六
「公主とはまた非なる力を持つ方だからな。公主の親衛隊ですら、修得することができない技をやすやすと使いこなす」
現状を忘れ、上空を見上げるリーフェルに、浮遊の術に驚いていると思ったのか、イグラドがおかしそうに説明してくれた。
「なに、上空の妖は彼に任せておけば心配はいらない。それより、俺の側から離れなさんなよ。ちょいとばっか、危険だからな」
彼はリーフェルを背後に隠すと、掌から炎を生み出し、低空で駆けてくる妖に向かって投げつけた。
キイィィィィィ─────ッ
空気を震わす甲高い鳴き声に、リーフェルは耳を塞いだ。
「島の方から、妖が続々とやってきやがる」
苛立たしそうに、呟くイグラドの耳に、
「だれか援護を!」
「術が効かないぞ……!」
隊士たちの怒号が乱れ飛ぶ。
「落ち着け、それでも対妖部隊か。一人で駄目なら、みなで力を合わせればいい」
複数の動物を合わさったような、そんな異形たちが、甲板に次々と降り立ってくる。
隊士たちが妖に向かって攻撃するが、硬そうな毛に覆われた妖には傷一つ負わすことができなかった。
火の玉や光の矢をくらっても平然としている妖は、びりっと空気を震わすほどの咆哮をし、跳躍した。
ぁ…っと、リーフェルは思わず顔を覆った。
妖に対抗できる力を持っていたとしても、術が効かなければただ人と同じだった。人は、化け物の前にあまりにも無力で、弱かった。
力の差は歴然としているのに、彼らは果敢に挑む。
傷つき、負傷しても、それでも……。
なぜ? なぜああも簡単に命を投げ出せるのだろう。
「死んじゃうわ……っ、なんで……」
「それは覚悟のことさ。いいか、嬢ちゃん、俺たちは戦死することを栄誉なんか思っちゃいない。生きるために、戦ってるのさ。まあ、嬢ちゃんにはまだわからないだろうがな」
イグラドの背にかばわれているリーフェルには、彼が今、どんな表情をしているのかわからなかったが、軽薄そうな物言いとは反対に、真剣な顔をしているのだろうと想像が出来た。
「俺たちは、進んでこの道を選んだんだ。たとえ敵が手強くともしっぽ巻いて逃げるわけにゃいかねぇな」
「怖く、ないの……?」
「そりゃだれだって怖いさ。死を厭わない奴に、生き残ることなんて出来ない。嬢ちゃんも怖いか? 初めてこの島に来た奴はだれだって驚くものさ。ま、大概のやつぁ、二度と足を踏み入れることはしないがな」
泰然と構えているイグラドも、ぴりっとした空気をまといながら妖につっこんでいく隊士と同じように緊張しているはずなのに、震えるリーフェルを気遣ってか、話につきあってくれる。
何も出来ない自分は足手まといのようで、少しばかり情けなくなった。隊士もイグラドも自分を守るために、妖と戦っているのに。
それなのに、私は……。
「嬢ちゃん─────っ、」
リーフェルの視界が暗くなった。
イグラドの緊迫した声を間近に聞こえたと思ったら、固い甲板の上に倒れていた。頭と腰に手を添えられ倒れ込んだおかげか、大した衝撃はなかった。
「怪我は────」
イグラドの手を借りて立ち上がったリーフェル目がけて、隊士たちの術を避けた妖二匹が飛びかかってくる。
イグラド一人で二匹の相手は無理だった。周りで戦っていた隊士たちも駆けつけようとしたが、ほかの妖に阻まれ助けに来られないようだった。
驚いてイグラドの手を離したリーフェルの体が後ろにひっくり返り、襲いかかってきた妖の爪は空を切った。
「くそっ」
イグラドは、二匹同時に炎の矢を放ったが、妖は傷一つ負うことなく優雅に漆黒の羽を広ると、舞い上がった。
二匹の妖はゆっくりと旋回すると、リーフェルを飲み込むかのように口を開けて降下した。
イグラドはとっさに剣を掌から出し、逃げ場を失ったリーフェルの前に立った。
彼は聞いたこともない言葉で術を唱え、掌から、光を放つ長剣を取り出した。
すごい……っ。
手すりに掴まっていたリーフェルは、体内から剣が出てきたのを間近に見てびっくりした。痛くないのだろうか。
妖は、鋭い刃に怯みもせず速度を上げ、リーフェルめがけて突っ込んできた。
悪臭とよだれを放つ妖が、にたりと微笑んだように見え、ぞくっと肌が粟立った。
「目を瞑ってろ。妖の血は毒だからな」
イグラドが妖を斬りつけたと同時に、リーフェルは慌てて目をつむって俯いた。
生暖かい液体が髪の毛にべったりと張り付いた。ねっとりとしたそれは、まるで粘りの強い樹液のようだったが、臭いは腐った屍肉のようで、吐き気がこみ上げてきた。
鼻が曲がりそうな悪臭から逃れたくて、手すりから身を乗り出した刹那、ずるっと滑った。妖の血がそこにもついていたのだ。
体が傾ぐ。
「─────ッ」
とっさに手を手すりに伸ばすが、まとわりつく強烈な臭いのせいで、一瞬気が遠くなった。揺らぐ視界の中で鉄製の手すりを掴もうとしたが、宙をさまよっただけだった。
伸ばされた腕はそのままに頭から海に吸い込まれていく。
「嬢ちゃん……! チッ」
反射的に身を翻したらしいイグラドが助けを求めるように伸ばされた腕を取ろうとしたようだが、空しく空を切るだけだった。見る間に近づく青い海にぶつかる衝撃を覚悟して目をぎゅっと瞑った次の瞬間、背中の服が引っ張られ、落下が止まった。
もしかしてアースかとほっと安堵したリーフェルは、頭上で甲高く鳴く妖の奇声を聞いて硬直した。
恐る恐る視線をやると、鋭い牙が目に飛び込んできた。
骨もかみ砕けそうなほどしっかりした顎と長い毛も見える。二匹の内の一匹だ。首の辺りに斬られた痕もある。濃い緑色の血がだらりと垂れていた。
気持ち悪い……。
近すぎる臭いに、頭がくらくらとしてくる。
抵抗する気力も奪われていくようで、だらりと四肢を投げ出すと、妖はそんなことお構いなしにばさりと羽音をたてて一気に上昇した。
遠くなる海面。
イグラドの大丈夫かと叫ぶ声も小さくなる。
もうろうとする思考は、怯えも恐怖も忘れさせ、めまいにも似た不思議な感覚をもたらした。
だれかが自分の名を呼んでいるような気がした。
ゆらゆらと波間を漂うかのように夢現をさまよっていると、突然頭上で何かが弾ける音がした。
何、と顔を向ける力もなく、微かに目を開くと、視界の端をどろりとした液体が海に落ちていくのが見えた。
緑色……。
色の識別を直後、妖の速度がぴたりと止まり、垂直に落ち始めた。
さわやかな風が呼吸を奪うかのような勢いで全身に巻き付くが、清廉とした空気は、不浄の血にまみれた体を洗い流してくれるようで、微かな磯の香りとともに胸に吸い込んだ。
その間だけ気持ち悪さがすっと波を引き、細胞の一つ一つに清らかな空気が流れ込む。
このまま風にさらわれていたいなぁ、と落下している状況も忘れそう思っていた時、ザシュッという肉を斬りつける音が耳に入り込んできた。体を吊り上げていた重みが消え、体が羽のように軽くなり、ふわりと体が浮き上がった。
浮遊の術だと、瞬時に思い当てることはできなかったけれど、風に乗って柑橘系の香りが運ばれてくると胸の内に温かいものがあふれてきた。
彼が来てくれた。
「無事か?」
そう問いかけられる声が、微かに案じるような響きを乗せているのは気のせいだろうか。
そっと抱き上げられ、なぜか瞳が潤んだ。彼が来てくれたことが嬉しいのか、それとも別の何かだったのかわからないけれど、柑橘系の清々しい香りは穏やかな波を心の中に運んでくる。
汚れているのも忘れ、ぴったりと温もりを求めるかのように顔を胸に寄せると、彼は嫌がる素振りも見せずに甘えさせてくれた。
そこで意識が闇の中へと呑まれていった。