第210話 水車
【テイクン クスル地方】
少し進めば、どこまでも田園の広がる田舎。
もうすぐ七の刻、くぐもった赤い色が空の色に混じっていく。爽やかな田んぼが、赤い波に姿を変える。
ひゅおお、と音を立てて辺りに風が吹いた。
ギコココ。
「良かった、今日は夜が暑くないわ」
とある屋敷。
細身のフワッとしたワンピースに身を包んだ若い彼女は、細い腕で窓を開けると、涼しさに安堵した。
この季節は夜風に熱気が混ざり、寝苦しくなってくる。幸い、今日の夜は穏やかに眠れそうだ。
ここ最近、妙に暑く寝苦しい日が続いていたのだ。折角、涼しい地方にわざわざ屋敷を建てたのに。
風が心地よく、女性は何気なく白い淵の窓から外を眺めた。
しかし、心地よかった風が一瞬途切れる。もう少し、もう少し強く吹いて欲しい。風を呼び込んで。
「あら?」
少し離れた、水路の近く。
いつもは静かな水辺で、何かがギシギシと大きな音を立てている。この時間、もう他に人影もいないのに。
目を凝らすが、人の姿はおろか、動物の姿も見えない。
音はずっと鳴り響く。水がパシャ、パシャと水面を弾く音と共に。
「何かしら、何か動いているの?」
近くには水車がある。もしかしたら、水車が壊れてしまっているのかも。
ふとそう思い立った彼女は、思い切って表に回り、靴を取り出した。
水車に何かあったのなら、一大事だ。あれは、社長のお気に入り。
玄関でもたつく彼女の背中に気付いた男が、後ろから声をかける。
「おや。どうしたことか、カタレナ。外に出ることか?」
「あ、旦那様。水車が壊れているようなのです、少し見て参ります」
「そうか、注意することだ。ところでカタレナ、スティスはどこか?」
「今日はお休みですよーー!! 朝からいないじゃないですかーー!!」
しっかりしろ、と言わんばかりに言い返す。部下に言い返され、ブツブツ呟く主人を無視して、屋敷を飛び出す。
旅行に行くと嬉しそうだった部下の話くらい、覚えていて欲しい。これもいつものことだ。
彼女は水車の元に急いだ。
ギシギシ、ギシギシ。
やはり、音はやまない。風の中でも、きちんと聴こえる。
少しぬかるんだ道を、彼女は細い足で器用に進んでいく。足がぬかるみで鉛をまとったようだが、気にしない。
水路の脇を渡り、水車の側にしゃがむ。
「うーん、特に異常は無いようだけど」
水車の流れは、いつもと変わらず軽やか。おかしな様子は無い。
ギシギシ。
耳を澄ますと、どうやら音はこの水車からではないようだ。
近くで鳴ってはいるのだけど。
とにかく、水車ではないと分かって少し胸を撫で下ろす。ただ、水の流れが少しおかしい気もする。
もしかして、川で動物でも遊んでいるのか。
「何の音かしら……?」
他に、こんな音が鳴りそうな物など。
それに、この不気味な音は、徐々に大きくなっている。風に負けるものかと言わんばかりに。やはり、動物か。
「気持ち悪いなぁ」
進むか、進まないか。
少し悩んだ後、彼女は音のする方向に向かってみようと、立ち上がった──その時。
リンゴーン!! リンゴーン!!
「きゃああ!!」
リンゴーン!! リンゴーン!!
けたたましく鳴る音に、彼女は慌てて耳を塞いだ。耳が震える程の音。
「な、なに!?」
何が起きているのか、彼女は一瞬で混乱した。
どこから鳴った音なのか。
勿論、ここは田舎。パッと辺りを見渡しても、そんな音が鳴る物は無い。
「……」
音はすぐに止み、今度は静寂に包まれた。
先程まで追いかけていたはずの、不気味な軋むような音も、今は聴こえない。
「今のは……?」
そんな彼女の足元に、じっと息を殺す存在がいた。
『フフフ』
彼女の瞳に映らないそれは、遥か下から見上げて、彼女を見つめていた。
『フフフ、フフフフフフ』
その身体に持つヒレを、ピクリとも動かさず。
ところで先程のけたたましい音、何処かで聴いたことは無かったか。
「教会の鐘の音……?」
彼女はどうすればよいか分からず、ただ立ち尽くしたのだった。




