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何も失わないために

 私はずっと一人だった。

 お母さんの記憶も、お父さんの記憶もない。

 最初の記憶は、この真っ暗な場所で、1人で過ごす様子だった。

 いつもいつも寂しくて、悲しくて、涙が止まらなかった。

 でも泣いてばかりもいられなかった。涙を流しても誰も許してくれない。

 それどころか私が泣くことを望んでいるようだった。

 私が泣けば泣くほど、周りの大人たちは笑っていた。

 何度思っただろう、死にたいと。体の痛みが、心の痛みが私をいじめる。

 私が死んで、何も感じないようになれば、もう苦しまなくて済む。泣かないで済む。

 誰にもいじめられないで済む。もう辛い思いをしなくてもいいんだ。

 だけど、私はそれすらも出来なかった。

 もう苦しまなくてもいいんだって思っても、これからさき同じ事ばかり続くって分かってても、死ぬのは怖かった。

 なんでだろう? 死にたいって思っても、死にたくないって思っちゃう。

 死にたい。死にたくない。死にたい。死にたくない。

 矛盾した考えが、私をさらに苦しめた。

 そんなある日、周りの大人たちが私に動物をくれた。

 最初はなんなんだろうと思った。私と違って言葉をしゃべれない。私と違って立てない。

 私と違って水を操ることも出来ない。

 何もかも私とは違う、どれだけ考えても理解できないものだった。

 だけど私は、ここに来て初めて笑った。

 よく分からなかったけど、動物を撫でているのは楽しかった。

 話しかけるとワンって言ってくれることが、とっても嬉しかった。

 何を言っているのかもわからないし、何を考えているのかもわからない。

 喜んでいるのかもわからないし、悲しんでいるのかもわからない。

 だけど私は、楽しかった。

 こんな日が、ずっと続けばいいなって、そう願った。

 だけど、続かなかった。

 いつも通りおしゃべりしてただけなのに、いつも通り頭を撫でてあげただけなのに、それはいきなり私の腕に噛みついてきた。

 とっても痛くて、とっても苦しくて、とっても悲しかった。

 気付いたら、私の目の前には血だらけになった、何かがあった。

 その時からだ。今まで感じていた痛みが消えた。苦しみが消えた。悲しみが消えた。

 何をしても、何をされても何も感じなかった。

 周りの大人たちが焦ったように前と同じ動物を与えても、何も感じなかった。

 私は、今なら死ねると思った。

 傍においてあるナイフを使えば、私は私を殺せる。覚えさせられたからだ。

 人は胸を刺されると、死ぬって。頭を刺されたら、死ぬって。

 いつかお前がやることだって言われて覚えたから、知ってる。

 うん、その人の言う通りだった。

 私はこうやって死ぬために、人の殺し方を覚えさせられたんだ。

 そう思ってたのに、私は死ねなかった。

 いつもと違う大人の人が、私の事を涙を流しながら見ていた。

 私を見る大人は、笑っているか、焦っているかだったのに。

 初めて見た顔に、私は手に持っていたナイフを落とした。

 その大人の女の人は、自分のことをレイって言ってた。

 いろんな話をしてくれた。外はとっても明るくて、色んな楽しいものがあるって。

 私は死にたいとは思わなくなった。外がどんな世界なのか想像していると、不思議と死のうとは思わなかった。何も感じないままなのに、どうしてだろうと思った。

 分からないけど、もう辛くない。私はもう、何も感じないから。

 何日かしたら、レイが私のいる場所に近づいてきた。

 いつもは遠くから言葉を交わすだけだったのに。

 一体今度は何をさせられるんだろうと思った。

 でも大丈夫、どんなつらいことでも耐えられるから。殴られても、斬られても、殺しても、私はもう、何も感じない。

 どんなことが起きても、私には関係ない。そう思ってた。

 レイが近づくと急にいつも以上に真っ暗になって、体が浮いた。

 そうしたら、私は柔らかい何かに向かって落ちて行った。

 中はひどくくさい。でも、動物を殺した時ほどのにおいのきつさはない。

 居心地は悪いけど、それはいつものことだ。このままジッとしてよう。

 そう思っていたら、私の胸を何かが触ってきた。


「ひゃっ!」


 私は大きな声を出した。自分でも驚いた。

 もう殴られても何をされても、何も感じないはずだったのに。ちょっと触られただけで声を出すなんて、おかしいと思った。

 どうしてだろうと考えていると、今度は私のお腹を掴んできた。

 私を掴んだ何かが、力を込めて私の事を引き上げた。

 引き上げられたときに見た景色は、私が見た事もないぐらい、明るかった。


「……女の子?」


 目の前の人が、不思議そうな顔でこちらを見ている。見た事もない人だ。

 私は特に考えることもなく、反射的に口を動かした。


「……あなた……だれ?」


 久しぶりにしゃべったから、うまく言葉を出せなかった。

 ちゃんと聞き取れなかったかなと思っていると、目の前の人は困ったようにこう言った。


「えっと、アキト、です」


 男の人が……アキトが名前を言うと、今度は私の名前を聞いてきた。

 私の名前は……たしか、アイだった気がする。

 アキトに私の名前を言うと、何か考えるような顔をして、私にたくさん質問してきた。

 どうして私の事を聞いてくるんだろうと思ったけど、私に拒否権はない。

 今までそうして来たのだから、アキトの質問にも出来るだけ答える。

 それからいろいろ話をすると、アキトは私の服をめくってきた。

 私の傷を見るとアキトは、私の腕を思いっきり握ってきた。


「アキト……痛いよ……」


 私がそう言うと、アキトは申し訳なさそうに手を離してくれた。

 痛いと言った時、こうして手を離してもらえたのは初めてだ。

 だけど、私は何で痛いなんて言ったんだろう? 何も感じてないのに。

 それからアキトに、痛いのはいやか聞かれた。

 昔はいやだった。だけど今は、痛いも苦しいも悲しいも、感じることが出来ない。

 私は、分からないと言うしかなかった。


「……そうか」


 アキトは悲しそうな顔でそう言った。私は何か、悲しませることを言ったんだろうか?


「アイ、家に帰れないなら、俺んちに来るか?」


 そう聞かれても、私には何もわからない。今まで何も決めたことがないし、決めさせてくれたことはなかった。知っていることは言えるけど、決めることは出来ない。


「じゃあ、俺の家に来い。命令だ。それでいいな」


 そう言われれば、私は頷くしかなかった。

 だけど、不思議だな。命令されてるのに、うれしい。


「…………うん」


 私が返事をすると、アキトは右手を私の方に伸ばしてきた。

 何をしてるんだろうと首をかしげていると、


「手を繋ぐんだよ。ほら」


 アキトは私の手を持って、歩き始めた。

 アキトの手は、おっきくてあたたかくて、うれしかった。


 それからの生活は、私にとって驚きの連続だった。

 レイの言った通り、外は明るくて、楽しいものであふれていた。

 私はいつの間にか、色んなことを楽しいと思うようになった。

 だけどケガをしたら痛いと思うようになったし、アキトがいない時は寂しいと思うようになった。それでも、私は幸せだった。アキトと一緒にいれる時間があるだけで、それだけで私は満足だった。

 私は動物と遊んでいた時と同じように、またこう願ってしまった。

 こんな日が、ずっと続けばいいなって。

 だけど、また続いてくれなかった。

 アキトのお家にいたら、黒い服を着た人たちがやってきて、また竜王機関に連れていかれそうになったからだ。だけど私は抵抗した。

 あんな生活に戻りたくない。アキトとずっと一緒にいたい。

 そう思って、黒い服の人たちを叩いたり蹴ったり、逆らおうとした。

 だけど、私が行かなきゃアキトが殺されるって言われて、逆らうことも出来なくなった。

 また、戻るんだ。ううん、もう平気。初めは痛いけど、きっとすぐに何も感じなくなる。

 アキトのことを忘れれば、私はまた元に戻る。だけど、私は忘れることが出来なかった。

 私が連れていかれた場所に、アキトはいた。私は部屋の前でアキトの声を聞いているだけで、十分だった。最後にアキトの声が聞けて、それでもういいと思った。

 けど、その時に絶対に忘れられない言葉をアキトが言ってくれた。

 私の事が好きだって。

 うれしかった。私はアキトのことを忘れられない。だから何とかしてこんなところから出て行きたいって、そう思った。

 でも部屋に入ると、アキトはすぐに撃たれて、とっても苦しそうに床に寝転がった。

 言われなくても分かった、これが私のせいだって。

 私がいるからアキトが傷つく。私が望めば、何かが壊れる。

 私は死ぬまで一人でい続けなければいけない存在なんだ。

 でも最後に、これだけは言いたい。


「アキト……わたしも、大好きだよ」


 それが私とアキトの、最後の会話。

 これでいいんだ。私が望めばアキトが殺される。

 また、あの時の生活に戻るだけだ。

 でも今度は、もっと苦しかった。

 アキトに買ってもらった服を、アキトが私のだって言ってくれた物を、壊されるたびに殴られるよりもつらい気持ちになる。

 昔以上に涙があふれる。もう何も感じたくないのに、私の心は痛みを忘れてくれない。

 もう、死んでしまいたい。

 だけどそれは出来ない。もしも私がそんなことをすれば、アキトが殺されるって言ってた。それだけはいやだ。

 もう二度と会えないんだとしても、アキトにはいつも元気でいてほしい。

 たとえ私の事を覚えていなくても、生きてくれているだけでいい。

 それで……よかったのに。

 これ以上なにも望んじゃいけない。望めば、きっとまたなにかが壊れる。

 もう、なにも失いたくない。

 もう、なにもほしくない。

 なにかを得たら、また失うから。

 だから、もう……。


「アイ、迎えに来たぞ」


 その手を差し伸べないで!

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