2.リィのお願い
勇者が僕らの住む洞窟に、邪龍を討伐せんと侵入してきたあの日。
僕は龍に扮し、もうすでに討伐されていた邪龍の替わりに攻撃を受けた。そして致命傷に近い傷を受けた後、防御魔法で勇者たちを足止めし、その間に洞窟の奥にあった僕らの家を破壊、イースの意識を奪い、あたかも長い間龍の生贄として生かされていたような工作を行った。
しかしその直後。
すべての仕事をやり終えて、全てが元に戻った洞窟を寂寥感と共に眺めていたら、勇者パーティーから一足早く、リィが姿を現したのだ。
防御魔法が破られてから彼女が駆け付けるまでの時間はあまりにも早かった。恐らく防御魔法解除を待たず、何らかの方法でリィだけ先に来たのだろう。
リィは確かに僕を見た。僕もリィの姿を見つけ、驚愕した。まだ誰も来るはずもないと思っていたからである。
しかし僕はすぐに我に返ると、唇に人差し指を当てながら隠蔽の魔法を自分にかけた。
そうしてちょうど、勇者が姿を現したのだ。
「まあ、勇者が僕のことを気にも留めなかったってことは、黙ってくれたってことだろうな……」
それが僕の借りの正体だった。
僕のジェスチャーを正しく理解し、勇者には僕がいたことを黙ってくれていたのだろう。
何故だかはわからないが。
「……にしても、遅いな」
現在の時刻は、十時と三十分を回ったところ。
僕が教会についてもリィはまだいなかった。
仕方なく教会の扉の施錠を魔法で開けて中で待つことにする。リィが来た時に僕が中にいるということがわかるよう、扉を少し開けたままで。
■
「はぁ、はぁ……」
遅くなってしまった。
リィはそう思いながら舗装された石畳の道路を疾走する。
シーフの職を持つリィのトップスピードはあらゆる職業のそれを上回る。極限まで加速された体を風が打ち、リィの白い髪が無造作になびいていた。
「間に合ってて……」
ようやく協会に到着して、少し開かれた扉を見つけた時。
つい、リィの口からそんな言葉が漏れた。
もう駄目だと思っていた。もう避けられない未来だと思っていた。
そう半ば諦めていた矢先、唐突に、それを解決できる力をもった彼が現れたのだ。
暗闇に一筋、かすかに灯った希望の光。彼が帰っていたら、それが完全に潰えてしまうことになる。
そうなれば、……もうおしまいだ。
お願いします。神様。
生まれてこの方捧げたことのないほどの心からの祈りと共に、教会の扉を開けたリィの目に飛び込んできたのは。
――不遜にも祭壇に腰掛けていた、彼の姿だった。
「――やあ、遅かったね」
まだ居てくれていた。
彼の姿を見て、最初に安堵が胸に押し寄せてきた。続いて彼の言葉が、頭に届く。
「す、すみません、でした」
「いや、構わないよ。実は僕もついさっき来たばかりなんだ」
呑気にひらひらと手をふって、彼は待ち合わせした恋人のようにそう答えた。
だけれど関係は全く違う。
リィは彼に貸しがあるとはいえ、お願いをする立場にある。彼の機嫌を損ねるわけにはいかない。
だからリィが後から来るというこの状況は、リィにとって最悪のファーストコンタクトだった。
リィが次、どう言葉をかけようか迷っていると、その沈黙を別の意味でとらえたのか彼が祭壇から腰を上げた。
「……祭壇に腰を下ろすのはマナー違反だったかな?まあ祀られてる存在って僕らだし、不敬ってわけでもないだろうけど」
彼が何気なく発したその言葉に、リィは戦慄する。
神。
七十余人しか存在しない天界、人間界の絶対的支配者にして傍若無人、唯我独尊の天上人。
「あなたは、神、なのですか?」
「え?ああ、うん。そうだよ。ついこないだ成ったばかりだけど」
神の名を語ることは許されない。もしも嘘が明るみになった場合、天界による制裁が行われることを皆知っているからだ。
だから、「うん」といった彼の言葉には、その軽さからは想像もできないほどの重要な意味が込められている。
彼は神だ。
神に成ったというイースの隣に座る彼の姿を見た時、しかしリィは彼が神だとは思わなかった。神はめったに地上に降りない。護衛もなく従者もなく、あの洞窟に一人いた彼が神だとは到底思えなかったのだ。
だからリィは彼を、神となったイースに大切にされている友人、恋人、恩人あたりだろうと思ったのだ。
しかし、違った。彼は神だった。
そうすると、あの時のイースの、彼を敬う様子は別の意味を帯びてくる。
親愛ではなく敬愛。あるいは単に敬意。友や恋人に抱く気持ではなく、位階が上の神に抱く気持という側面があるという意味である。
「……なんと、呼べば、……いえ、お呼びすれば、いいのでしょうか」
リィは決して敬語が得意な方ではない。謁見の場などで、一緒のパーティーだったシードルから窘められた経験もある。
しかし今。
リィは必至の思いで、彼を最も不快にさせない言葉を選んで話していた。
神に対してあらゆる強制力は働かない。神を縛るものは何もない。神にとっては、人間との約束の言葉など何の意味も持たない。
「僕の名前はエルだよ」
「では、エル様、と」
「うーん……まあ、うん。それでいいよ」
ピクンと。
呼び名に関して不満の気持ちが彼の言葉から感じられたその時、耳が大きく震えたのがリィ本人にも分かった。
しかし彼が「それでいい」と言ったのだ。それ以上に呼び名を変えることは、神の言葉に背いたと判断される可能性がある以上、逆効果でしかない。
「エル様。私の手紙、読んでくださったでしょうか」
「ああうん。助けてほしいんだって?いったいどうしたの?」
「それは……」
できればもう少し、彼が貸しについてどう思っているのかを探りたかったのだが、しょうがない。リィが口にしようとしているお願いは、おそらく天界の意向には沿わないものだろうから。
しかし向こうから問われたら答えざるを得ない。
リィは覚悟を決めて目をぎゅっとつぶり、言った。
「私を、勇者から救ってください」




