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【第22話】桃九郎の過去2〜回想編〜

 桃九郎は、生きる意味を失っていた。

 胸の奥は、ぽっかりと穴があいたままだ。


「世のために生きろ」

 ――命尽きる間際、桃七郎が残した言葉。

 それは今も、とげのように心に刺さったまま動かない。


 だが、その言葉は大きすぎた。

 重すぎて、形がない。

 どうやって? 何をすれば? 誰も教えてはくれない。


 “桃の集い”は壊滅した。

 桃から生まれた者は、もういない。

 ……桃九郎だけが、生き残ってしまった。



 世界は、やけに静かだった。



 _____



 桃暦145年


 それから三十年が過ぎた。

 桃九郎は四十になっていた。

 名も捨て、力も封じ、影のように暮らしている。


(……俺がいなくても、世界は平和だったじゃないか)


 そう言い聞かせれば、見ずに済む。

 あの夜から目をそらし、剣から目をそらし、自分から目をそらして。


 だが、夜更け、風が壁を叩くたびに――

 問いは戻ってくる。


 桃の集いは、必要だったのか。

 初代の誓いは、ただの幻だったのか。


 答えは、霧の向こうに逃げていく。


 _____


 その年。

 静かな日常は、音を立てて崩れた。


 ドン、ドン、ドン――


 城下の太鼓が鳴る。広場に人が集まる。

 布告を読み上げる声が、乾いた空へ響く。


「鬼の復活は時間の問題である」


 ざわ……。ざわ……。


「鬼?あの伝説の!?」

「王政は一体何を…?」


 続けて告げられるのは


 ――増税。


「防衛のため」「備えのため」。

 言葉は立派だ。だが民の顔は青い。


 米俵は取り上げられ、銅貨は消える。

 泣く子、うつむく父、空を見上げる老女。

 市井の匂いは、汗と不安で重たくなる。


(鬼の復活……本当に? 誰が祠を――)

 桃九郎は、答えが出せない。


 七郎の言葉も、力の責任も、頭では分かっている。

 けれど、心が動かない。


 あの夜――

 飛ぶ火花、熱い血、八郎の断末魔。

 全部が棘になって、体のどこかを刺す。


 怖い。

 だから、何もしない。

 ただ、日が昇って沈むのを見送る。


 _____


 夜。

 桃九郎の自宅。



 ――その日、扉をコン、コンと二度だけ叩く音。

 風の音とは違う、まっすぐなリズム。


 桃九郎は反射で息を止めた。

(……誰も来ないはずだ)

 三十年、名前を捨ててひっそりと暮らしてきた。

 ここを訪ねる者など、いない。


 もう一度、コン。

 今度は少しだけ間を置いて、同じ強さ。


 桃九郎は座ったまま、床板の軋みを殺して立ち上がる。

 癖で、壁の影に置いた短い棒――鞘に入った“ただの木刀”を取る。


「どちら様だ」


 低い声。

 喉の奥は乾いている。だが、声は揺らさない。


「すみません。桃九郎さんですよね」


 心臓が一度、裏返った。


(――今、なんと言った)

(この名を……三十年、口にしていない)


 わずかに手が汗ばむ。

 呼吸が浅くなる。


 桃九郎は戸口から少し離れて返す。

「間違いだ。ここにそんな者などいない」


 一拍の沈黙。

 外の気配が、ほんの少しだけ微笑む気配に変わった。


「いいえ。あなたは、桃九郎です」


 ギィ……

 戸をわずかに引く。

 月明かりが細く差し、立つ影が見えた。


 二十歳ほどの青年。

 黒髪は短く整えられ、無駄がない。

 衣は軽い。だが布越しに分かる肩と腕のしなやかな筋。

 厚くはない。けれど、動ける体。

 腰に剣はない――が、剣を置いてきた者の振る舞いをしている。

 手の甲、親指の付け根には薄いタコ。

 柄を握る者の手だ。


(……剣の手練れだ)


 青年は軽く頭を下げた。

「初めまして。ジロウと申します。私は、王族に仕えていました」


 桃九郎は目を細める。

 彼はあえて冷たく言い放った。


「名乗る相手を間違えたな。俺は木こりだ。人違いだ」


 ジロウは首を横に振る。

 その動きは小さく、速い。

「いえ。あなたを探して、ここまで来ました。三十年分の足取りを追って」


(……三十年? 何を掴んでいる)


 桃九郎は戸をもう少しだけ開け、青年の目をまっすぐに受け止めた。

 若い。だが瞳の奥に見える、死線を潜り抜けて来た者の色。


 桃九郎の背中を汗が一筋、下りる。

 ひとつずつ見つかっていく感覚。

 身体は戦いよりも、名を呼ばれることに震えていた。


 ジロウは、一歩も詰めず、ただ距離を保つ。


「……用件は」


「先に、真実を」


 短く息を吸い、青年は言った。



「今、騒がれている“鬼の復活”――あれは偽りです」



 空気が一度、止まる。


「なっ……嘘だと?」


「はい。今の王政は腐りきっています。

 “復活”をでっちあげ、恐怖で民から金と食を搾り取っている。」


 桃九郎は言葉を失った。

 ジロウは続ける。ひとつずつ置くように。


「なぜかは分かりません。ただ、王族は何かに取り憑かれている。

 そして背後にホレスという男がいる」


「ホレス……?」


「ホレス。彼は――桃から生まれた者です」


「えっ…」


 ドクン。

 心臓が強く鳴る。

 遠い過去がざわつく。


 ジロウは目線を落とさない。


「桃の力が……闇に堕ちている」


 ジロウの言葉は、刃のように鋭い。

 桃九郎の記憶が、水面のように揺れた。


「桃の集いが消え、掟の声を失った今。

 ホレスは力を欲のままに使い始めた。

 このままでは、世界は壊れる。

 ――桃の力を止められるのは、あなたしかいない」


「やめろ」

 思わず、声が荒くなる。

「やめろ。そんなもの、俺に押し付けるな。俺は……何も、できない」


 それは、三十年逃げ続けた本音。

 口に出した瞬間、胸が少し痛む。

 だが、言わずにはいられない。


 ジロウは責めない。

 ただ、事実だけを置く。


「いいえ。あなたしかいません」



 沈黙。



 風が、戸の隙間からすうと入り、ろうそくの火が揺れる。

 壁の影が伸び、九郎とジロウの影を、ひとつに重ねた。


 桃九郎は、青年の全身をもう一度見た。

 短髪、ほどよい筋肉。無駄のない立ち。

 指に残る剣の記憶。

 そして――目。

 何度も折れ、それでも立ち直る目。


(……この若者…一体どんな死線を…)


 胸の奥で、ずっと閉じていた扉がミシッと鳴る。


 初代の誓いを、正反対の意思で利用する者がいる。

 桃の力で、人を縛り、民を搾る。


 七郎の声が、遠い鐘のように響く。

(この力は、世のために、民のために使え)

(それが、桃から生まれし者の使命だ)


 胸の奥でずっと鳴っていた、自責と諦め。

 だが、ジロウの言葉がそれを斬り裂く。


 すっと、視界が開く感覚。

 恐怖の霧が、ほんの少し薄くなる。


 _____


「……世界を救ってください」

 ジロウが頭を下げた瞬間――


 喉の奥から、声が漏れる。

「……俺のせいだ」


「九郎さん?」


「俺が動かなかったから、桃の力が“悪”に使われた。

 七様……俺は、何もできませんでした……!」


 膝が床につく。

 拳が震える。

 涙がぽた、ぽたと落ち、木の目に吸い込まれていく。


 しばらく、泣いた。

 それは逃げるための涙ではない。

 過去と、ようやく向き合うための涙。


 やがて――桃九郎は顔を上げた。


 瞳に、火が戻っている。


「……ジロウ。仲間は?」


 ジロウの目が、わずかに見開かれる。

 次いで、深く頷く。


「まだわずか…。これから募ります。

 この国のどこかに、想いを同じくする者は必ずいる」


 桃九郎は静かに立ち上がった。

 古びた棚から、布に包んだ一本の刀を取り出す。

 三十年ぶりの重み。

 掌に馴染む、冷たい鋼。


 キィ……

 鞘鳴り。

 風が、部屋を通り抜ける。


「ならば――始めよう」


 短く、はっきりと。

 言葉は刀身のように真っ直ぐだった。


「民のために。世界のために。

 そして……俺自身の贖罪のために」


 桃九郎は拳を握る。

 心臓が、落ち着いたリズムで打ち始める。

 トン、トン、トン。


「ここに、反乱軍――レジスタンスを結成する」


 ジロウの顔に、初めて笑みが浮かんだ。

 それは希望の形。

 だが同時に、険しい道の始まりでもある。


「拠点を整えます。連絡網、食料、武具……潜伏先も」

「任せる。俺は祠の調査に当たる。

 ホレスの動き、王都の税倉、百官の名簿。洗えるものはすべて洗う」


「了解しました」


 二人は短く頷き合う。

 その瞬間から――彼らは、同じ地図を見ていた。


 _____


 桃から生まれし少年は、四十の男になった。

 失ったものは戻らない。

 罪は消えない。

 恐れも消えない。


 それでも――歩く。

 正しく生きろという、あの声の方へ。

 掟を、もう一度自分の言葉にして。


 闇は深い。

 だが、灯はともった。


 レジスタンス――

 ここに、結成。


 カチリ。

 心のどこかで、何かが確かに噛み合った。


(七様。俺は行きます。

 この力で、今度こそ――)


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