知らない天井
「チっ….ここまでか」
海からの強風で削られ、蛇行した道をフルスロットルでここまで来た。
燃料はもう持たない。
背後には追っ手の車のヘッドライトが迫り、銃口が向けられる。
成瀬は迷わなかった。
アクセルを全開にし、バイクごと海へ飛び込んだ。
咆哮とともに、バイクが重力から解放された一瞬の静寂。
直後、成瀬の身体は水面に叩きつけられ、激しい痛みが全身を駆け抜けた。
バイクは海底へと沈んでいき、最後の力を振り絞って、わずかでも遠くへ離れるために水中を懸命に進む。
だが、痛みと海水が成瀬の肺を焼き、意識が遠のいていく。
「……死ぬ、かもな」
意識が途切れる寸前、目に映ったのは、水面に浮かぶ人影と、自分に向かって伸ばされた手だった。
***
目が覚めたとき、視界を支配していたのは、鈍くちらつく青白いライトだった。
消毒液の匂いと、緩く回るファンの音に、意識が引き戻される。
途端に全身を激痛が貫く。
包帯が巻かれ、左腕は感覚がなく、脇腹には太いチューブが刺さっている。
身体を動かそうとすると、激痛が走り、思わず呻き声を上げた。
「目覚めたか。しぶとい男だ」
重い瞼をこじ開けると、ベッドの周りを仕切っていたカーテンを男が開けた。見上げるほどの高身長だ。少なくとも190cm近くある。
40歳くらいか。
細いフレームの眼鏡に、この地区でよく着られているカーキ色の胸ポケット付きのコンバットシャツ、だが、ヒゲはなく、きれいに整えられたブラウンの髪、鼻は高く、彫りも深い。最近はむさ苦しい男達の中にいたから、久しく見ていないビジネスマンの雰囲気。だが、首元から見えているのはドッグタグのチェーンか?シャツの上からでも分かる引き締まった体躯。ということか軍人か?
男がベッドサイドへ一歩、近づくと、眼鏡の奥にある青い瞳と、一瞬視線がぶつかった。その目は、俺を心配しているのではない。呼吸、視線の動き、包帯の血の滲み具合を値踏みしている目だ。
「……ここは?」
「ウチの病院だ。バイクごと飛び込むとは、随分とアクションヒーローだったな。追ってた連中が諦めたので、ウチが拾った」
監視されていたのか?こいつは誰だ?どうして治療されている?いろんな疑問が一気に頭を過ぎる。だが一番大事なことが口を突く。
「クアン!……ッ!」
「ああ。お前が連れてた子供なら、我々が保護した。地元の施設に預けてある」
「……」
どこから見ていたんだ。
体の痛みも相まって、成瀬は男を睨みつけるしかできない。
だが男は淡々と話を続ける。
「複雑骨折、内臓破裂、失血死寸前。普通なら死んでるな。ここの医者が優秀で良かった。オペ治療と入院費、その他、諸々。……締めて、この金額だ」
男が歩み寄り、胸ポケットから折り畳まれた一枚の紙を取り出した。
そこには、目が覚めるような桁の請求書が表示されていた。
「……殺してくれ。そんな金ない」
「それは困るな。だから、返済プランを用意した」
男は、カーテンの向こう側に向かって、軽く指をふった。
「……返済?ってなんだ?」
「あぁ。ウチの社長が君に興味を持ったようだ」
男の合図で、別の男がベッドサイドに近づいた。
先程の男より大きい。オールバックの白髪。左目から口元掛けて大きな傷跡。目の動きを見ると義眼か?口元はご立派なヒゲ。
筋骨隆々過ぎて年齢がわからん。顔のシワからすると60歳ぐらいか?
だがこんな仕立ての良いスーツはこの辺りでは見かけない。
「なんだ、スペンサー。あぁ。死に損ないが起きたか」
「えぇ。ヴィー。現状報告は済みました。殺してほしいそうです」
ヴィーと呼ばれた男は俺の顔を覗き込み、じっと観察する。
俺も痛みに耐えながら、睨み返す。
やがて、ヴィーの口元のヒゲが微かに揺れ、俺から離れる。
「おい。死に損ない。お前の治療費はオレが建て替えた。働いて返せ。殺しても金に成らん」
突然のオファーに、顔がピクリと反応した。
詐欺か?この状態の俺に仕事をしろとはどういうことだ?
「……断ったら?」
ヴィーの眉毛がピクリと上がる。だが、すぐに口元がニヤリと笑う。
「子供はどこにいると思う?」
眉間に力が入る。
クアンは、あの組織で一番若く、暇があれば、日本の話をしてくれとせがんだ子供。
混乱の最中、突如、凶行に及び怯えた目をしたクアンを置いていくことができずに、組織から逃げるときに一緒に連れ出した。
「脅しか。ただの……悪党じゃねぇか……」
「預けられている施設は、ウチの管理下だ。あそこにいる限り保護してやろう。もちろんお前の態度次第だが」
俺はこの男たちを睨みつけるぐらいしかできない。
いまの俺の状態を考えれば、クアンが保護されているのは行幸だ。
「交渉成立だ。スペンサー、契約を進めろ」
ヴィーは俺の態度を肯定と捉えられたようだ。
スペンサーに目配せし、さっと、背を向けて去っていく。
強引すぎやしないか。あれを交渉というのか。
呆れたようにため息が出た。同時に緊張が溶け、痛みがぶり返してくる。
スペンサーと呼ばれた男は、こちらの意思とは関係なく契約書読み上げ、唯一まともに動く右手にペンを持たせた。
「書類にサインを」
「まだ、何もいってないんだが……」
「答えはどうせ変わらない。ウチの社長が興味を持ったなら、YES or YESだ」
釈然としないが、腕を上げるのも苦労する様で、どんな契約だろうと生存権は握られてるようなものだ。
俺は震える手でサインをした。
「歓迎しよう、Naruse Tatsuya? 日本人か。……もっとも、使い物になるまでだいぶ掛かりそうだが。ようこそ。ビクター・ストラテジック・サービス(VSS)へ。君もこれでPMCの傭兵だ」
成瀬達也、35歳。彼の、終わりのない返済の日々が幕を開けた。




