【第21話】桃九郎の過去〜回想編〜
――桃暦116年。
今から49年前。
山々に抱かれた静かな村。
夕日は尾根に沿って長く伸び、茜色の光が畑を、石垣を、古びた家々の屋根を、静かに染め上げていた。
風は穏やかで、畑の若い葉がさらさらと揺れている。
遠くで川の流れる音が聞こえ、煙突から立ちのぼる夕餉の煙が、ゆるやかに空へほどけていく。
そのどこにでもあるような山村の一角で、ひとりの少年が呼び止められた。
「桃九郎、こちらへ来なさい」
呼ばれた少年は、十歳になったばかり。
まだ頬に幼さが残り、背丈も高くはない。
それでも声に応じて振り返る姿は、どこか不思議なほど真っ直ぐだった。
その背筋だけは、年齢に似合わぬほど、しゃんと伸びている。
声の主は――桃七郎。
四十歳。
肩幅の広い体躯。
無駄のない筋肉。
日々剣を握り、身体を鍛え続けてきた者だけが持つ、静かな強さがその全身に宿っていた。
厳しくも温かい眼差し。
九郎にとって七郎は、“師”であり、“父”でもあった。
「いいか。お前ももう十歳だ」
七郎は、夕日を背にしながら静かに言った。
「今年から“桃の集い”の会合に参加してもらう」
「はい、七様」
九郎はすぐに返事をした。
声は小さい。
だが、そこに迷いはなかった。
……いや、正確には、迷いは胸の奥にあった。ただ、それを口に出さないだけだった。
ほんの少しだけ、声が震えていた。
七郎はそれに気づいていたが、何も言わなかった。
言葉で励ますより先に、まずはその場へ連れていくこと。
それが必要だと分かっていたからだ。
_____
“桃の集い”。
それは、世に決して知られてはならない秘密の名だった。
十五年に一度。
どこからともなく、この世界のどこかに“巨大な桃”が現れる。
山中か。
川辺か。
人里離れた森か。
その出現の法則を知る者はいない。
だが、ひとつだけ確かなことがあった。
その桃の中から生まれる者は、必ず“人ならざる力”を宿している。
――影力。
影のように揺らぎ、意思のようにうごめき、持つ者の心と深く結びつく異能。
常人の理解を超えたその力は、祝福であると同時に、災厄の種にもなりうるものだった。
だからこそ、桃から生まれた者たちは例外なく“桃の集い”へ回収される。
この仕組みを作ったのは、伝説の救世主。
三神獣とともに鬼を封じた、最初の“桃から生まれた者”。
救世主は知っていたのだ。
この力がいかに甘美で、いかに危ういものかを。
ゆえに彼は集いを作り、後世へ掟を残した。
「力は人のために使え。悪に染まるな」
それは戒めであり、祈りであり、命令でもあった。
だが、掟があるからといって、人の心の奥底に生まれる問いまで消せるわけではない。
なぜ、自分は生まれたのか。
なぜ、この力を持たされたのか。
なぜ、普通の人間のように自由には生きられないのか。
“桃の集い”は、外から見れば特別な者たちの会合かもしれない。
だが、その内実は祝福の場などではなかった。
それは――
力に選ばれた者たちが閉じ込められる、宿命の檻でもあった。
_____
翌朝。
山の空気はまだ冷たく、夜露が木々の葉先に小さく残っている。
早朝の淡い光の中、七郎に連れられた九郎は、古びた屋敷の前に立っていた。
山中にひっそりと建つその屋敷は、見た目こそ質素だが、近づくと妙な圧を放っていた。
柱は太く、床板は硬い。
歩けばギィ……と、長い年月を生きてきた木の声が鳴る。
七郎が扉へ手をかける。
「さあ、初めての集いだ。気を引き締めて行けよ」
「はい!」
九郎は元気よく返事をした。
だが、その小さな掌には汗がにじんでいた。
胸の中では、心臓がうるさいほど脈打っている。
扉が、ガラリと横へ引かれた。
広間が姿を現す。
そこにはすでに、四人の男たちが座していた。
桃四郎(85)――集いの長。
白い長髭を整え、老いてなお岩のような気配を放つ男。
桃五郎(70)――厳格で無口な老剣士。
目を閉じて座しているだけなのに、張り詰めた糸のような気配が漂っていた。
桃六郎(55)――理知的な顔立ちをした中年の男。
冷静な観察者のような目をしている。
そして――
桃八郎(25)。
若く、鋭く、落ち着きのない光を瞳の奥に宿した男。
「四郎様、ただいま連れて参りました」
七郎が静かに頭を下げる。
長である四郎は、ゆっくりと目を開いた。
その目には老いよりも先に、長い年月を生き抜いた者だけが持つ静かな重みがあった。
「……うむ。来たか、七。そして九。座りなさい」
席は、生まれ順で決まる。
九郎は案内されるまま、もっとも末席へ座った。
自分がいかに幼く、いかに場違いな存在であるかを、その配置が容赦なく物語っていた。
その瞬間――
若き八郎が、目を細めて吐き捨てるように言った。
「……ちっ……ガキが」
冷えた一言だった。
九郎の背筋がぴんとこわばる。
肩が強張り、喉の奥が少しだけ詰まった。
だが、その空気を切り裂くように七郎の声が飛ぶ。
「やめろ、八。九郎をいじめて何になる」
八郎は、鼻で笑うように舌打ちを鳴らした。
「チッ……」
場が静まり返る。
やがて長である四郎が、ゆっくりと口を開いた。
「それでは――“桃の集い”を始める」
広間の空気が一段と重くなる。
最初に立ち上がったのは七郎だった。
短く礼をし、全員を見回してから口を開く。
「今回の報告は、極めて危険です」
四郎の眉がわずかに動く。
「言ってみろ、七」
「初代様が“鬼を封じた祠”……そこに、出入りする影があります」
「なんだと!?」
五郎の声が震えた。
目を閉じていた六郎も、すっと視線を上げる。
「鬼の封印が破れれば、この国は――」
六郎はそこで言葉を飲み込んだ。
その先を、誰も口にしたくなかったからだ。
七郎は目を細める。
「ですが、誰かは……見当がついています」
その声に、八郎の口元がほんのわずかに歪んだことを、その時の九郎はまだ見逃していた。
「私が調べます。進展は次の集いで報告を」
四郎は静かに頷く。
「うむ。桃の集いとして、最悪の事態は避けねばならぬ。七郎、よろしく頼んだぞ」
「はい」
会合は、それ以上深くは踏み込まなかった。
誰もが、この問題の危うさを理解していた。
だからこそ、軽々しく言葉にできなかった。
会は短く閉じられたが、広間には重たい余韻だけが残り続けていた。
_____
昼過ぎ。
屋敷を出ると、陽は高く昇っていた。
会合を終えた七郎と九郎は、村外れの簡素な食堂に入った。
木の卓。
湯気の立つ味噌汁。
握り飯の白さ。
小さな焼き魚。
それは質素な食事だったが、会合の重苦しい空気のあとでは、妙に温かく感じられた。
「……どうだった、九郎」
七郎が握り飯を半分に割りながら問う。
九郎は、しばらく答えられなかった。
ようやく口を開いた声は、思った以上に小さかった。
「……何も、話せませんでした」
視線は茶碗の縁から上がらない。
「僕は……皆さまと比べて、まだ何の力も……」
七郎は、ふっと笑った。
そして大きな手で、九郎の頭をくしゃりと撫でる。
「構わん。お前は十歳だ。これからでいい」
「……はい」
「焦るな。誇りを持て」
その言葉は優しかった。
けれど九郎の胸の内は、少しも軽くならない。
(本当に僕で、大丈夫なのか)
名を持つ者たちの鋭い眼。
張りつめた空気。
八郎の冷たい言葉。
十歳の心には、それらすべてが大きすぎた。
七郎はそんな九郎の顔を見ながら、あえてそれ以上は言わなかった。
今はただ、そばにいることが大事なのだと知っていたから。
_____
夜。
その晩、風は冷たく、月はひどく冴えていた。
屋敷の瓦へ白い光が流れ、木々はざわ……と低くざわめいている。
そして、事件は起きた。
集いの中枢――屋敷の一角。
そこにはすでに、血の匂いが満ちていた。
桃四郎(85)・桃五郎(70)・桃六郎(55)――三名死亡。
床には返り血。
壁には深い斬撃痕。
障子は裂け、灯りは半ば倒れ、部屋そのものが暴力の余韻に震えていた。
駆けつけた七郎の顔に、怒りと困惑が同時に走る。
「……なんだこれは。誰が……誰がこんな真似を……!」
遅れて幼い九郎が、その凄惨な光景を見て息を呑む。
「はっ……! し、死んでる……七様……これは……」
「殺されている……」
七郎の声が低くなる。
「ただの老人ではないぞ、彼らは。影力を宿す手練れだ……それを、こんな短時間に三人も……?」
信じられない。
だが、目の前の現実が否定を許さない。
その時――
廊下の奥から、コツ……コツ……と足音が響いた。
灯りの届かぬ暗がりから、影が滑るように現れる。
「……お前は……!」
そこにいたのは、"桃八郎(25)"だった。
上衣は返り血で黒く染まり、手にした刀から血がぽた、ぽたと落ちている。
口元に浮かぶ笑みは、もはや笑みと呼べるものではなかった。
七郎が問う。
その声は低く、静かで、それゆえに激しい怒りを帯びていた。
「やったのか……お前が……」
八郎は、なんでもないことのように静かに頷き、薄く笑う。
「ええ、七様。俺ですよ。……くく」
「なぜだ! お前は“桃の集い”の一員だぞ!」
八郎の瞳に、赤い熱が宿る。
「七様……もう、うんざりなんですよ」
その声は低かった。
だが、内側では何かが爆ぜ続けているようだった。
「掟も、使命も、全部」
八郎は、ゆっくりと腕を広げる。
「俺たちは特別だ。影力を持ち、生まれつき常人を超えている。
なのに、民のため? 世界のため? ……ふざけるな」
「愚か者が!」
「俺はな、この力を試したかったんだよ」
八郎の笑みが深まる。
「抑える? ごめんだ。
血が騒ぐ。刺激が欲しい。
混沌こそ、生きてる感じがする」
その言葉に、九郎の背筋がぞわりと粟立つ。
八郎はさらに続ける。
「昼の会合……七様、気づいてたろ?
祠に出入りしてるのが俺だって」
七郎の目が、鋭く細まる。
「やはり、お前か。鬼を復活させるつもりか」
「そうだ」
八郎は即答した。
「あれを呼び戻す。世界を地獄へ落とす」
「何のために」
「混沌だ。ただそれだけ」
八郎の声に、もはや理屈はない。
「血に染まった世界が見たい」
「初代様の意志を踏みにじる気か!」
「初代? 過去の亡霊だ」
八郎は鼻で笑った。
「なぜ俺たちが、あんな古い声に縛られねばならない?
俺たちは特別だ」
七郎は吐き捨てるように言った。
「力に溺れおって!」
八郎は肩を回し、首を鳴らす。
「四郎たちは“まあまあ”楽しませてくれた」
血に濡れた刀を持ち直し、七郎へと向き直る。
「さて――次は七郎、あんただ」
七郎は静かに前へ出た。
「お前はこの世にいてはならぬ。私が斬る。九郎、下がれ」
「はぁ……この感覚だ。血が沸くぜ!」
次の瞬間、刃が交わった。
キィンッ!!
一瞬の火花。
続けざまに、
ガキン!
ギン!
ギャリッ!
床板を叩く足音。
鋼がぶつかる甲高い音。
息をする間もない応酬。
二人の踏み込みは速い。
七郎の剣筋は淀みなく、最短で急所を穿つ。
八郎の斬撃は獣のように荒々しく、それでいて異様な鋭さを秘めていた。
「さすがだな、七様。歴代最強の呼び声は伊達じゃない!」
「お前などに褒められる筋合いはない!」
鍔迫り合い。
顔が触れるほどの距離。
八郎の口角が吊り上がり、七郎の瞳は氷のように冷たい。
ガァン!
互いに弾かれ、体勢を変える。
八郎の切っ先が七郎の頬をかすめ、血が一筋夜へ散る。
七郎の返しの一太刀が八郎の肩を裂き、上衣がびりりと裂けた。
少しずつ流れが変わる。
七郎が押す。
八郎が受ける。
年長者の技。
歴戦の経験。
そのすべてが、徐々に八郎を追い詰めていく。
「くそっ…このオヤジ…連戦は……堪えるか……!」
八郎が吐き捨てる。
その瞬間、七郎の剣が加速した。
ヒュッ――
ギン!
八郎の刀が、宙を舞う。
床へ、ガラン! と重い音を立てて落ちた。
「――トドメだ!」
七郎の刃が振り下ろされる。
だが、その動きがほんの一瞬だけ止まった。
(……腐っても同胞だ)
その、わずか一瞬の迷い。
八郎は逃さなかった。
影のように身を滑らせ、九郎の背後へ回り込む。
「動くなッ!」
気づいた時には、幼い九郎の喉元へ刀が突きつけられていた。
いつ拾ったのか。
床に転がっていた一本だ。
刃先が薄く肌を裂き、赤がにじむ。
「このガキを切られたくなければ、刀を捨てろ」
「卑怯者が……!」
「さぁ、早く。刀を」
七郎の手が震える。
そして、柄から指が離れた。
剣が、カラン……と床へ落ちる。
その刹那――
「死ねぇッ!!」
八郎が突進した。
七郎の胸元へ、刃が一直線に走る。
グサッ!!
「ぐっ……はっ……!」
赤が噴き出し、七郎が膝をつく。
床が一気に赤く染まった。
幼い九郎の視界がぐらりと揺れる。
「七様ぁあ!!!」
「……はぁ、はぁ……危なかった……でも、これで終わりだ」
八郎が息を整えながら、七郎を見る。
七郎は苦しい呼吸の合間に、九郎へ目を向けた。
「――逃げろ……九郎……!」
だが、九郎の足は動かない。
恐怖で凍りついていた。
喉が焼ける。
目は涙で滲み、世界が歪む。
八郎がゆらりと九郎へ向き直る。
「さて、次はガキの番だ」
だが、その瞬間。
八郎の膝がガクンと落ちた。
「なっ……!?」
肩から流れる血。
荒い呼吸。
四郎、五郎、六郎、そして七郎との連戦。
さすがの八郎も、無傷ではいられなかった。
その一瞬。
幼い九郎の中で、何かが切り替わった。
(――今だ)
床に落ちた一本の刀。
九郎は、震える小さな手でその柄を握った。
重い。
けれど、離さない。
「やめろ、九郎!」
七郎の制止が飛ぶ。
だが、遅い。
ズシュッ!!
まだ十歳。
九郎の突きは未熟で、乱れていて、けれど真っ直ぐだった。
その刃が、八郎の胸を貫いた。
温かい血が、九郎の手にも、顔にも、べっとりと飛ぶ。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「ぐふっ……が、ガキが……余計な……事を……!」
八郎の目が見開かれ、力が抜けていく。
九郎は歯を食いしばったまま、柄を離せない。
腕が震え、膝が笑い、胃の底から吐き気が込み上げる。
やがて八郎が崩れ落ち、刀がカラン……と転がった。
九郎の胸は激しく上下していた。
耳鳴りが止まらない。
ドクン。
ドクン。
ドクン――
血の匂い。
鉄の匂い。
夜気の冷たさ。
十歳の少年には、あまりにも重すぎる現実だった。
――人を、殺めた。
_____
「……九郎」
まだ意識の残る七郎が、血に濡れた床から九郎を呼ぶ。
九郎は泣きながら駆け寄った。
「七様! 七様ぁ!」
七郎は九郎の手を握る。
その手はもう冷え始めていた。
だが、握る力はまだ残っていた。
「……聞け、九郎」
途切れそうな息の中で、七郎は言う。
「お前は――正しく生きろ。
どんな運命が待とうと、世のため、人のために」
九郎は首を振る。
「いやだ……行かないで……! 僕は、僕は……!」
涙で言葉が詰まり、まともに喋れない。
七郎は、それでもかすかに笑った。
「……それが“桃”の本分だ」
九郎の目から涙があふれ落ちる。
「お前なら……できる。……頼んだぞ」
七郎の指が、ゆっくりと緩んでいく。
瞼が落ちる。
胸の上下が、止まる。
九郎の喉から、声にならない叫びが漏れた。
あぁ――
涙が頬を伝い、血の上へぽたぽたと落ちる。
その夜。
十歳の誕生日は、血と涙に塗れた。
_____
月は高く、屋敷は静かだった。
風が障子を撫で、遠くで梟が一声鳴く。
床には、四つの影が横たわっている。
八郎の瞳は開いたまま、天井の梁を見つめていた。
口元には、最後まで消えなかった歪んだ笑み。
九郎は、七郎の亡骸のそばで小さく丸くなっていた。
握った拳は、まだ震えている。
――掟。
――血。
――そして、誓い。
夜が明ければ、山はまた朝露に光るだろう。
鳥は鳴き、川は流れ、村にはいつもと同じ朝が来るはずだ。
だが、桃九郎にとって。
世界はもう、二度と同じ色には戻らない。




