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【第31話】桃の木

 ――今から約三十年前。


 王宮の奥深く、その一室は、まるで悪夢のような静寂に包まれていた。

 赤黒く染まった床。滴る血が絨毯に滲み、異様な匂いが空気を濁らせている。


 その中心に立ち尽くすのは、若き少年――ホレス。

 彼の胸は激しく波打ち、肩が上下するたびに、王の返り血が首筋から静かに流れ落ちた。

 足元には、すでに動かぬ王の亡骸。

 その目は見開かれたまま、何かを訴えるように虚空を見つめている。


 王。いや…父を殺した。


 だが、ホレスの表情に、怯えも戸惑いもなかった。

 むしろ――喜びすら宿っていた。

 その若く整った顔に浮かぶのは、安堵とも陶酔ともつかぬ微笑。


 「……素晴らしい」


 ホレスは血に濡れた両手を見つめた。

 震えているのは恐怖ではない。昂り。解放。生まれて初めて“自分が自分である”ことを感じた瞬間だった。


 彼はゆっくりと天を仰ぐ。


 その頬を伝ったのは、王の返り血か、それとも別の涙だったのか。

 だが確かにその時、ホレスの中の“何か”が、静かに目を覚ました――



 ――その時だった。



 突如、空がうねった。

 風が止み、大地が息を潜める。

 雲が渦を巻きながら裂け、その奥に――まばゆい光が差し込んできた。


 「……な、んだ……?」


 ホレスの口から、震える声が漏れる。

 血に濡れた手を握りしめたまま、ただその光景に目を奪われていた。


 天から、ゆっくりと“それ”が降りてくる。

 見たこともない、常識の枠を超えた存在。


 "一本の巨大な桃の木"が、空の裂け目から姿を現したのだ。


 それは幻想のように、美しかった。


 黄金色に染まる幹、透き通るような緑の葉。

 枝の先には、ひときわ"大きく実った桃"がひとつ。


 その桃は、まるで何かを“宿している”かのように、かすかに脈動していた。


 ホレスは足を一歩踏み出す。無意識だった。

 目を離せなかった。心臓が高鳴っていた。


 (……お前は、桃から生まれたのだ)


 王の最期の言葉が、耳の奥でこだまする。


 「まさか……僕は……この木から?」


 混乱と驚愕、そして――歓喜。

 殺人を犯したという事実も、霞んでいた。


 “自分は、この神木から選ばれた存在なのではないか”

 そう思わずにはいられなかった。


 やがて桃の木は音もなく着地する。

 枝葉が静かに揺れ、地上の空気とひとつになる。


 そのたったひとつの桃が、風にゆらゆらと揺れていた。


 それはまるで、ホレスのために用意された、“運命の果実”だった。


 「あれは……あの中に、きっと、僕と同じ者が……僕の家族が……」


 声はうわごとのように震えていた。

 ホレスは突き動かされるように巨木をよじ登る。

 もはや理性など存在しない。ただ焼けつくような渇望――“孤独からの解放”という幻想だけが、彼を動かしていた。


 手が桃に届いた。


 ――その瞬間、周囲の音が消えた。


 「……ッ!」


 ホレスは息を詰めるように、ぶちっという音とともに、その巨大な実をもぎ取った。

 果実は思いのほか重く、ホレスもろとも地面へと転がり落ちる。



 ドサァッ!!

 鈍い音とともに、果肉の重みによって地が揺れた。


 「……待ってて……家族……僕が、今……」


 喘ぎながら、彼は這うように桃へと手を伸ばす。

 次の瞬間、爪で、拳で、指で――執拗に桃の皮を剥ぎ取りはじめた。



 ぐちゃ、ぐちゃっ――



 果汁が跳ね、空気を染める甘い香り。

 しかしその手つきには慈愛など微塵もなかった。ただ狂気と執着があるのみ。


 顔中に飛び散る桃の液は、返り血と混ざり合い、ホレスの表情を異形へと塗り替えていく。

 その体は、もはや“生まれ直し”を果たそうとする獣のようだった。


 「……出てきて……僕の兄弟……僕の家族……お願いだ……」


 ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ!!


 果肉が引き裂かれ、内部が露わになる――


 だが、そこには。



 ――誰もいなかった。



 肉の断片、赤黒く変色した果汁の泥、崩れた繊維の塊。

 ただ、冷たく、濡れて、沈黙するだけの残骸が広がっていた。


 「な、んで……なんで……!? お前……どこだよ……どこなんだよぉ……!」


 叫ぶ声は、虚空に吸い込まれた。

 果肉の海に手を突っ込んでなお、ホレスは掘り続ける。希望の亡骸を――


 ……だが、何も出てこない。


 やがて、桃の木は静かに浮かび上がった。

 まるで失望したかのように、その枝をたわめながら、ゆっくりと

 ――天に戻っていく。


 「……まって……まってくれ……もう少しだけ……! 行かないで……僕をひとりにしないで……!」


 声にならない叫びが、血と果汁にまみれた大広間にこだました。

 その背後に、空が閉じる音が重く響いた。



 ――静寂。



 大広間にはもう、何の気配もなかった。

 空は閉ざされ、桃の木は天に消え、残されたのは――果肉と血にまみれたホレスだけ。


 彼は膝をついたまま、ぽたりぽたりと滴り落ちる桃の雫を見つめていた。

 やがて、その指先が、何か“硬いもの”に触れる。


 「……ん?」


 それは桃の果肉とは明らかに異なる、冷たく、滑らかな感触だった。


 ホレスは、おぼつかぬ手つきで、そっとその中身を掘り起こす。


 ――ころん。


 掌の中に収まったのは、一粒の「種」だった。


 それは常識にあるような桃の種ではなかった。

 黒曜石のように深い黒に光を宿し、表面は自然とは思えぬほど滑らかで、淡く脈動するように“生きて”いた。


 「……これは……」


 その種を見つめるホレスの瞳に、再び狂気が宿り始める。


 ――温もりがある。鼓動のようなものすら、感じる。


 「……違う……これは……終わりじゃない……始まりだ……」


 彼の頭の中に、ある“構想”が芽生えていた。

 あの桃の木のような存在を、自らの手で――この世界に“再び”根付かせるという、傲慢で神聖な計画。


 「……僕が……もう一度、育ててみせる……。

 そうすれば……いつか……家族はまた――」


 果汁と血にまみれたホレスの掌に、闇色の種が静かに横たわっていた。


 それは“狂気”の原点。

 この世界を歪める、運命の種だった――。


 そして――


 ホレスはその日から、桃の木の複製を始めた。


_____


 モーモー太郎は、あまりの言葉に呆然としていた。


「……木を、複製……だと……?」


 その声は、自分でも信じきれないほど震えていた。


 対するホレスは、うっすらと笑みを浮かべながら言う。


「理解できないだろうな。私は、見たい景色があるんだよ」


「見たい景色……?」


「そう。“桃から生まれた者”は、生まれながらに特別な力を宿す。だからこそ、周囲の期待に縛られる。運命という名のレールを敷かれ、自分という存在すら否定される。特別という言葉が、どれほどの呪いになるか……お前に分かるか?」


 その言葉は、どこか哀しみさえ孕んでいた。しかし、その目の奥には狂気があった。


「なぜ私が、生まれながらにして期待され、そして失望されたのか。なぜ“違った”というだけで捨てられたのか。……それは、桃から生まれたからだ。選ばれし者という枷。それが私の呪いだ」


 モーモー太郎は息を呑んだ。


 ホレスはなおも続ける。


「だから私は考えた。いっそこの世界を、“選ばれし者”だけの世界に塗り替えてしまえばいい、と」


「……!」


「力なき者に、人権はない。ただ己の弱さにひれ伏し、怯え、淘汰されればいい。力ある者だけが支配する世界。そう、それこそが“理想”だ。美しいと思わないか? モーモー太郎くん……」


 その声は熱を帯び、もはや信仰に近い。


「力ある者が支配する世界?そんな世界……許されるわけがない!!」

 モーモー太郎の声が怒りに震える。


「フフ……その反応を待っていたよ。だが残念だったな。それは、もうすぐ実現する」


 ホレスは椅子を静かに押しのけると、ゆっくりと窓のカーテンに手をかけた。


「特別に、君には“真世界”の一端を見せてやろう。私が莫大な金と年月をかけた結晶を――」


 バサァン!


 重厚なカーテンが勢いよく引かれる。

 陽光が怒涛のように室内に雪崩れ込み、眩しさにモーモー太郎は一瞬、目を細めた。



 ――そして。



 視界が晴れた瞬間、彼の息が止まった。


 窓の外――王宮の広大な中央広場に、整然と並ぶ兵士たち。まるで機械のように一糸乱れぬ隊列。数は、500人はくだらない。


「……な、なんだ……この連中は……」


 その場にいる全てが、人間の形をしていた。しかし、どこか“違う”。肌に浮かぶ奇妙な紋様、感情を感じさせない瞳。そして異様な統率力。


 ホレスは高らかに言い放った。


「モーモー太郎よ。こいつらは、“人工桃”から生まれた者たちだ」


「……人工桃、だと……?」


 その言葉が耳を刺す。信じたくても、目の前の光景が否応なく“事実”を告げていた。


 ホレスの作り上げた、新たな桃の民。

 その数百の兵士が、今この瞬間も、無感情にただ命令を待っている。


 「……ホレス、お前……まさか、人を……作り出したのか……」


 モーモー太郎の声は掠れていた。口にした瞬間、その言葉の意味が重く喉を締めつけた。

 それはあまりにも、悍ましい。


 ホレスは、あくまで悠然と、両腕を大きく広げてみせた。

 誇らしげに、狂気を宿した瞳で言い放つ。



「いかにも」



 ホレスがそう呟いた瞬間、王宮の広場に柔らかな陽光が差し込んだ。


 その光に照らされるように、空から――ふわり、ふわりと桃の花びらが舞い始める。

 一片、また一片。優雅な旋律のように舞い降りるそれは、まるで祝福の儀式のようでもあり、同時に、命の終焉を彩る花吹雪のようにも見えた。


 五百本もの花びらが、静かに舞う。

 それは苦しくも、美しい光景だった。


 “創られた命”たちを包むように降り注ぐ花弁。だがその美しさの裏に潜む、異常なまでの不気味さが、モーモー太郎の心を締めつけた。


 彼は――言葉を失った。


 ただ立ち尽くす。あまりに現実離れしたその情景に、思考が追いつかない。


 これは夢なのか、それとも――悪夢なのか。


 視線の先には、静止したまま命令を待つ、桃の民。

 そして、その背後で微笑む創造主・ホレスの姿が、不気味なほど鮮明に焼きついた。


「これが“理想”だ。特別だけが生き残る世界――真世界だ」



 ――恐るべき計画が、今、幕を開ける。

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