十八、慶応一揆《前編》
徳川慶喜の治世。江戸幕府開闢以来四百年の歴史に危機が迫っていた。早くから尊皇攘夷を掲げた長州藩が土佐脱藩浪士坂本龍馬の仲介で薩摩藩と同盟を結び、幕府に対して反旗を翻した。先代将軍家茂の代に二度に渡って行われた長州征伐では、将軍自らの出陣に対し、長州藩は三人の家老を切腹にさせることで全面降伏した。しかし、二度目は将軍が陣没したことで長州藩は隣接する諸藩を攻撃して明治に入る頃まで占領するに及び、幕府崩壊の序曲となった。戦いは和睦することで落ち着きを見せたが将軍の後継となった慶喜は緊張が続く西の地から離れることはなく、朝廷とのより緊密な関係は何とか保たれていた。そんな中、京より東にある金子藩では大規模な一揆が起きた。まだ先代将軍家茂が存命の時であったが、先の頼清粛清後の処遇に反発した者たちが農民たちを煽って一揆を起こしたのだ。千とも二千とも言われる一揆は慶応一揆とも呼ばれて、首謀者は寺町を統べる慶照寺門跡の有経である。有経は西国の出身で城下最大の呉服問屋であった葛屋所縁の者であり、先の松平家継承の候補に上がりながら、知行三千石を分家の松平頼房に奪われてしまった。慶照寺の知行はわずか二十石。初代藩主金子宗康が寄進して以来変わらない石高である。それは文学師範として初代有庵から三代有円まで別に八百石を得ていた影響があり、その他、寄付や祈願料を得て莫大な利益を生んでいた。そのため、知行高が増えなくても門弟たちを養うことが可能だったのだが、七代有寛の後を継いだ八代有満は有寛の妾の子で、女人禁制を禁じた宗旨に反して生まれた子である。蓄えた資金を元手に高利貸しや賭場を開き、寺社方と結託して藩内の寺院にも広めていき、慶照寺は隆盛を極めた。また、それだけに留まらず、借金の担保で得た旗本株を使って弟子たちに名跡継承させて士分にも勢力を浸透させていき、目に見えぬ形で慶照寺の勢力は広まりつつあった。その有満の後を受けたのが九代有経である。有経は商人層に教えを広める一方で城下の不満分子を集めて決起の時期を探っていた。そんな時に湧いたのが城内での松平派の粛清である。粛清は一夜にして終結したが、松平家に仕えていた祐筆の菅谷佐之助と門番の佐伯道庵は殺された松平頼清の末子で稚児の菊王丸を守って時田村にある慶照寺末寺の得応寺に逃れた。得応寺の住職順曄は齢八十の老僧だが、俗名を朱鷺田忠織と言い、四代忠良の末裔である。父忠安は忠良の曾孫であり、郷士の身分も得ていた。家督は長兄忠正が継ぎ、忠織は出家した。それから五十余年、仏の道を歩んでいたが時代はそれを許さなかったようだ。
「誰か!?」
門弟の一人玄識が物音に気づいて叫ぶ。すると、納屋に隠れていた道庵が刀を抜いて威嚇する。
「ひいぃぃぃ~!!、だ、だ、誰かぁ!?」
突然のことに腰を抜かした玄識が悲鳴を上げた。庫裡にいた順曄が駆けつけると道庵の他にも誰かいることに気づいた。
「破戒僧には似つかわしくないものだな。盗賊にでも落ちたか!?」
順曄は道庵のことをよく知っていた。
「爺!、まだ生きていたか!?」
「戯けが!、糞餓鬼が生意気なことをぬかすではないわ!」
「五月蝿い!。爺、よく聞け!。金子城の騒ぎは知ってるか?」
筆頭家老松平備前守を始めとする保守派の面々が粛清されたことは早馬によって時田村を管轄する郷村目付によってもたらされていた。余計な騒ぎを起こせば同じく罪を問うとの命も受けていた。
「よく存じておる」
「俺は…あの地獄にいた」
「何じゃと!?」
道庵の背後には稚児を抱えた佐之助がいた。
「こ、これはどういうことじゃ。拐かしまでしたのか!?」
「爺!、騒ぐな!。この赤子を殺せばお前が殺されるぞ!」
意味深な言葉を理解した順曄は庫裡に二人を通した。門弟たちを起こして湯を沸かすよう命じると共に火を起こして暖をとるよう伝え、話を聞くことにした。
「あの赤子は誰の子じゃ?」
「備前守様の御子じゃ。名は菊王丸様。生まれてまだ一月程」
「母君は誰か?」
「側室の雲証院様だ」
雲証院の父は相州三浦藩主内田淡路守慶貞で、石高は一万石ながら海防の必要性を高めるために浦賀奉行が支配する三浦半島の一部を与えられた。加増を受ける前は奏者番を勤め、幕府の要職にあることに目を付けた頼清の政略結婚だったが、雲証院が聡明であることを気に入った頼清は常に側に置いて政の意見を聞いたという。
「確か女子共は皆命を救われたと聞いたが?」
「ああ、全員助かっておる」
「ならば、何故拐う必要がある?」
「殿の命だからだ」
「備前様の?」
「左様。死の間際、駆けつけた佐之助に後事を託され、雲証院様も足手まといになることを恐れ、菊王丸様を託されて逃れてきたのだ」
「何とのう…」
順曄は悩んだ。この話が本当ならば大変な局面にあるということだ。すぐにでも動かねばならない。
「この稚児が備前様の御子であるという証拠はあるか?」
「ある」
道庵は菊王丸が生まれた時に下賜された葵紋が刻まれた短刀を見せた。鈍い輝きを放つ短刀を見た順曄は話を事実と確信し、夜が明けぬうちに門弟の善曄を本山の慶照寺に遣わした。順曄の書状を一読した有経は決断を下し、選りすぐりの高弟十数人と共に時田村に入り、得応寺にて菊王丸と面会。その後、身柄を慶照寺に移して庇護した。菊王丸を手離すことに反対した佐之助と道庵は時田村を出たところで殺されている。糸も簡単に殺生をする有経の所業は残念なことに順曄の知らない事実であった。無事、金子城下にある慶照寺に入った菊王丸は大勢の門徒衆に迎えられて数日後には稚児でありながら元服して名を経清と改めた。遠州松平家の通字である「清」を名乗ることで嫡流であると宣じ、有経の一字を得ることで慶照寺も松平一門に連なることを世間に知らしめようと企んだ。有経の用意周到な策謀は一気に表面化した。有経に傾倒する商人の豊富な資金力で武器や牢人を集め、同時に賄賂で寺社方を丸め込んで味方に引き入れることに成功。末寺がある城下の寺町、時田村、笹堀村、宗安村等十七ヶ村の庄屋・名主たちが「世直し」の名の許に決起の瞬間を待っていたのだ。
慶応三年夏。風雲急を告げる幕末の動乱の間隙を縫うが如く有経は経清を擁して一斉に挙兵した。藩兵二百人を大坂に送っていた金子藩は一揆を抑えることが出来ずに城下は火の海と化した。乾いた風に煽られた炎は城下のみならず、近隣の農村や田畑を呑み込み、運悪く灰塵となった一揆勢もいた。効果は絶大だったが予想を遥かに上回る被害に農民や商人たちも全てを失い、呆然とするしかなかったという。一方の藩主頼義、筆頭家老長居直弘らは十数人の家臣と共に門を固く閉じて立て籠るのが精一杯の抵抗であり、何十倍もの敵勢を相手に落城は時間の問題かと思われた。しかし、そうはならなかった。
決起の前日、藩主の命を受けた御城番衆が一揆勢に内通する寺社宗門改役安藤勝亮、寺社勝手掛草津忠重、寺社奉行所筆頭与力城田伝兵衛ら与力同心二十余人を討ち取っていたのだ。また、旗本寄合に属する慶照寺の門弟たちも目付衆が捕縛することで内部から呼応する動きを止め、最低限の抑えは効いた。けれども、前日まで遅れを取ってしまった原因は二点ばかりある。決起の半年前に遡る。先の松平家の粛清の中心的人物となった尾張藩名古屋探索方棟梁で頼義の甥金子玄十郎宗康の主君である藩主徳川慶勝から度々使者が送られてきていた。内容はいずれも同じで、「約定を履行せよ」というものであった。約定とは頼義が宗康に対して家督を譲る代わりに時の筆頭家老であった松平頼清を討って欲しいというものである。宗康は藩主慶勝の許しを得て頼清率いる保守派を壊滅させた。しかし、騒乱が収まった後も頼義は藩主のままで居て続け、一向に家督を譲る気配はない。業を煮やした尾張藩は度々使者を送るがのらりくらりとかわす頼義の前に辛酸を舐めていた。ある日のこと、御城番頭亀井忠頼が頼義に呼び出された。
「お呼びにございますか?」
「うむ」
忠頼が呼ばれるのは大抵夜である。
「また尾張から使いが参ったわ」
「如何なさるおつもりで?」
「放っておくさ」
「しかし、向こうは黙っていますまい」
忠頼は尾張藩と敵対することは避けたいと思っている。戦うことになれば金子藩など一瞬で消されることは忠頼自身がその身をもってよく知っている。
「黙っていなくとも世も世。徳川自体が無くなるかも知れぬ時に尾張とて他人事ではあるまい」
「殿はどちらに付かれるおつもりですか?」
徳川への忠義を貫くか、新しき世を求めるか、方針を間違えれば家臣のみならず庶民も巻き添えにする可能性がある。
「それを聞いてどうする?」
「いえ…」
忠頼は出過ぎた真似をしたと詫びる。
「だが、気になるのもわかる。わしの一存で全てが変わるのだからな」
頼義が藩主になる前は京都留守居役であった。日常茶飯事のように起きる新選組の弾圧は我が身も少なからず経験した。嫡子であった宗連が志士たちが出入りする屋敷に偶々居たことが仇になって新選組に殺されたのだ。そんな思いはもうしたくはなかった。
「お前ならばどちらが良いと思う?」
「難しい選択です」
「ふん、だろうな。勝ち目の無い戦はするものではないだろうが、わしは長州が有利と見た」
だが、本心と現実は別のところにある。頼義の主君は将軍である。そのため、長州との戦いに藩兵二百人を次席家老木村綱敬に預けて大坂に向かわせている。徳川への忠義を示すためだ。藩内に残された家臣はわずかとなり、一揆の決起の際、迅速に動けなかった。
「上方の情勢よりももっと西に向けると長州の動きは止まぬでしょう」
「かといって綱敬らを引き上げさせることは愚の骨頂。悩ましいことよ」
「それを考えれば尾張は長州に付くでしょう」
徳川将軍家と常に対立してきた御三家筆頭は最後まで一門から将軍を出すことが出来なかった。先の藩主徳川慶勝も尊野攘夷に傾倒して藩主の座を追われた一人だ。今もその信念は代わったいない。
「万が一、尾張が江戸を攻めるとなればその先鋒となりましょう。東海道は譜代が占めているとはいえ、どれだけの藩が寝返るかわかりませぬ」
「確かにな。とはいえ、腹の探りあいはどの藩も同じことよ」
「ならば、如何ように動きますか?」
頼義は目を瞑った。
「まずは煩い蝿の親玉を消すのが上策…」
目を開いた頼義の腹は決まった。忠頼に命じる。
「尾張様を殺せ」
その言葉を聞いた瞬間、忠頼に変化が生じた。本人とは別に強い意思が働いて脇差しを抜くと頼義の脇腹を差した。
「なっ…なに……を…」
目を見開く頼義の問いに忠頼からの返事は無かった。代わりに別の気配を感じる。
「残念な男だ」
「お、おま……え…」
そこに姿を現したのは黒装束に身を包んだ宗康である。
「お前も備前と同じであったか」
「な…ぜ…」
「先の騒乱の時、忠頼に暗示を掛けておいた。我が主に危害及ぼす時は如何なる相手であっても殺すようにな」
「くっ…」
脇腹から大量の血が流れ、激痛で意識が飛びそうになる。
「叔父上、宗連に会ったらよろしく伝えてくれ」
刀を抜くと必死に耐えていた頼義に止めを差した。
「ぐぅ!!」
絶命した頼義に目もくれず、宗康は控えている忠頼に向く。
「忠頼、"頼義"が命じる。寺社方を探れ」
「はっ」
暗示が掛かったままの忠頼は命じられるがまま姿を消した。同じ忍びの棟梁でも二人の実力の差は歴然としていた。暗示を受けたとはいえ、主を殺されても尚、操られる忠頼に対して非情の命を下す。騒乱以降、混乱する藩内と暗示の影響で目立った活動を控えていた忠頼ら御城番衆の目は謀反の動きを迅速に察知できなかった。宗康のほうが早く気づいていたが肝心要の者を抑えないことには身動きすら取れなかった。これが二つ目の要因である。宗康は今から動いても遅いことを悟っていたがやるべきことはしておかなくてはならない。灯っていた蝋燭の火を刀で先だけを切り離す。刃の上で灯り続ける火を見つめながら呟く。
「これより忙しくなるわ」
約定通り、宗康は藩主として藩政を担うことになった。ただし、頼義として…である。
久しぶりの投稿になってしまいました。引き続き、よろしくお願いします。