【第20話】アジト
レジスタンスの船は、夜の海を静かに進み――
やがて、東の街の港へと滑り込んだ。
波止場に船がぶつかる小さな音が響く。
その瞬間、長かった航海は幕を閉じた。
_____
ここは、この国で最も栄えた大都市・東の街"トウエン"。
夜でも明るい灯が街を照らし、通りは活気に満ちていた。
石畳の通りには商店が軒を連ね、色とりどりの商品が並んでいる。
香ばしいパンの匂いと、スパイスの刺激的な香りが風に乗って鼻をくすぐった。
酒場からは陽気な音楽が溢れ、笑い声と踊りのリズムが夜を彩る。
――だが。
一歩、裏路地に踏み込んだ瞬間。
世界はまるで別の顔を見せた。
地面にうずくまる浮浪者。
か細い声で手を差し出す物乞い。
痩せこけた子供が、何も映さぬ瞳でぼんやりと街を見上げている。
繁栄の光の裏に、確かに存在する“闇”。
その光景に、モーモー太郎は息を呑んだ。
そして何も言わず、ただの牛のふりをして歩を進める。
「……さあ、着いてきてください。」
先導するサブロウの声は、いつになく低かった。
_____
「この街に、私たちのアジトがあります。」
「こんな賑やかな街に……?」
モーモー太郎が首を傾げると、サブロウはにやりと笑う。
「こういう場所の方が、意外と目立たないんですよ。
敵の目をかいくぐるには、喧騒に紛れるのが一番です。」
人混みの中を縫うように歩き続けるサブロウ。
やがて二人が立ち止まったのは――
一軒の、錆びた廃工場の前だった。
壁には剥がれ落ちた鉄板。
窓はひび割れ、長年放置されたような埃が積もっている。
どこからどう見ても、ただの古びた町工場だ。
「……ここ?」
モーモー太郎の声には、半信半疑がにじむ。
「ふふ、意外でしたか?」
サブロウは鉄製の門をギィィ……と軋ませながら開けた。
中からは鉄と油の混じった、懐かしいような匂いが漂ってくる。
工場の奥へと進むと――
突然、床の一角がガコンと音を立てて動き、下へ続く階段が現れた。
「こっちです。」
サブロウが手招きする。
(……地下に……?)
モーモー太郎は驚きを隠せないまま、ゆっくりと階段を降りていった。
ひんやりとした空気が頬を撫でる。
降りても降りても、階段は終わらない。
静寂の中で、足音だけがコツコツと響いた。
_____
どれほど降りた頃だろうか。
やがて、二人は一枚の重厚な扉の前へたどり着いた。
「さあ、モーモー太郎さん。」
サブロウが振り返り、にやりと笑う。
「驚かないでくださいね。」
ゆっくりと、扉が開かれていく。
ゴゴゴゴゴゴ……!!!
扉の先に広がっていたのは――
地下とは思えないほどの、広大な空間だった。
モーモー太郎は、思わず息を呑んだ。
その空間には、50人を超える反乱軍の団員たちがひしめいていた。
机の上には作戦図。
武器を整備する音がカンカンと響き、物資を運ぶ声が飛び交う。
誰もが真剣な表情で、自分の役割を果たしていた。
まるで戦場の最前線――本物の“拠点”だった。
「……地下に、こんな場所が……!」
モーモー太郎の瞳が大きく見開かれる。
その表情を見て、サブロウは満足げに両手を広げた。
「ようこそ――反乱軍のアジトへ!」
「すごい……これが……レジスタンスの……!」
地下空間の熱気と緊張感に、モーモー太郎は圧倒されるしかなかった。
_____
「ふふ。どうです?気に入りましたか?」
サブロウが肩越しに振り返り、微笑む。
「このまま、ボスのところへ行きましょう。」
「……あ、あぁ。」
まだ心の整理が追いつかないモーモー太郎をよそに、サブロウは堂々と歩き出す。
団員たちが次々と声をかける。
「お疲れ様です、サブロウさん!」
「サブロウ!例の件、準備できたぞ!」
(……サブロウ……ただの案内役じゃない……)
モーモー太郎はその光景を見ながら、自然と確信した。
彼が、この組織の中でもかなり重要な存在であることを――。
_____
「ボスは今年で60歳になります。」
「60歳……!? その歳で戦っているのか……?」
「えぇ……まあ、その辺は会えばすぐ分かりますよ。」
サブロウは意味深な笑みを浮かべ、大きな扉の前で足を止めた。
「ここです。」
サブロウが立ち止まり、重厚な扉を指差した。
モーモー太郎はゴクリと生唾を飲み込む。
重々しい扉の向こうには、まだ見ぬ“レジスタンスの頂点”がいる――。
(ここに……レジスタンスのボスが……)
ただの扉なのに、なぜか圧がある。
奥に“何か”がいる――そんな気配が、肌を刺してくる。
サブロウが静かに扉に手を添え、ノックした。
コンコン――
間髪入れず、低い声が響く。
「……入れ」
ギィィ……
ゴゴゴゴゴ……
重い扉が、ゆっくりと軋みを上げながら開いていった。
その音だけで、背筋に冷たいものが走る。
中に広がっていたのは――
まるで時間すら止まったような、張り詰めた静謐な空間だった。
余計な装飾は一切ない。
壁も床も、冷たい石と鉄でできている。
ただ、空気だけが異常に重く、沈黙が場を支配していた。
(……すごい……)
部屋の中央に、ひとりの男が座していた。
その存在感――異常だった。
ただ座っているだけなのに、まるで目の前に鋭利な刃が突きつけられているような圧。
呼吸が浅くなる。心臓が無意識に早鐘を打ち始めた。
男はゆっくりと立ち上がった。
白く長い髪と顎髭。
その眼光はまるで光そのものを切り裂くような鋭さ。
一歩も隙がない。まるで一振りの名刀のような佇まいだった。
(……この人……ただ者じゃない……!)
数多の戦いを越えてきた戦士であることが、姿を見ただけで分かる。
「ボス、モーモー太郎さんをお連れしました」
サブロウの声が、静まり返った空間に淡く響いた。
男はモーモー太郎に視線を向け、静かに口を開く。
「君が……モーモー太郎君か」
低く穏やかな声。だが、不思議と胸の奥に響いた。
その声には、力がある。人の心を動かす何かがあった。
「よく来てくれた」
男はゆっくりと頭を下げた。
「私はレジスタンスの頭……“桃九郎”と申す」
――男の名は、桃九郎。
その瞬間、モーモー太郎の心臓が強く跳ねた。
(この人が……もう一人の、“桃から生まれた者”……!)
「モーモー太郎です……」
自然と頭が下がっていた。
桃九郎はわずかに微笑み、彼を見つめる。
「噂は聞いている。君はホレスやネクターと……たった一人で戦ったそうだな」
その眼差しには、戦士としての敬意と、同志としての温かさが宿っていた。
「……レジスタンスの頭として、君に礼を言いたい。ありがとう」
桃九郎は深々と頭を垂れた。
モーモー太郎はハッとし、言葉を失う。
誰かにこんな風に感謝されるのは……初めてだった。
「あなたが……本当に、“桃から生まれた”というのですか?」
その問いには、戸惑いと、どこか信じたいという想いが混じっていた。
桃九郎は静かに頷く。
「そうだ。六十年前、私はこの世に桃より生を受けた」
迷いのない声。重く、真実だけが宿っている声だった。
「十五年に一度、桃から誰かが生まれる……あれは本当なんですか?」
「真実だ」
――静寂。
モーモー太郎は一瞬、息を呑んだ。
「不思議かね?」
桃九郎が少しだけ口角を上げる。
「いえ……僕も“人のことは言えない”ので……」
モーモー太郎は小さく苦笑した。
桃九郎はその顔をじっと見つめ、
「君も、“違い”に苦しんできたのだろうな……」
ゆっくりと頷き、椅子に腰を下ろす。
違いに苦しんできたことは、自分が一番よく知っている。
それでも、桃九郎の言葉は胸の奥まで届き、まるで心を“見透かされた”ようだった。
「……僕は根本から違うんです。見た目も、言葉を使う事も……」
「私は君のことが知りたい」
「……牛だからですか?」
「それもある」
モーモー太郎は俯いた。
だが、桃九郎は間髪入れず言葉を重ねた。
「だがそれ以上に――君の正義感の出所を知りたい。
ひとりの青年としての心を知りたいのだ」
「え……?」
モーモー太郎は顔を上げた。
桃九郎の目は真っすぐで、一切の迷いがなかった。
「牛かどうか、桃から生まれたかどうか……そんなことは、本質じゃない」
桃九郎の声が、部屋全体に深く染み渡る。
「何よりも大切なのは――“心”だ」
「……心……」
「我々には心がある。違いを理解し、許し、他を思いやる心だ。
それこそが、私たちが“この世界で生きる”ということではないか」
その言葉は、静かに、しかし確実にモーモー太郎の胸を打った。
心の奥の氷が、じわりと溶けていくようだった。
「僕は……これから……どうやって生きていけばいいのですか」
モーモー太郎は、抑えきれない想いを吐き出した。
その声には、戦いで受けた傷より深い、心の痛みが宿っていた。
家族を殺され、ホレスに裏切られ、目的を失い、
世界には“悪”の烙印を押された。
何より、自分は“牛”。
そんな彼の心を見透かすように――
桃九郎はゆっくりと歩み寄り、優しく、それでいて力強く言った。
「君は誰よりも傷つき、迷い、世界から拒絶された。
今、自分が何のために生きているのかも分からずにいる」
「……その通りです」
モーモー太郎は震える声で応えた。
「では、問おう」
桃九郎の声が、わずかに鋭くなる。
「君が鬼と戦ったのは――嘘だったのか?」
短い沈黙。
モーモー太郎は、ぎゅっと拳を握りしめ――
「……嘘じゃない! 僕は……本気で平和を願っていた!」
その叫びに、桃九郎は小さく微笑んだ。
まるで、心の芯を見届けたかのような、安堵の笑みだった。
「そして同時に――君は、自分が“何者なのか”を知りたいと思っているのではないか?」
モーモー太郎は目を見開いた。
その言葉は、彼の奥底に眠っていた“渇望”を的確に突いていた。
「……知りたい。僕は、自分という存在が何のために生まれたのか、知りたい……!」
「ならば、心の声に従え。
それが、君の存在を証明する一歩になる。」
桃九郎の眼差しは深く、優しかった。
「モーモー太郎君……私に協力させてくれ。
“生きる意味”を見つけるために――共に、前へ進もう」
その言葉が、まっすぐに胸へ突き刺さった。
心の奥で、確かに何かが灯る。
――生きる意味のために、戦う。
_____
その時だった――
バァンッ!!!
乾いた轟音が部屋中に響き渡り、重厚な扉が勢いよく開かれた。
張り詰めていた空気が、一瞬で揺らぐ。
モーモー太郎は反射的に身構えた。
目を細め、扉の方を睨む。
そこに立っていたのは――
一人の少年だった。
年の頃は十五、十六。
長めの黒髪が肩にかかり、瞳は深い漆黒。
その眼差しには年齢を超えた鋭さと、青臭い未熟さが入り混じっている。
少年は部屋を一目見る。そして――
「うわっ!? 牛がいるぅぅぅぅ!?!?」
素っ頓狂な声を上げた。
本気で驚いている顔だ。目を見開き、指を震わせ、モーモー太郎を指差す。
「お、おい九郎様っ!! な、なんなんですかコレ!? 牛!?」
声が見事に裏返った。
あまりの動揺ぶりに、モーモー太郎は一瞬きょとんとし――
「……お邪魔してます。モーモー太郎です」
と静かに名乗った。
「しゃ、喋ったぁぁぁぁああ!?!?!?」
少年の絶叫が地下に木霊する。
モーモー太郎は思わず苦笑しそうになった。
だが――
「桃十郎。無礼はよせ」
低く、凍りつくような桃九郎の声が響いた。
その一言で、部屋の空気がピンと張り詰める。
「次にその口を利いたら……どうなるか、分かっているな?」
少年――桃十郎は、ビクリと震えた。
「……はい」
素直にうなずき、シュンと肩を落とす。
桃九郎はモーモー太郎に向き直る。
「すまなかった、モーモー太郎君。こちらは“桃十郎”。我々と同じ、“桃から生まれた者”の一人だ」
「えっ……?」
モーモー太郎は思わず目を丸くした。
「……この子も?」
「あぁ。私は六十年前に生まれた。そして桃十郎は、その三代後――十五年前に生を受けた」
「おい、モーモー太郎! お前、何歳だよ!」
桃十郎がぐいっと距離を詰めてくる。
「え? ……十四」
「同い年じゃねーか! なに勝手に先輩風ふかしてんだぁ!?!?」
「いや……別に吹かしてないけど……」
「まったく……桃十郎、お前は相変わらずだな」
サブロウが微笑ましげに制すると、桃十郎は不満げに黙り込んだ。
桃九郎は視線を戻し、静かに言った。
「モーモー太郎君。少し見ておいてくれ。“桃から生まれた者”の証を――」
「桃十郎。見せなさい」
「はいっ」
桃十郎は一瞬だけ真顔になり、姿勢を正す。
そして――深く息を吸い込むと、その身体からふわりと黒い影”が立ち上った。
空気よりも濃く、深く、うごめく闇。
まるで生き物のように形を変えながら漂うそれを見て――
(……影ッ!!)
モーモー太郎の目が大きく見開かれた。
「……その力……ホレスと同じ……!」
桃九郎が静かに言葉を重ねる。
「そうだ。この力は“影力”と呼ばれる。桃から生まれし者にのみ備わる、特別な力だ。人智を超えた――心の奥底と繋がる力」
「影力……」
「そしてこの力の強さは、心――意志と信念の強さに比例する。怒り、悲しみ、願い……心の深奥にある“叫び”が、その者の力の本質を形づくるのだ」
モーモー太郎の脳裏に、あの漆黒の影が蘇る。
「じゃあ……ホレスも……」
「あぁ。あやつも“桃から生まれし者”だ」
桃九郎の静かな言葉に、部屋の空気が重く沈んだ。
モーモー太郎は視線を落とす。
心の奥底から、記憶が波のように押し寄せる。
――おじいさんとおばあさんの、優しい笑顔。
――ネクターの冷たい嘲笑。
――ホレスの裏切りと、鬼の封印の光――
胸が、きゅっと痛んだ。
けれど、その痛みはもう“逃げるため”のものではなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、はっきりとした決意の光が宿っていた。
「……桃九郎さん」
静かに、しかし揺るぎなく言葉を紡ぐ。
「僕……レジスタンスに、入ります」
一瞬、静寂が訪れた。
桃十郎も、サブロウも、目を見開いて彼を見つめる。
「……そして、知りたい。世界のことを。
この国が、どうなっているのか。何が真実で、何が偽りなのか」
モーモー太郎は拳を固く握る。
「そして……僕自身のことも。僕が何者で、どこへ向かえばいいのか――自分の“進む道”を、見つけたい」
その真っ直ぐな声に、桃九郎は静かに微笑んだ。
柔らかく、それでいてどこまでも確信に満ちた微笑みだった。
「モーモー太郎君。君には……何か、特別な力を感じる」
その目は、遠い過去の“誰か”と今の彼を重ねているようだった。
「君の存在は、きっとレジスタンスを――いや、この国全体を変えるきっかけになる。だから……共に戦ってくれないか」
その声には、命令も強制もない。
ただ、信じる者同士の“まっすぐな願い”だけがあった。
モーモー太郎は一瞬目を伏せ――そして力強く頷いた。
「……はい!」
二人はゆっくりと手を伸ばす。
ガシッ!!
手と手が重なった瞬間、アジトの空気がビリリと震えたように感じた。
「ありがとう、モーモー太郎君……」
桃九郎はその手を離し、背後の棚から一つの古びた木箱を取り出した。
蓋には、桃の紋章が刻まれている。
「君に、知っておいてほしい過去がある」
「えっ、九様!? それ、この牛に話しちゃうんですか!?」
桃十郎が慌てて前に出る。
「落ち着け、桃十郎」
桃九郎は穏やかに制した。
「これからは君たちの時代だ。この歴史を伝えるのは、お前たちの役目だ。
それに……彼には、その資格がある。これは、私の“勘”だがな」
「勘って……はぁ……」
桃十郎は唸りながらも、何も言い返せなかった。
桃九郎はモーモー太郎をじっと見つめる。
「私はね、モーモー太郎君。君から“清い空気”を感じるのだ。
濁ったこの国の空に差し込む、一筋の朝日のような光を」
その言葉が、モーモー太郎の胸に深く染みた。
「聞いてくれ。このレジスタンスがどのように生まれたか――
そして、“桃から生まれた者たち”が歩んできた道を」
桃九郎はゆっくりと腰を下ろした。
その所作一つ一つが、これから語られる過去の重みを物語っている。
部屋の灯が、わずかに揺れた。
――封印された真実の扉が、いま、ゆっくりと開かれようとしていた。
「これは……私たちの“始まり”の物語だ――」




