誘拐事件
熱帯の豪雨が、宿舎のトタン屋根を激しく叩く音で目が覚めた。
室内は湿気とカビの匂いが充満し、朝だというのに不快な空気を纏わりつかせる。浅い眠りから起き上がり、まだ傷が痛むのを感じている。
(歳だな。回復が遅い)
リハビリは十分、ノーマル訓練もノルマをこなせるレベルまで回復してもまだ足りない。
特にこんな雨の日は。
朝の一服と火をつけたところで、携帯が鳴った。
この番号を知っているのは、会社の人間か施設のシスターか、あるいはクアンだけ。画面に出ている「Unknown」に手が一瞬止まる。
嫌な予感がした。
「ミスターナルセ!クアンが、クアンが連れ去られましt……!」
端末の向こうから激しい雨音とシスターの悲鳴にも似た悲痛な声が、まだ目覚めていない頭を一気に加速させ、通信はそこで乱暴に切れた。
プツッという音のあと、ツーー、ツーーという無機質な電子音が、クアンが拉致されたという最悪の事実を、冷酷に告げていた。
俺は携帯を握りしめたまま、ベッドから飛び出した。
(状況確認…!)
頭の中が真っ白になりかけた瞬間、この半年間でスペンサーから耳にタコができるほど叩き込まれた教本のフレーズが、無意識に脳裏をよぎった。どんなに焦っていても、身体が勝手にプロの動きをなぞろうとする。皮肉なほど優秀な訓練の成果だ。
あの孤児院は、VSSが「施設セキュリティの開発と訓練」を兼ねて、厳重に監視しているはずだった。ならば、そいつを管理している担当者がいるベースに行けば、何かわかるはずだ。
部屋を飛び出し、ベースへと向かう廊下を走る。悪天候のせいで照明の落ちた廊下はひどく薄暗く静かで、自分の荒い息遣いと心臓の音がうるさいほどに響いていた。
ベースの入口へ向かう角でスペンサーとヴィクターが同時に姿を現した。
俺は考えるより先に、スペンサーの胸ぐらを両手で掴みかかっていた。
「…どういうことだ。保護する約束だろう」
ここで激昂するわけにはいかない。叫びそうになった自分を抑え込む。
胸ぐらを揺さぶられているスペンサーも、その横に立つヴィクターも、俺の行動にピクリとも表情を動かさなかった。
クアンが攫われた事はもうわかっているようだ。
「セキュリティから話は聞いている。だが、アレが連れ去られたのは施設内ではなく外だ」
「何……?」
スペンサーの言葉に俺の手の力がわずかに緩む。すかさず、ヴィクターが冷徹な眼光をこちらに向けた。
「言っただろう。施設にいる限りは保護してやると。自ら施設を抜け出した者は、我々の保護対象外だ」
ヴィクターはそう言い放ち、俺の肩を乱暴に押し割り、目も合わさずにさっさと廊下の奥へと歩き去ってしまった。
「待て!」
叫ぶ俺の前に、スペンサーが静かに進み出た。
彼は去っていくヴィクターの背中を一瞥し、深くため息をつく。
「施設セキュリティ開発のために、あそこには高コストの設備を敷いている。だが、一歩外に出れば完全にザルだ。……だからといって成瀬、お前の現在の資金力じゃ、『奪還パッケージ』の料金を支払うことなんてできないだろ?」
スペンサーの言葉が、現実の重みとなって俺の頭にのしかかる。 まだ借金もまともに返せていない。それどころか、この半年間のリハビリ代や特注のサポーター費用がクソ高い金利で上乗せされている状態だ。会社を動かす金なんて、逆立ちしても出てこない。 考えろ。考えろ、俺に何ができる。
スペンサーは周囲を軽く見回すと、声を一段と潜めた。
「……ボスは『追うな』とは言っていない。携帯を貸せ。クアンには俺が念のためにGPSを仕込んである」
手渡した携帯の画面に、スペンサーが素早い手つきでアプリを表示させて突き戻してきた。そこには、旧市街地に向かって刻一刻と移動する、赤く光るひとつの点が表示されていた。 さらにスペンサーは、廊下の壁面に据え付けられているギア・ロッカーの前に歩み寄り、扉を開け放った。
「全く、うちの連中はだらしないな。誰かが鍵を閉め忘れてるようだ。……紛失したら請求書だな」
皮肉気な笑みを一瞬だけ浮かべ、スペンサーはそのままベースの奥へと戻っていった。
残された俺は、開かれたロッカーから必要な装備を取り出し、スマホの画面で動く赤い点を見つめる。 現在地と移動速度。そこから、周辺の地形データとルートが、頭の中で立体的に組み上がっていく。焦燥に駆られながらも、建物突入(CQB)の準備手順を無意識のうちに完璧にこなしている自分に、どこか冷めたプロの感覚を覚えた。
「クアンは俺が連れ戻す」
装備の感触を確かめ、激しい雨の匂いと水飛沫が吹き込んでくる宿舎の出口を見据えながら、小さく吐き捨てた。
宿舎の裏手へと飛び出すと、激しい豪雨が容赦なく俺の全身を叩いた。一瞬で服が肌に張り付く。 そこに駐輪されている、泥に塗れたオフロードバイク。俺はシートに跨り、キックペダルを渾身の力で踏み込んだ。 硬い圧縮の手応えのあと、爆発的な排気音が、激しい雨音を切り裂いて轟いた。 スロットルを限界まで捻る。タイヤがぬかるんだ泥を豪快に跳ね上げ、鉄の塊が前方へと激しく弾け飛んだ。
前方を白く遮る大雨の中へ、俺は単身でバイクを加速させていった。




