【第32話】人の上の存在
ホレスは、王宮の高きバルコニーに悠然と立っていた。
見下ろす先――王宮前の広場には、五百の戦士たちが寸分の乱れもなく整列している。
雨上がりの石畳は鈍く濡れた光を放ち、その上に並ぶ人影は、まるで巨大な兵器を構成する歯車のようだった。
誰ひとり私語をしない。
誰ひとり視線を揺らさない。
ただ命じられるまま、沈黙と規律の中に立ち尽くしている。
その異様な光景を前にしてなお、ホレスの姿だけはどこまでも優雅だった。
黒衣を風になびかせ、片手を手すりに添え、顎をわずかに上げて眼下を見渡す。
その立ち姿は、まるで自分こそが世界の頂点に立つ存在だと信じて疑わぬ、神話の神を気取る暴君そのものだった。
「見よ、この軍勢を!」
ホレスの声が、空へ向かって高らかに響く。
その声は石壁に反響し、何重にも増幅されながら、王宮全体を震わせるように広がっていった。
「私はついに、桃の木の“複製”に成功したのだ。その数、すでに五百――いや、これからまだ、いくらでも増える!」
その言葉に、檻の奥から見上げていたモーモー太郎の目が大きく見開かれる。
「人を……作っただと……!」
信じがたいものを見た時、人は怒るより先に、まず理解を拒む。
モーモー太郎の胸に湧き上がったのも、まさにそれだった。
眼下に並ぶ五百の兵は、ただの兵士には見えない。
顔立ちは違うはずなのに、どこか似通った“無”がある。
その瞳には、生きている者に宿るはずの揺らぎがなかった。
まるで、人の形だけを与えられた“別の何か”だった。
「フフ……その通りだよ、モーモー太郎君」
ホレスは顔を輝かせ、愉悦を噛み締めるように笑った。
頬は熱を帯び、瞳は浮かされたように爛々と輝いている。
それは勝者の笑みではない。
自らを創造主だと本気で思い込んだ者だけが浮かべる、危うく歪んだ恍惚だった。
「三十年かかった。だがな……この日を夢見て、私は歩んできた」
ホレスは両腕を広げる。
「これこそが、私の――真世界だ!」
モーモー太郎は、呆然とその光景を見つめていた。
そのとき、どこからか風が吹き込み、無数の桃の花びらが宙に舞った。
王宮の庭に咲く桃の花。
薄紅の花びらは、祝福のように広場へ降り注いでいく。
だが、それは美しいというより不気味だった。
新しい世界の誕生を祝っているのではない。
何か巨大な死に、静かに花を手向けているように見えたからだ。
「まずはこの五百の“桃の民”を、いくつかの都市へ送り込む」
ホレスは、酔うような声音で続ける。
「民衆を、弱き者どもを従わせるのだ。
人の上に立つ者――それこそが、我ら“特別な存在”の役目だ」
「そんなことをして……お前は何がしたいんだ!」
モーモー太郎の怒声が、檻の中から鋭く響いた。
「淘汰だよ、淘汰!」
ホレスの声が、怒りにも似た熱を帯びる。
「無力な者はひれ伏し、力ある者だけが生き残る新たな国家。
私はその“王”であり、“救世主”であり――そして、“神”となるのだ!」
「やめろ……!」
モーモー太郎は鉄格子を掴み、全身の力を込めて叫ぶ。
「そんな世界、誰も望んじゃいない!!
くそっ……ここから出せ!! この狂人めっ……!!」
だが、分厚い鉄格子はびくともしない。
それはただの檻ではなかった。
重く、冷たく、まるで最初から“逃がさぬため”だけに造られたような、悪意そのものの塊だった。
ホレスはゆっくりと振り返り、冷たく言い放つ。
「だがな、モーモー太郎。君はこの新たな世界を見ることはない」
「……!?」
「ここで、私の“実験台”となってもらう」
その声が、ひどく静かになる。
「君のその得体の知れない力――私が解析し、掌握し、そして“再現”するのだ」
「ふざけるな!!」
モーモー太郎の怒号が響く。
「まあ、それまでの間、せいぜい“思い出”にでも浸っておくことだ」
ホレスは口元を歪めた。
「生まれてきた意味を、檻の中でゆっくり考えるがいい……ふふふっ……」
そう告げて、ホレスは踵を返し、ゆっくりと部屋を後にする。
その背に迷いはない。
すべてが自らの掌の上にあると信じきっている者だけが見せる歩き方だった。
残されたのは、硬く閉ざされた鉄檻と、怒りと無力感に震えるモーモー太郎だけ。
ホレスの“計画”――
それは、神をも恐れぬ所業だった。
伝説の桃の木を複製し、その“実”を人の手で量産する。
やがて、その桃から生まれ出る者たちが、民を支配する存在となる。
才なき者は従わされ、声を奪われ、ただひれ伏すだけの存在へ落とされる。
血も涙もない、完璧に設計された“桃の民”。
感情すら制御されたその兵士たちは、ホレスに従い、世界を塗り替えていく。
その歪んだ理想――“真世界”。
いままさに、狂気の幕が上がろうとしていた。
_____
――その日の深夜。静寂に包まれた王宮。
昼間の喧騒が嘘のように消え、広大な宮殿は眠った獣のように沈黙していた。
長い回廊を吹き抜ける夜風だけが、遠くでかすかな音を立てている。
モーモー太郎は、薄暗い檻の中でうずくまっていた。
体はまだ重く、傷も癒えていない。
自由に動ける状態ではない。
それでも、心だけは諦めていなかった。
ここで終わるわけにはいかない。
ホレスの好きにさせるわけにはいかない。
そう思っているからこそ、逆に自分の無力さが腹立たしかった。
――ギィ……
重厚な扉が、軋む音を立ててゆっくりと開いた。
(……ん? 扉が開いた?)
闇の中から、足音がひとつ。
それが、確かにこちらへ近づいてくる。
「君がモーモー太郎君か。……本当に、牛なんだな」
低く抑えた声が、室内に響いた。
「……誰だ」
モーモー太郎はかすれた声で問い返す。
警戒は隠さない。
「私は――ヘンリー。だが詳しい話は後だ。まずは、ここから出よう」
男は短く言い放つと、檻の前にしゃがみ込み、手早く鍵を操作し始めた。
その動きに無駄はない。
焦ってはいるが、混乱してはいない。
何度も頭の中で手順をなぞってきた者の手つきだった。
――カチャリ。
錠が外れる乾いた音。
モーモー太郎の目がわずかに見開かれる。
「ヘンリー……? ……なぜ、僕を助ける?」
「理由は後だ」
男は顔を上げずに言った。
「今は――逃げることだけを考えろ」
男の顔はまだ闇に半ば沈んでいて、はっきりとは見えない。
だがその声には、確かな意志と焦燥が宿っていた。
(……ヘンリー……どこかで聞いた名だ)
モーモー太郎の中で、疑念と希望が交錯する。
(何者なんだ、こいつは……)
だが、その手は確かに檻を開き、光のない牢獄の出口を作っていた。
迷っている時間はなかった。
「……?」
モーモー太郎はゆっくりと立ち上がる。
鎖の残響を引きずりながら、一歩、また一歩と檻の外へ出る。
久しぶりに檻の外の空気を吸ったはずなのに、そこに自由の匂いはなかった。
ただ、逃さなければならない夜の冷たさだけがあった。
こうして二つの影は、闇に紛れて王宮を後にした。
___
森の奥。
湿った土を踏みしめながら、モーモー太郎が深く息を吐く。
林の中は霧が濃く、月の光も細切れになって差し込むだけだった。
振り返れば、王宮の灯りはもう木々の向こうに沈みかけている。
「なあ……」
モーモー太郎が低く言った。
「いい加減に答えてくれ。あんたは一体、誰なんだ?」
男は振り返りもせず、低く答えた。
「――この国の王だ」
「……王? 嘘だろ……!」
モーモー太郎の足が止まる。
霧が、二人の間を裂くように流れた。
「いや」
男――ヘンリーは、自嘲するように小さく息を吐く。
「正確には“名ばかりの王”だ。ホレスの傀儡に過ぎない」
その言葉に、モーモー太郎の眉が険しくなる。
「傀儡……。じゃあ……あんたも、ホレスの人工桃の計画に加担してたってことか!?」
夜の森に、その問いが鋭く響いた。
ヘンリーはすぐには答えなかった。
少しだけ足を止め、霧の奥を見るようにしてから、低く言った。
「……恥を承知で言おう。私は長い間、ホレスの“洗脳”に囚われていた」
その声音には、深い後悔が滲んでいた。
「見て見ぬふりをしていたんだ……」
モーモー太郎は何も言わない。
ただ、その背をじっと見ている。
「民を裏切り、罪のない人々を犠牲にした」
ヘンリーの声は静かだった。
怒鳴りも、取り繕いもない。
だからこそ重かった。
「私の手も、ホレスと同じように――血で汚れている」
モーモー太郎は目を細める。
「……同情はしない」
「分かっている」
ヘンリーは短く答えた。
「だからこそ……今、こうして君に話している」
その言葉に偽りはなかった。
許されたいわけではない。
弁解したいわけでもない。
ただ、これから先へ進むには、自分の罪から目を逸らせないだけなのだと伝わってきた。
「まずは、話を聞いてほしい……」
___
霧の奥を抜けると、小さな庵があった。
ぽつりと立つその小屋は、世界から切り離されたように静かだった。
屋根は古く、壁も頼りない。
中には焚き火の光が揺れ、木の香りと薪の焦げる匂いが漂っている。
ヘンリーは、暖かな炎を見つめながら語り始めた。
揺れる火は小さい。
けれど、その橙の明かりは、夜の闇に呑まれかけたものを、かろうじてこの場へ繋ぎ止めているようだった。
モーモー太郎は黙って向かいに腰を下ろす。
問いは山ほどあった。
ホレスとは何者なのか。
なぜ王が傀儡となったのか。
桃の木とは何か。
そして、この国に何が起きたのか。
だが今は、口を挟むべきではないと本能が告げていた。
ヘンリーの沈んだ眼差しの奥にあるものは、軽々しく触れてよい傷ではなかったからだ。
薪が、ぱちりと音を立てて爆ぜる。
その音を合図にするように、ヘンリーはゆっくりと目を伏せた。
「……これは、三十年前から続く話だ」
その声は低く、かすかに震えていた。
忘れようとしても忘れられなかった記憶。
埋めようとしても埋まらなかった罪。
それを今、自ら掘り起こそうとしている者の声だった。
「すべての始まりは――あの日、王宮で起きたことだった」
炎が揺れる。
その赤が、ヘンリーの横顔に深い陰影を落とした。
その横顔は若いはずなのに、不思議なほど老いて見えた。
あまりにも多くを失い、あまりにも長く自分を責め続けてきた者の顔だった。
そして――
長く封じ込められていた王の過去が、静かに口を開く。




