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「俺を置いて逝かないでくれ、リナリー」
「ゼノ様、泣かないでくださいまし。可愛いジュヌヴィエーヴのこと、よろしくお願い致しますね。わたくし亡き後は、どうか聖女様と……ゴフゥ!」
「リナリーィィィッ!!」
口を押さえた手巾に吐血した瞬間、前世で読んでいた連載中のネット小説を思い出した。1000話を超えて尚、完結の兆しが見えないその物語のタイトルは『勇者の娘は荒野を彷徨う』だ。
魔王を斃した勇者ゼノの娘ジュヌヴィエーヴ・ヴァンクールが、16歳で目覚めた強大な光魔法を武器に、艱難辛苦を乗り越え、花も嵐も踏み越えて、逆境に次ぐ逆境の中をひたむきに生きる物語。毎日更新。毎日酷い目に遭うヒロインに、学食でコーヒーをすすりつつスマホをスクロールしてハラハラドキドキ。3年以上もの間、無料で楽しませてくれてありがとうって思っていたわ。
おいコラ、作者。うちの娘をいつまで不遇のまま彷徨わせるつもりだ?
いや、待て。
わたくしは血塗れの手巾をベッドの下にペイッ、と投げ捨て、頭を巡らせる。現在娘は6歳。回想でしか語られないわたくしが生きているということは、物語はまだ始まっていない。潰せる筈だ。思い出せ……たしか、1話目は……。
「リナリー!リナリー!リナリィィ!」
ええい、やかましいわ、夫。こっちは娘の人生に関わる大事な考え事をしているというのに叫ぶな。気が散る。
「コホッ、冷たいお水をいただけます?」
「わ、わかった。ハイ、ゆっくり飲んで」
かつて氷雪の勇者として活躍した夫の手の中で、吸飲みの水がキンキンに冷える。勇者って普通は炎属性の熱い男が定石じゃないのかしら……まあ、この人、わたくしに向ける愛情は常に暑苦しいけれども。
冷たい水が喉を通って高熱の体に落ちると、少し頭がすっきりして、物語の冒頭文を思い出すことができた。
『わたくしの幸せは6歳の春で終わった。女神ピノの祝福祭の宵にお母様が天に召されてから、お父様の心は壊れてしまった』
王命と妻の遺言に従い聖女と再婚したものの、最愛の妻を喪ったショックから立ち直れず、反魂の珠を追い求め、娘を置いて失踪した勇者ゼノ。父親の去ったこの屋敷で、ジュヌヴィエーヴは継母セリーヌと義妹ロリーヌに虐げられて育つ。
夫!おまえ、ふざけんなよ。
「うらぁ!」
「リナリー?苦しいのかい?」
チッ、腹を殴ってやったが病人の力では勇者に毛先ほどもダメージを与えることができなかった。なんとゴリゴリの腹筋か。こっちの手が痛いわ。
「ええ、わたくしたちの愛の結晶であり宝であるジュヌヴィエーヴのことが心残りで苦しいのです。ゼノ様、くれぐれも、く・れ・ぐ・れ・も!娘を頼みますよ」
「いやだ、死なないでくれ。心残りなら、体もずっと生き残り続けてくれ!」
そんな無茶を言われても……女神ピノの祝福祭は明日なのよ。
この難病、実は聖女の神聖魔法で治せたことが後々発覚する。病魔と神聖魔法の波動が反発すると言って治療に失敗しては、泣きながら「たとえわたくしの寿命を縮めたとしてもリナリー様をお救いしたい……あうぅっ!」と倒れていた聖女。え?善い人だと思っていたのに、あれ、芝居だったの?邪魔なわたくしの死を待つために同じ難病で見殺しにされてきた人もいたのかと思うと、ゾッとするのだけれど。
物語の聖女は、神聖なる微笑みの裏にどす黒い妬み嫉みを渦巻かせ、勇者夫人を心底憎んでいる。だから、母親と瓜二つに成長していく娘をえげつなく虐げるのだ。
危なかった。同じ年頃の娘を持つママ友にならジュヌヴィエーヴを託せると思い、夫に聖女と再婚しろと言う寸前だったわ。
仕切り直そう。
「ゼノ様、わたくし亡き後は「いやだ」」
「いえ、だから再婚は「いやだいやだ」」
「話を聞こうよ「いやだいやだいやだ」」
「おい「俺はリナリーしかいらない!」」
「娘はいるだろうが、ワレェ!」
あらいやだ、つい前世の口の悪さが出てしまったわ。慌ててわたくしの背中を摩っている夫よ、ワレはおまえ・汝への攻撃的罵倒表現であって、別にえずいたわけではない。でもちょっと息が楽になるので引き続き摩っていろ。
さて、どうしたものか。
何を言ってもイヤイヤ期の子どもみたいに拒絶して「死神なんかに渡さない。リナリーは俺のだ!」と首をぶん振りエグエグ泣きながらわたくしの背中を摩っている夫の胸に額を預けて、ため息を吐く。
わたくしは勇者の褒賞嫁である。




