずさんだ言葉だったんだけど、いかんせん、奈美香はそれを真面目にとらえてしまった。そうか、父は事故死ではなくて殺されたのだ。そして、その悪だくみをした張本人は会長なのだ。そういわれてみれば、会長はかねてから、いいお茶を生産するうちの茶畑に嫉妬をしていた。もしかしたら、茶畑を水害で台無しにしてしまおうと、ひそかにうちの茶畑だけが被害に遭うように、堤防工事の設計をしたのかもしれない。そして、そんなくだらない悪戯いたずらのために、父は命を奪われてしまったのだ、とね。

 だから、鉄男との立ち話の後、奈美香は千載一遇の復讐の機会が訪れたとばかりに、自分が所持していたピノ・ノワールに農薬を仕込み、瓶に付着していた指紋をきれいに拭き取って、誰もいなかった会長宅まで持っていき、玄関口の置いてあった鉄男が買ってきたピノ・ノワールと毒を仕込んだピノ・ノワールとをすり替えたんだ。かくして、公民館で振舞われた赤ワインの瓶に、付いているべき鉄男の指紋は消え去って、自宅へ戻った会長も、運転時にしていた皮手袋を外すのが面倒くさくて、手袋をしたままで守に瓶を手渡したから、会長の指紋も瓶には付かずに、守の指紋だけが瓶に残されることとなってしまったんだ」

「いくらなんでも、家に入ったら、皮手袋は外すでしょう」

「案外、そうでもないかもね。守に瓶を手渡した後で、また車を運転するつもりだったのかもしれないし」

 麻祐の疑問を、恭助はあっさりとかわした。

「でも、奈美香さんの意に反して、毒が仕込まれたワインは、会長が飲むことはなく、懇親会で女性たちに振舞われてしまったと……」

 うつむいたまま、青葉が小さく肩を震わせた。

「実際に富岐の会に出席してみて、奈美香はさぞかし仰天したことだろう。自分が毒を仕込んだピノ・ノワールがテーブルの上に乗っかっていたのだからね。そいつを、守は何も知らずに開封して、女性たちに次々と振舞っていく。でも、もしかしたらこの時の奈美香は、ニッカリンの毒性が異常に高いという事実を軽視していたのかもしれない。毒は仕込んだものの、別に会長を殺そうとまでは思っていなくて、せいぜいのたうち回って苦しめばざまあ見ろ、程度の軽い気持ちでやった悪戯いたずらだったかもしれないんだ。

 だから、奈美香は会が始まっても、自分の悪事を最後まで暴露することができなかった。事態は大変なことになっているが、まあ毒を飲んだところで、数人が腹を壊してちょいと苦しむ程度であろう。だったら、ずっと黙り通して、このまま全てを隠蔽してしまおう、とでも楽観視していたんじゃないかな。ところが、ニッカリンの毒性は、彼女の想像をはるかに超越した恐ろしいものだった。

 たちまちのうちに、ワインを飲んだ女性たちが、喉を掻きむしって転がり始めた。これにはさすがに奈美香も驚いた。もはや、言い逃れなどできる状況ではない。とんでもないことをしてしまったとね。とっさに奈美香が考えたことは、我が身を守るために、自らも被害者となることだった。しかし、ここで死んでしまっては元も子もないから、奈美香はまず注射針痕が残ったコルク栓を回収した。コルク栓が付いた栓抜きは、守がテーブルの上に放置したままになっており、彼女と守の席は比較的近かったんだ。それから自分の席に置かれたワインを、持っていた白いハンカチにグラスの半分だけをしみ込ませて、毒の量を半分に調整してから飲んだ。間もなく、死を思わせるような激痛が彼女を襲ってきた。あとは意識を失って、彼女はそのまま病院へ担ぎ込まれたんだよ」

「つまり、紛失したコルク栓の行方は、被害者が持ち去ったということですね」

「まさか緊急搬送を必要としている病人の身体検査までは、さすがの警察も行わないからね。かくして、コルク栓はまんまと事件現場から消え去ったのさ」

「でも、それだったら、父が自殺をする理由が何もないじゃないですか。結局、父は犯人ではなかったのですから」

「たしかに犯人ではないけれど、奈美香に犯行を決意させるきっかけを作った張本人が守だ。

 守はかつてゆり子と逢引きをしていた。でも、道夫の命令でその逢引きができなくなった時、気を紛らすために、奈美香の家へ夜這いで忍び込んだ。純真無垢だった奈美香は、守のような垢ぬけたプレイボーイに遭ってしまえばイチコロだ。やがて奈美香は守に身体を許してしまう。

 五年後に村へ戻った守は、普段は良き夫、父親として振舞っていたが、元来プレイボーイだった性格は相変わらずで、夜になるとこっそりと逢引きをして楽しんでいた。お相手は亀井ゆり子だったろうね。だから、守はコンドームをたくさん購入した。その事実を察していたのは、せいぜい薬局の桐子くらいなものだったろう。さらに、みゆゆを看病しにやって来た奈美香に、守は勢い余って会長の悪口を告げてしまう。

 事件直後に、守は犯人が誰なのかは、もちろん分かってはいなかったろう。最愛の愛人と妻を一挙に失い、自らには警察の疑いの目が向けられている深刻な状況だ。そんな中で奈美香が、症状が軽くなったから自宅へ帰って来たとうわさを聞いて、寂しさに我慢できずに居ても立ってもいられなかった守は、奈美香の家へ夜這いで忍び込んだ。もちろん、体調が悪い奈美香と性行為をしようというつもりはなく、軽いお見舞い程度だったと思われるが、その時に、守は奈美香から真実を告白されてしまう。奈美香は村人たちを手に掛ける意図は無かったけれども、結果的にとんでもないことを引き起こしてしまったと、その場に泣き崩れた。しかし、よくよく聞いてみれば、その大惨事の根元を引きずり出したのは、自分が軽率に口にした道夫への悪口からではないか。守は人一倍責任感が強い人物だ。彼は自分を責め、奈美香を救うためには、自らが犯人となるしか手立てがないと悟り、自殺を遂げる決意をしたんだよ。

 守は、まず凶器となったニッカリンの瓶を、奈美香に持ってくるよう命じた。瓶の指紋を拭きとり、自分の指紋だけをわざと付けて、守は自宅へ持ち去った。守は奈美香に、心配はするな、お前を逮捕させるようなことは断じてさせないとだけ告げて、その場を去った。

 思い出してみてよ。守の遺書には、四名の女性を手に掛けし、と記されていた。つまりさ、その中には奈美香は入っていなかったんだよね。守が奈美香と最後に別れた時には、奈美香はまだ生きていた。守は自らの死は覚悟していたけど、奈美香は今後も生き続けていくものだと思い込んでいたんだ。

 自宅へ戻った守は思案した。自殺を図るにしても遺書を残さなければ意味がない。自分が毒殺事件の真犯人だと告白するための遺書がね。翌日になってから、守は遺書を記すノートを購入して、自筆で遺書を書き記した。そして、夜になると古狐山へ登って、山頂で自殺を遂げたんだ。もともとトリカブトで死ぬつもりだったけど、万が一死に損ねてしまった場合に備えて、守は日本刀も用意しておいた。

 ところが彼の意に反して、同じ夜に、奈美香は自らの罪の意識にさいなまれて、自宅でひそかに自殺を遂げてしまったんだ。ここからは俺の想像に過ぎないけど、たぶん奈美香は睡眠薬を多量に飲むなどの手段で自殺を図ったんだと思う。わざわざ農薬を選んで苦しむ必要もないからね。だから翌朝になって遺体を発見した久子は、奈美香の死因をすぐに察した。自殺した事実も含めてね。奈美香自身も、自らの行為をすべて告白した遺書を残していたことだろう。しかし、警察に通報すれば、さっそく解剖がなされて、死因が数日前に事件で飲まされた農薬によるものではなく、他の原因のためであったことがすんなり見つけられてしまうだろう。久子はあえてそれを隠蔽した。我が娘が恐ろしい無差別殺人事件の犯人だったなんて世間へ公表するくらいなら、体調が良い方向に向かっていたのに病状が急変して死に至った可哀そうな被害者としてあげたい。そして、あまりに不憫だったから、葬儀も家族内だけでしめやかに行って、遺体は早々に焼却をした、と警察に言い訳をしておけば、問題にはならないだろうとね。こうして、久子は奈美香の遺書も処分をして、真相を永遠の闇の中へと閉ざしてしまったんだよ。あくまでも、事件の犯人は弓削守しかいないと、警察が確信を抱くようにお膳立てをしておいてね」


 恭助たちは再び葛和村へ戻ってきた。志貴子と美祐は普段の生活があるからと能登へ残ったが、麻祐との連絡先はしっかり交換をしていた。さっそく入った一報によれば、守の遺骨がご先祖様と一緒の墓に納められたということだった。恭助の説明を聞いた志貴子は安堵して、遺骨を移す決意をしたそうだ。ただ、守の名前を墓に刻むことは避けたそうである。

「まゆゆ、無理だと思うよ。今さら宮地久子を問い詰めたところで、絶対に口は割らないさ。実の娘が事件の真犯人でしたなんてね」

 恭助が麻祐に忠告した。

「そんなの分かりませんよ。少なくとも、父が冤罪だったことだけでもはっきりと答えてもらわなければ、私たち遺族はいつになっても浮かばれませんからね」

 葛和バス停に降り立つと、正面に見える交番の前で、葛和村にしては珍しいちょっとした人だかりができていた。

「なんだろう?」

 恭助が興味深げに近づいていった。見ると、鉄男が弓削巡査部長に覆いかぶさって平手で頭をぱちぱちと叩いていた。それを取り囲んで、数人の男女が成り行きを傍観していた。

「鉄男さん、お願いです。悪ふざけはおやめください、であります」

「うるせえな。どうせおめえは、ここで勤務できるのも、せいぜいあと三日ってとこっちゃ。さあて、どこへ飛ばされちまうんかなあ。はははっ」

 恭助がずかずかと輪の中へ踏み込んでいくのを、麻祐と青葉が心配そうに後から追いかけた。

「はっ、恭助さんでありますか。お久しぶりであります」

 恭助の姿に気付いた巡査部長が声を掛けた。

「やれやれ、巡査部長も大変だねえ」

「はい、これしきの出来事、本官にとっては何でもないであります」

 二人が会話を交わすのを面白くなさそうに見ていた鉄男が、恭助を睨みつけた。周りの取り囲み組も、反射的に恭助に対して身構える姿勢を取った。

「おい、兄ちゃん。こっちは今、お取込み中なんだっちゃ。悪いけど引っ込んでいてもらおうか……。

 はっ、おめえは、名古屋から来た学生じゃねえか。そうか、道夫さんからよう、おめえら見つけたら、何してもかまわんっていわれとるっちゃ。さあて、どうしてやっかなあ」

 鉄男はいじわるくうすら笑みを浮かべた。

「そっちこそいいのかい? 細池毒果実酒事件の当日、あんたがしゃべった供述が明らかな矛盾を含んでいる事実を、警察にばらしちゃってもさ」

 恭助の言葉に、鉄男の顔色が一変した。

「このクソ餓鬼が。いったい何のことっちゃ」

「とぼけたって無駄さ。あんたが会長宅へワインを届けた時刻は五時ではなく、その二時間前の午後三時だった。五時にはこの地域一帯には大雨が降っていたんだよ。あんたがワインを届けた時は、たしか、まだ炎天下だったよね。そういえば、あんた自身の証言にもあったよな。あの暑さじゃあ自慢のぶどう酒もすっぱくなっちまったんじゃねえかなあ、なんてね」

 恭助の脅しは効果てき面だった。鉄男は周りをきょろきょろと見回して、急にぶるぶると震え始めた。

「俺は何も知らんちゃ。警察にゃ、道夫さんの指示通りに証言しただけで……、村八分はもう嫌じゃあ」

 頭を抱えてその場にうずくまる鉄男を無理やり引き起こして、恭助が訊ねた。

「あんたにもう一つ確認しておきたいことがある。あんた、宮地奈美香と立ち話をした時、手にしていた赤ワインが富岐の会で振舞われることを、一言でも彼女にしゃべったか?」

 恭助のいつにない剣幕に気圧けおされて、鉄男はたじたじとなった。

「あんまり覚えていねえっちゃが、そうだな。道夫さんの家へ届けるとしか、奈美香にはいわんかったように思うっちゃ……」

 そう告げると、鉄男はがっくりとうなだれた。


「いやあ、助かったであります。恭助さん」

 鉄男たちが去った後で、弓削巡査部長が恭助に深々と頭を下げた。

「鉄男は真犯人が誰なのか知っているのですかねえ」

 恭助の耳元で、麻祐が小声でささやいた。

「いや、たぶんそこまでは知らないと思うよ。会長も鉄男も、自らに降りかかる火の粉を振り払いたかったから口裏を合わせただけで、犯人は守だと、今でも決め付けていることだろうね」

「それで恭助さん、事件は解決したのでありますか」

「うん、まあね……」

 忠一郎の問いかけに、恭助の口元がかすかに緩んだ。

「ええっ、本当に真相が解明されたのでありますか。恭助さん、本官にも真実を教えてくださいませんか、であります」

「いいよ。だけど、市民の秘密のための守秘義務は守ってくれるよね」

「もちろんであります」

 恭助は忠一郎に推理の全貌を話した。忠一郎はしばらく考えてから、麻祐に問いかけた。

「それで、麻祐さんは久子に奈美香の死因について問い詰める気でいらっしゃるのでありますか」

「正直どうしたらいいのか分かりません。でも、このままでは、父が汚名を背負い続けることになってしまいますよね」

 麻祐が自信なさそうに答えた。

「本官は反対であります。久子は問い詰めたところで、絶対に真実を語らないでしょう。彼女は最後まで娘を守り続けると思います。本官も心情的には、十九年間も苦しみながら久子が隠し通してきたことですから、これからもそっとしておいてあげて欲しいと思うのであります。もちろん、そうするということは、守の名誉が回復されないことを意味しますけど、それは、なんと申しますか、守自身が望んだことであると思うからであります。彼は自らの命を捨ててでも、奈美香さんを救いたかったのだと思います」

「しかし、その想いは奈美香へ届かず、彼女は守と同じ日に、勝手に自殺を遂げてしまった。切ないねえ……」

 恭助が他人事のようにつぶやいた。

「罪をかぶることが父の意思だったというのですか……」

 麻祐は遠くを見つめながらしばらく考え込んでいたが、やがて納得するように静かにうなずいた。

「そうですよね……。父はそのために死を選んだわけですからね。きっと美祐も事情は分かってくれることでしょう」


 翌朝、麻祐の提案で、守が自殺した古狐山ふるぎつねやまを登山することになった。弓削巡査部長が案内役を買って出て、恭助と青葉と麻祐の三人は現場となった山頂を目指した。弓削巡査部長の話によると、古狐山はそこそこ過酷ハードな山で、山頂までは二時間ほど登り続けなければならないということだった。案の定、恭助が真っ先に一行から遅れ始める。麻祐がペースを遅らせて、恭助と並んでしばらくいっしょに歩いていた。

「相変わらず、なさけないですねえ。恭助さん」

「ああ、まゆゆ。俺がぶっ倒れたら、骨は拾っておくれよ」

「はいはい、そうします」

「ところで、まゆゆ。本当にいいのかい。久子を問い詰めなくても」

「恭助さんはどうすればいいと思っていますか」

「俺は……、そうだなあ。どっちかといえば、弓削巡査部長の意見に賛成だな。久子は放っておいてあげたいね」

「そうですね。なら、それでいいですよ。

 私は古久根麻祐だし、ミユは新谷美祐として、二人とも自立した生活を営んでいるのです。久子さんを不幸におとしめる質問を、今さらする必要もないでしょう」

「でもさ、守の無実が示されなければ、そのう……。まゆゆの相手方が出した婚約破棄を解消できないんだよね」

 恭助が心配そうに麻祐の顔を見つめた。

「あはは、恭助さん。そのことを心配していたのですか」

 麻祐が急に笑顔となった。

「もういいですよ。破棄の電話を受け取ってから随分と時が経っていますけど、その間、彼からの連絡は一度もありませんでした。おそらく、お母さんのお言いつけを守っているのでしょうね。いい換えれば、所詮はその程度だったというわけですよ。そんな人、こっちから願い下げです!」

 麻祐はきっぱりと断言した。

「そうかい。なら安心したよ。なあに、まゆゆは美人だし、きっと新しい愛にすぐに巡り合えるさ」

 恭助が安堵したようにつぶやいた。

「ふふふっ、もう出会えていますよ」

 麻祐が思わし気な含み笑いをした。

「えっ、どういうこと?」

「私は弓削巡査といっしょになります!」

「ええっ?」

 思わぬ麻祐の発言に、恭助の目が丸くなった。

「この後、山頂に着いてから告白プロポーズをしますから、まあ、見ていてください」

 そういって、麻祐は恭助にそっとウインクをした。とても魅惑的なウインクだった。

「あははっ、まゆゆって強いなあ……」


 恭助がよほど足を引っ張ったためであろう、一行が山頂に着いたのは、登り始めてから二時間半近くを経過していた。山頂手前まで来るとふっと木々が途切れて、一気に展望が開けた。そこには葛和村の全貌が見渡せる壮大な光景スペクタルが眼下に広がっていた。息を切らせてぜいぜいいっている恭助を尻目に、葛和村を見下ろしながら麻祐がつぶやいた。

「父がこの山に登ってから自殺をした理由が、今、少しだけ分かったような気がします。だって見てください。この山からは葛輪村の集落が全部、ほら、あんなに綺麗に見えるんですよ!」

 麻祐が指差した先には、鮮やかなみどり色の大地を背景に、漆黒の瓦屋根を有する数多の家々の群落が見えた。手前には鈴屋すずのやをはじめとする中地区商店街の家々、その少し左の小高い丘の上には、赤い屋根でおしゃれな造りをした百合御殿がくっきり映えていた。奥の方へ目を向ければ、右手に蓮照寺とその墓地を見守る優しそうな大観音像、左手には葛輪診療所とバス停の周りの小集落があって、さらにその先には、あの事件が起こった上葛輪公民館が、まるで何ごともなかったかのように静かにたたずんでおり、その代わりに、向かいの道夫の巨大屋敷を取り囲む防風林が、轟々ごうごうと音をたてているかのごとく、風に揺らいでいた。

「結局のところ、父は優しいプレイボーイだったということですね。私たち娘が未来へ背負っていかなければならない苦労のことまでは、とても気が回らない、その場しのぎの、無邪気で身勝手な……」

 弓削守の元実家があった方向を見つめながら、麻祐がポツリと愚痴をこぼした。

「まゆゆ。生まれ変わるってのは、死んでからすることではなく、生きているあいだにすることに価値があるんだ。とどのつまりはさ、まゆゆの人生はこれからってことじゃないかな」

 慰めになっているのかどうかもはっきりしないような曖昧な台詞せりふを、恭助がたどたどしく口ずさんだ。それが聞こえたのかどうかは分からないが、麻祐が大きく深呼吸をした。その姿は、何かを吹っ切った仕草のようにも見えた。

「それから、私、今はっきりと分かりました……。

 父はきっと、この葛和村が大好きだったんですよね」

 そういって小さくほほ笑む彼女の赤らんだ頬を、一筋の涙がそっとつたって、ゆっくりとこぼれて落ちていった。

 風が吹けば箱売りが儲かる、という有名なお話があります。一つ一つが単純な因果でも、いくつかが連なることで、思いもよらない出来事にまで影響が及ぶことの喩えだそうですが、ミステリーでそのようなストーリーは創れないのでしょうか? そう思って、チャレンジをしたのが本作です。

 結果は、当初の構想よりもはるかに複雑な物語を創ることができ、その点に関しては自分でも驚いておりますが、一方で、内容が煩雑になり過ぎて収拾がつかなくなり、力不足のために論理展開が雑となり、読みにくい文章にもなってしまっています。

 それでも、今回の試みは、私にとって新しい可能性をもたらしてくれたように感じており、次回作の構想は全く皆無ですが、今後もミステリー小説を手掛けていきたいとあらためて思っております。


 長い文章をお読みいただき、ありがとうございました。

   iris Gabe


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