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【第13話】鬼との死闘

「――さあ、行きますよ」


 上陸したその瞬間、モーモー太郎の低い声が、湿った空気を震わせた。


 眼差しに、迷いはなかった。

 あるのは、鋼のように研ぎ澄まされた決意だけ。

 鬼ヶ島へ初めて乗り込んだあの日の、勢いだけで突き進んでいた少年の顔は、もうそこにはない。


 ホレスも静かに頷き、二人は足を踏み出す。


 暗く、重く、湿った洞窟の中へ――。


 入口に立っただけで、肌が粟立った。

 外の海風とはまるで違う。

 ここには生きた風がない。

 あるのは、長い年月をかけて岩に染みついた血と炎と怨嗟の気配だけだった。


 奥へ進むにつれ、その圧は濃密になる。


 黒い苔が壁一面へ張りつき、

 滴り落ちる水滴が、冷たい音を立てて足元の石を打つ。

 湿り気を帯びた闇は肌へまとわりつき、まるで洞窟そのものが生きていて、侵入者を呑み込もうとしているかのようだった。


「う……っ、すごい……重圧だ……。なんという……重い空気だ……!」


 ホレスが肩で息をしながら、苦しそうに呟く。


 空気が淀んでいる。

 呼吸をするたび、喉の奥がひりつき、胸の内側へ黒いものが流れ込んでくるようだった。

 ただ立っているだけで、魂の芯をじわじわ削られていくような感覚。


「ホレスさん、気をしっかり保ってください」


 モーモー太郎の声は、驚くほど落ち着いていた。


「気を抜くと、一気に意識が飛びます」


 前回、この洞窟で恐怖に呑まれたあの時とは違う。

 今の彼は、この重圧の中でも確かに立っていた。


(……やれる)


 胸の奥に、静かな炎が燃えている。


(今度こそ――!)


 その火だけが、彼の足取りを支えていた。


 やがて道は広がり、二人は巨大な大広間へたどり着く。


 天井は高く、暗闇に溶け、その果ては見えない。

 壁には古代の戦いを描いた彫刻が刻まれ、

 岩肌のひび割れには、幾百年も前の激戦の名残のような爪痕が走っている。


 ここはただの洞窟ではない。


 戦場だ。

 

「ホレスさん……ここに隠れてください」


 モーモー太郎は、頑丈な岩陰を指さした。


 ホレスは短く頷き、素早く身を潜める。

 その手には、命運を握る“きびだんご”が汗で湿るほど強く握られていた。


 心臓が、嫌になるほど速く打っている。


 ――ゴゴゴゴゴ……


 次の瞬間、大広間全体が震えた。


 地の底から響くような低い振動。

 空気が震え、天井の砂がはらはらと落ちる。

 それだけで分かった。


 来る。


 そして、暗闇の奥から――


 “鬼”が姿を現した。


 炎のように赤い肌。

 天井に届くほどの巨体。

 鋼鉄のように隆起した筋肉。

 血を煮詰めたような眼光がぎらりと光り、見る者すべてを射抜く。


 その体からは、黒い煙のような邪気が噴き出していた。

 ただ立っているだけで空間を歪め、周囲の空気そのものをねじ曲げる。


 ――生き物の姿をした、災厄。


 それが、目の前にいた。


「……!」

(鬼……!)


 岩陰で、ホレスが思わず息を呑む。


 あまりに巨大。

 あまりに濃密。

 あまりに、死に近い。


 モーモー太郎は一歩、前へ踏み出した。


「おい、鬼……!」


 声が洞窟に反響する。


「覚えているか……僕のことを!」


 鬼はゆっくりと身を起こす。

 その動作だけで壁がミシミシと軋み、大地がうなる。


「覚えているともォ……」


 濁った、泥のような声。


「牛ごときが、ワシに刃向かったんだからなァ……!」


 次の瞬間――


「ガハハハハハハハハ!!!!」


 低く響く笑い声が、洞窟全体へ反響した。

 天井の岩がぱらぱらと落ち、地面が震える。

 だが、モーモー太郎は微動だにしなかった。


「笑っていられるのも……今のうちだ」


 蹄に力を込め、大地を踏み鳴らす。


 その姿は、もはやただの牛ではない。

 古の戦士が死地へ立つ瞬間のような、凄みがあった。


「何度来ても同じ事じゃあ!!」


 鬼が巨大な手を振り下ろす――!


 ガァンッ!!


 瞬間、モーモー太郎の前蹴りが、その腕を正面から弾き飛ばした。


 衝撃が爆ぜ、岩の破片と砂塵が舞い上がる。

 鬼の巨腕が、わずかに外側へ流された。


「なっ……!」


 鬼の顔に、初めて小さな驚きが走る。


「あの時の僕とは……違う!!」


 モーモー太郎が大地を蹴る。

 一気に間合いを詰めた。


 前回は見上げるだけで脚が竦んだ。

 だが今は違う。

 恐怖を知ったうえで、それでも前へ出る。


「ぐはは……調子に乗るなァッ!!」


 鬼の拳が、再び振り下ろされる。


 ドォォン!!


 空気が裂け、轟音とともに地面が陥没した。

 岩が砕け、粉塵が噴き上がる。


 だがモーモー太郎は、紙一重で回避する――!


 左へ。

 右へ。

 沈み込んで、跳ねる。


 鬼の一撃は確かに重い。

 だが前回よりも、その“動き”が見える。

 体が恐怖で止まらない。

 読み、躱し、返す余地がある。


 そして連撃。


 ドン! ドン! ドンッ!!


 前足。

 後ろ足。

 さらに全身を捻った渾身の跳び蹴り。


 すべてが鬼の腹部へ、寸分違わず叩き込まれる。


「ぐぬぬぬぅぅぅ!!」


 鬼の巨体が、ぐらりと揺れた。


 確かに、攻撃は通じている――!


(やれる!)


 モーモー太郎の胸に、一瞬、確かな手応えが灯る。


(今度こそ……鬼に勝てる!)


 しかし――


「フンッ!!」


 鬼の全身から、“赤黒い邪気”が噴き上がった。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!!


 それは煙ではなかった。

 炎にも似ている。

 だが、ただ燃えるのではない。

 憎悪そのものが形を持って吹き出しているような、禍々しい力だった。


 邪気が炎のように広がり、洞窟全体を包み込む。

 熱風が吹き荒れ、岩肌が赤く焼ける。


「くっ……何だこれは!? 熱い……! 体が……焼ける……!!」


 ホレスは岩陰に身を伏せながらも、皮膚がひりつくほどの熱に顔を歪めた。

 目を細めてもなお、視界の端が揺らぐ。

 これほど離れていてなお、この熱と圧。


 モーモー太郎も踏みとどまるので精一杯だった。

 蹄がじりじりと後退していく。


「舐めるなァ!!

 ワシが本気を出せばァ……貴様など……虫ケラ同然よォ!!」


 鬼が咆哮する。


 邪気は生き物のようにうねり、天井と壁を黒く焦がしていく。

 ただの力ではない。

 この場そのものを書き換えるような、異質な支配だった。


(黒い影……? いや、炎のような……これは……!?)


 モーモー太郎の呼吸が荒くなる。


 近づけない。

 肌が焼かれる。

 肺まで熱い。

 目の奥が痛む。


(熱くて近づけない……このままじゃ……!)


 体はすでに限界へ近い。

 近距離で浴び続けた邪気が、全身を蝕んでいた。


「ガハハ! 終わりだ」


 鬼の巨大な腕が、ゆっくりと――しかし確実に、モーモー太郎へ伸びる。


 そのとき――


「こっちだぁーーーっ!!!」


 岩陰から、ホレスの叫びが響き渡った!


 鬼の手が、止まる。


「あぁ!?」


 血のような瞳が、そちらへ向く。


 その一瞬――


 ホレスは全力で、手にした“きびだんご”を投げ放った。


 腕の筋がきしむ。

 肩が裂けそうなほど力を込める。

 狙うのは、鬼の口元。


 団子は一直線に飛ぶ――!


 しかし――


 バシィィッ!!!


 鬼の手が、まるでそれを最初から見抜いていたかのように、空中できびだんごを叩き落とした。


 コロ……コロ……


 白い団子が、虚しく石床の上を転がっていく。


「……っ!!」


 ホレスの表情が凍りついた。


 血の気が、音もなく引いていく。


 ――作戦は、失敗した。


 それは一瞬の出来事だった。

 だが、その一瞬で全てが崩れた。


(しまった……!)


 ホレスは後ずさる。

 自分が鬼の注意を引きつけることで、モーモー太郎を助け、あの一投に賭けるつもりだった。


 だが肝心の一撃は、見抜かれ、落とされた。

 次の一手が、もうない。


「ま、まずい……」


 鬼の赤い瞳が、ぎらりと細く光る。

 獲物を見つけた猛獣の目だ。


「……ほぉ?」


 鬼が一歩、踏み出す。


 ――ドォンッ!


 地を踏みしめるたび、洞窟が揺れ、小石がカラカラと転がる。


 二歩目。

 さらに振動が増す。

 空気が震え、ホレスの喉奥から自然と息が漏れた。


「ひっ……!」


「貴様……ワシに何かできるとでも思ったか?」


 鬼が口元を歪め、ゆっくりと手を持ち上げる。

 その動きには、虫を潰す前に弄ぶような、残酷な余裕が満ちていた。


「おいおい……人間。何がしたかったんだ?

 ガァーーーハハハハ!!!」


 洞窟の奥深くまで響く嘲笑。


 ホレスは必死に身を引きながら、心臓の鼓動が耳に響くほど速くなっていくのを感じていた。


(くそっ……! このままじゃ……!)


 ――ズドォォォォンッ!!


 次の瞬間、鬼の拳が振り下ろされた。


 地面へ激突し、轟音とともに洞窟全体が激しく揺れる。

 岩壁が崩れ、粉塵が視界を覆った。


「くっ……あぶない……!」


 ホレスは身を翻し、ぎりぎりのところで岩陰へ飛び込む。

 間一髪だった。

 あと一瞬遅れていれば、粉々に潰されていた。


(まずい……このままじゃ、ホレスさんが……!)


 モーモー太郎は、息を荒げながら必死に立っていた。


 邪気を浴びた体は限界へ近い。

 肺が焼けるように痛む。

 視界の端がちらつく。

 足は重く、思うように前へ出ない。


 それでも――膝をつくわけにはいかなかった。


 鬼はホレスへ、ゆっくりと近づいていく。


「さあ……隠れても無駄だ。

 貴様から――死ねぇぇぇッ!!」


 巨大な拳が再び振り上げられる。


 空を裂く音。

 空間そのものが軋み、ひしゃげたかのような圧力が洞窟を包む。


 ――その時。


「うぉぉぉぉおおおおおおッッ!!!!」


 洞窟の奥へ、獣のような咆哮が響き渡った。


 モーモー太郎の雄叫びだった。


 その瞬間――


 バチィィィィィィィィィィィンッ!!!


 空気が弾けた。


 モーモー太郎の全身から、雷のような光が一斉に奔り出す!


「な、なんだ……光!?」


 鬼が目を見開いた。


 目の前にあるのは、眩い閃光へ包まれたモーモー太郎の姿――。


 バチバチバチッ!!

 ズガガガガガガガッ!!!


 稲妻が洞窟中を走る。

 岩壁へ焦げ跡が刻まれ、天井の鍾乳石がばらばらと落ち、小石が雨のように降り注ぐ。


 ホレスは岩陰から顔を覗かせ、息を呑んだ。


「こ、これは……!?

 モーモー太郎君……一体何が……!」


 モーモー太郎の体が、まるで雷そのものと化していた。


 筋肉が光を帯び、

 皮膚の下で青白い電流が脈打つように走っている。

 ただの発光ではない。

 力が目覚めている。

 体そのものが、別の段階へ踏み込んでいる。


 バチッ……バチッ……


 雷鳴が空間の奥で鳴り響く。


 鬼でさえ、一歩、後ずさった。


「ば、馬鹿な……牛……この力は……」


 その声に、初めて“恐れ”が滲んでいた。


 やがて、放電は少しずつ収束していく。

 びりびりと残響が空気を震わせる中、閃光の中心から、ゆっくりと――一つの影が姿を現した。


 ホレスの瞳が、限界まで見開かれる。


「……う、嘘だろ……」


 稲妻の残光の中に立っていたのは――


 二本の足で、まっすぐに立ち上がったモーモー太郎だった。

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