1話
過去作のリメイクです
いつの間にか、教室にも家にも、落ち着ける場所がどこにもなくなっていた。
クラスでは、誰とも目を合わせられない。
最初から、誰も話しかけてこなかったわけじゃない。隣の席の子に声をかけられたこともあるし、昼休みに一緒に食べようと誘われたことだってあった。
でも、何を話せばいいのか分からなかった。声をかけられても、返すのは「うん」とか「別に」とか、それくらい。誘われても適当な理由をつけて断っているうちに、最初に声をかけてくれた子たちも、少しずつ離れていった。
別に、それでいいと思っていた。どうせ私なんかと話しても楽しくないし、私がいなくても誰も困らない。
授業中の教室には、教科書をめくる音がやけに大きく聞こえた。
――邪魔。
――なんであいつが。
――いなくなればいいのに。
聞こえるように言われた悪口も、すれ違いざまの笑い声も、ずっと耳の奥に残っている。今はもう、誰も何も言ってこない。それでも誰かが笑っていると、自分のことを笑われている気がする。近くで小声で話していれば、また自分の悪口なんじゃないかと思ってしまう。
傷つくくらいなら、最初から近づかなければいい。そうしているうちに、本当に誰とも話さなくなった。
家でも似たようなものだった。いや、たぶん、こっちの方がずっと前からそうだった。
義兄は優秀で、完璧で、そのまま将来が約束されているような人間だった。義両親は私と義兄を比べることすらしない。
そもそも、私を見ていない。
呼ばれることも、一緒に出かけることもない。期待もされないし、叱られることもない。私の部屋があって、私はそこにいるだけだった。
何日か、連絡もせずに帰らなかったことがある。怒られるか、心配されるか。そんな小さな反抗のつもりだった。
でも、戻ったときに義父に言われたのは、一言だけだった。
「帰ってきたのか」
怒っているわけでも、安心したわけでもない。帰ってきたことを確認しただけの声だった。
――ああ、そういうことか。
あの人たちにとって、私は家族じゃない。引き取られて、同じ家に住んでいるだけなんだ。
それから、学校の空き教室に入り浸るようになった。
机も椅子もそのまま残っているのに、誰も来ない場所。壁際の席に座って目を閉じると、誰もいないことに少しだけほっとした。
誰も来なければいいと思うのに、誰かに見つかればいいとも思ってしまう。矛盾していることくらい、自分でも分かっていた。
***
四月の終わり。
その日、空き教室のドアが少しだけ開いた。
「あら? こんなところで何してるの?」
顔を上げると、入口に見覚えのない人が立っていた。黒いパンツスーツに、真っ直ぐな黒髪。表情は明るくて、私とは別の世界の住人みたいに見えた。
だから、何も答えなかった。
どうせ先生だ。何をしているのか聞いて、教室へ戻れと言う。話を聞くふりをして、最後には「みんなと仲良くしなさい」とでも言うんだろう。
けれど、先生は何も言わなかった。少しだけ私を見てから、入口近くの机に腰掛ける。
「……まあ、ひとりでいられる場所って、必要だよね」
独り言みたいにそれだけ言った。私は何も答えなかったけれど、先生もそれ以上は話しかけてこない。
しばらく同じ教室にいたあと、先生は立ち上がった。
「じゃあ、またね」
そのまま出ていった。
変な人。それが、最初の印象だった。
次の日も、私は同じ場所にいた。
またドアが開く。
「やっぱりいた」
昨日と同じ人だった。
「みずほさん、だよね。名簿で見た」
先生は昨日と同じ席に腰掛けた。
勝手に名前を調べられた。なのに、なぜか嫌じゃなかった。
先生は、どうしてここにいるのかも、クラスで何があったのかも、家で何かあったのかも聞いてこない。私も話さず、ただ同じ教室にいた。
「じゃ、またね」
しばらくして先生は出ていった。
次の日も、その次の日も来た。
私は相変わらず、素っ気ない返事しかできなかった。
「今日、暑いね」
「……別に」
「そっか」
それで終わり。機嫌を取ろうともしないし、怒りもしない。それなのに次の日になると、また来た。
なんで来るんだろう。
少しだけ気になった。
それから、先生は毎日のように空き教室へやってきた。話す日もあれば、ほとんど何も話さない日もあった。
「夜、寝れてる?」
「……まあ」
「ごはんは?」
「普通」
「そっか」
最初は、それくらいだった。
少しずつ、私の返事は長くなっていった。
「昨日は?」
「……あんまり寝てない」
「そっか」
それだけで、どうして、と聞かれなかった。
だから次の日、私の方から少しだけ話した。家のことや学校のことを、全部ではなく、言ってもいいと思えたことだけ少しずつ。
先生は否定しなかった。こうした方がいいとも、考えすぎだとも、みんな悪気はないとも言わず、ただ聞いていた。
ときどき、相槌までの間が妙に長い。考えているのか、次の言葉を待っているのか、ただ私を見ているだけなのかは分からない。でも、その沈黙は嫌じゃなかった。
何も言わなくても、ここにいていいと言われている気がした。
気づけば、空き教室へ向かいながら、今日は先生が来るだろうかと考えるようになっていた。
「またね」
帰り際の言葉はいつも同じで、それを聞くたび、明日も来てくれるんだと思えた。
最初に声をかけてくれた子たちは、私がうまく応えられないうちに離れていった。それは当たり前のことで、自分だって逆の立場ならそうすると思う。
でも、先生は違った。
何も話せなくても、ろくに返事ができなくても、目を合わせられなくても、次の日になるとまたドアを開けてくれた。
その頃には、私は先生に会うために学校へ行くようになっていた。
五月の終わり。
風の強い日だった。
「寒いね、手。ほら」
先生が、私の指先を両手で包んだ。
「あ……」
反射的に手を引きそうになった。
でも、温かかった。
「冷たいねえ」
先生は笑っている。
振りほどこうと思えばできたのに、しなかった。むしろ、その手が離れていく方が嫌だった。
人に触れられるなんて、いつ以来だろう。思い出せなかった。
しばらくして先生の手が離れると、急に指先が寒くなった気がした。
それから、先生はときどき自然に私へ触れるようになった。
「うん、頑張ったね」
そう言って、頭を撫でてくれる。
「今日は顔色悪いね。大丈夫?」
おでこに手を当てられる。
最初は、そのたびに体が強張った。それでも、いつからか、今日は触れてくれるだろうかと思うようになっていた。
そんな自分が少し恥ずかしかった。
六月の後半になると、先生が忙しくなったらしく、会えない日が増えた。それまでは毎日のように来てくれていたのに、ドアが開かないまま時間だけが過ぎていく。
廊下で足音がするたびに顔を上げる。でも、そのまま通り過ぎていく。それを何度も繰り返した。
おかしい。
先生と出会う前は、誰も来ないからこの部屋を選んだはずなのに、今は先生が来ないことが寂しい。
次の日、ドアが開いた。
「ごめんね。昨日、来られなくて」
「……別に」
いつもの癖でそう答えると、先生は「そっか」と笑って、いつもの席に座った。
そう答えたことを、すぐに後悔した。
違う。本当は、別に、じゃなかった。来てほしかったし、待っていた。でも、それを言ったら困らせる気がして、言えなかった。
七月。
その日、ドアが開いた瞬間、私は自分でも驚くくらい嬉しくなった。
「先生」
「ん?」
「今日も来てくれてありがとう」
初めて、自分からそんなことを言った。
先生は少し驚いた顔をして、それから目を細めた。
「ううん。来たいから来てるだけ。私も、みずほさんに会えると嬉しいよ」
胸の奥が、ドクンと大きく跳ねた。
――会えると嬉しい。
その言葉が、ずっと頭に残った。私と会えると先生も嬉しい。そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
誰かに会いたいと思ってもらえる。私がここにいることを喜んでもらえる。そんなこと、今までなかった。
先生に触れられるたび、嬉しかった。前までは、それだけで満足だったのに、いつの間にか、手を離さないでほしいと思うようになっていた。
先生がほかの生徒と話しているところを見かけると、なんとなく落ち着かなかった。先生なんだから私以外の生徒と話すのは当たり前で、そんなことは分かっている。
それでも嫌だった。
空き教室に来てくれる先生は、私だけの先生みたいに思えていたから。
先生が帰ったあとの教室で、触れられたときのぬくもりを思い出して、ひとりで泣いた。自分でも、どうして泣いているのか分からなかった。寂しいのか、嬉しいのか、もっと一緒にいたかったのか。
たぶん、全部だった。
それからしばらくして、私の誕生日が来た。
先生は、小さなブレスレットをくれた。
「はい。誕生日おめでとう」
「……私に?」
「ほかに誰がいるの」
先生が笑う。
どうしようもなく嬉しかった。家では、今年も誰にも誕生日のことを言われなかった。
「手、出して」
言われるままに差し出すと、先生の指が私の手首にブレスレットを巻いていく。指先が肌に触れたのはほんの一瞬なのに、それだけで胸がいっぱいになった。
「似合うよ」
「……先生、わたし……」
言いかけて、飲み込む。
「うん?」
「ううん。なんでもない……」
言えなかった。
先生が来ないと寂しい。先生が笑ってくれると嬉しい。触れてほしい。もっと私を見てほしい。
もっと私だけを見てほしい。
――わたし、先生が好きなんだ。




