【第12話】鬼ヶ島への船出
潮風が肌を切る。
塩の匂いが鼻の奥を刺し、桟橋の木板が――ギシ……ギシ……と、波に合わせて低く軋んだ。
港町の端、ほとんど骨組みだけの小舟がひとつ。
青錆の浮いた船体、かすれた帆、潮で硬くなったロープが風に叩かれて――パタン、パタン、と乾いた音を立てる。
その先に、霞む黒い影――鬼ヶ島。
昼なのに、島影だけが夜のように濃い。
ホレスは桟橋の先端で立ち止まり、じっと小舟を見下ろした。
隣で、モーモー太郎が、潮に濡れるも動じない。太い肩が、海風を受けてどっしりと構える。
「……すまない、モーモー太郎君」
ホレスが口を開いた。
「どうしたんですか?」
「この作戦を提案したのは私だが……実際、鬼を前にすれば私はほとんど無力だろう。死力は尽くす。だが戦うのは、君だ」
海が――ザバァン、と桟橋の杭を叩く。
「感謝してますよ、ホレスさん」
「……感謝?」
「僕は一度、鬼に負けました」
視線が海の向こう――重たい雲の下、黒い島影へと伸びる。
「だからこそ鍛えました。でも……正直自信はなかったんです」
わずかに震える。
けれど、次の言葉は熱かった。
「でも今回は違う」
瞳に、火が灯る。
「ホレスさんがいる。――“きびだんご”がある。
今ならやれます。
だから、絶対に成功させます。ネクターも、全部――終わらせる」
ホレスの口元が、わずかに緩んだ。
潮風が頬を撫で、濃い罪悪感を少しだけ薄めていく。
だが――分かっている。
この賭けは、薄氷だ。鬼に“きびだんご”を食わせれば勝ち。外せば、終わり。命の綱一本。
「……作戦の再確認を」
モーモー太郎が言う。
ホレスはうなずき、息を整えた。
「まず、君が鬼と対峙し、注意を引きつける。その間、私は岩陰に身を潜め、機を待つ」
「僕が必ず“隙”を作ります」
「その瞬間、ホレスさんが――“きびだんご”を投げ入れる」
ホレスの手の中、白木の小箱がコト……と鳴る。
蓋をずらせば、わずかに淡く光る小さな丸。
見た目はただの菓子――だが、世界を反転させ得る“兵器”。
「外せば終わりの一投だ。」
ホレスの目が、刃物のように細く鋭くなる。
モーモー太郎は、潮の匂いを肺いっぱいに吸い込んだ。
「行きましょう」
短く、強く。
その声に、桟橋の鳥が一斉に飛び立って――パサパサ、と翼音。
ホレスは頷き、小箱を懐に収めた。
二人はロープを解き、ぎゅっと結び直し、小舟へ身を移す。
木が――ギ……と悲鳴を上げる。
海面に乗り、ゆっくりと、港を離れた。
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オールが水を割く。
シュッ……ザパ……シュッ……ザパ……
霧が濃い。
遠くでブイがコトコト揺れ、船の側面が波を舐める度――ピシ…ピシ…と板の継ぎ目が音を立てる。
そして。
霧の切れ間に、黒い崖が一瞬だけのぞく。
島だ。鬼ヶ島が、口を開けて待っている。
「……あの島に、鬼がいる」
モーモー太郎が、握った拳を見下ろす。
敗北の記憶が熱を帯びて蘇る――だが、焼かれるのは恐怖ではない。覚悟だ。
「モーモー太郎君」
「はい」
「君は、一度“戻ってきた”男だ。――それだけで、もう伝説なんだよ」
「だったら、二度目の伝説も作ってみせます」
「頼もしいな」
「頼ってください」
霧が濃くなるほど、決意がはっきりする。
「行こう、ホレスさん」
「ああ」
舟首が、黒い大地へ向きを変える。
霧の奥、鬼ヶ島の輪郭が、はっきりと牙を見せた。
ザパァァン――
それでも、舟は――止まらない。
潮の匂いが濃くなる。
風が変わる。
空気の温度が、ひとつ下がった。
――鬼の棲む島の気配だ。
モーモー太郎は、最後に深く息を吸い込んだ。
胸の奥で火がつく。
「絶対に――終わらせる」
声は、波音に消えず、まっすぐ前へ。
小舟は霧を割り、黒い影の懐へと消えていった――。




