第三十四話 本当の番になった夜
「朔夜……」
「……出ていけ」
その拒絶は、あまりに冷たく、一切の感情が削ぎ落とされていた。
本来ならば、彼の言う通り、一人になる時間が必要なのかもしれない。
けれど、明かりもつけない暗闇の中、独りで座っているこの人を。
今だけは、どうしても独りきりにさせたくなかった。
「……出ていきません」
「出て行けと言っている!!!」
「絶対に出て行かないです!!!」
「なぜだ!なぜっ、お前は……これほどまでに俺の思い通りにならない……!」
激昂に近いその叫びに、朔夜へと歩み寄る足が止まる。
掠れたその声は、鋭い拒絶であるはずなのに、どこか縋るような切実な願いのようにも聞こえた。
彼が何に苦しんでいるのか。
何を、そこまで悲しんでいるのか。
私は、それをちゃんと知りたい。
表面上だけではなく、剥き出しの彼に触れたいと思った。
一歩、また一歩。
初めて出会った時のように、慎重に近付いていく。
手が届くほどの距離になると、強引に腕を掴まれ、視界が大きく傾いた。
手首を掴まれながら、背中を支えられ、至近距離で見下ろされる。
「……お前は、俺が恐ろしくはないのか?」
恐ろしい……?
初めて、狂おしいほど美しく、鬼を狩る姿を見た時。
山のように積み上がった鬼の骸の上に立つ彼を見た時。
私を助けるために、鬼化した仲間を迷わず斬り捨てた時。
彼の過去を聞いた時でさえ、私はこの人自身に対して恐怖という感情を抱いたことなど、一度もなかった。
怖いと思うより先に、痛いと思った。
この人が、どれほどのものを抱えてここまで来たのか。
その重さの端に触れた気がして、胸が苦しくなるばかりだった。
「……そんなこと、思いません」
「俺は、鬼だけではない。鬼化を免れない仲間すら、この手で幾人も斬ってきた」
「……はい」
「だが……今日初めて、何の躊躇いもなく、ただの人間を斬り伏せたいと願った」
暗い部屋で、朔夜の瞳だけが妖しく光って見えた。
その鋭い光が、今は脆く、危うく揺れている。
「お前を失う。……そのきっかけを作ったあの女を、八つ裂きにしても足りないほど許せないと思った。その暗い渇望を、俺自身、抑え込むことができなかった」
最強と謳われ、人知を超えた力を振るうはずのその肩が、今はとても小さく、震えているように見える。
「今もそうだ。お前が目の前にいるから、かろうじて正気を繋ぎ止めているに過ぎない」
この人の強さも、弱さも、そして誰にも見せない醜いまでの独占欲も。
すべてが今の私には、愛しくて、堪らなくなる。
人を殺したいほどの怒りを、綺麗なものだとは言えない。
けれど、その怒りの奥にあるものが、私を失いたくないという恐怖なのだと分かってしまうから。
どうしても、彼のそばにいたくて……
「恐らく、お前が止めなかったら、俺は——」
そこから先は、もう言葉にならない。
強く掴まれていた手首が、ふっと解放される。
項垂れる朔夜の顔に、手を伸ばそうとして一瞬躊躇う。
どうしたら、この人を救えるのだろう。
言葉は上手く出てこない。
けれど、どうしても彼を抱きしめたい。
私は伸ばした手で、彼の頭を優しく抱き寄せた。
「……俺は、化物だ……!」
「そんな哀しい言葉で、自分を傷付けないでください……」
一度身体を勢いよく離されると、今度は両肩を強く掴まれた。
指先が食い込むほどの強さだった。
けれど、それさえも私を傷つけるためではなく、自分から私を引き剥がすための力のように感じた。
「あんなことがあった直後でもっ!……俺はお前の血を、吸いたくて、吸いたくて堪らなくなる……っ!!」
言い切る前に、私は自ら襟元を広げるようにして、首筋を晒した。
そして、もう一度彼を強く抱き寄せる。
「朔夜が化物なら、私は……家族を捨てた私は、鬼以下です」
「っ……」
「私は、ずっと朔夜の側にいます。何が起きても、絶対に離れません」
朔夜の熱い吐息が、露出した首筋をかすめる。
私を抱き締める腕が、強くなる。
唇が少しずつ開き、熱い舌が首筋の動脈をなぞる感触に、背筋を甘い戦慄が駆け抜けた。
次に来るのが何か、私はもう、すべてを分かって受け入れている。
「っ……!」
「……っ、ん」
ほんの一瞬だけ、鋭い痛みが首筋を走った。
けれど、それはすぐ後に、全身を痺れさせるような甘美な痛熱へと変わっていく。
己の生命が彼へと流れ込み、すべてを明け渡していく感覚が全身を包み込む。
離れないように、離さないように。
背中に回した手で、彼の隊服を強く掴み、引き寄せた。
「はっ……、ぁ……」
「……あ、っ」
引き抜かれた牙の痕から、一筋の血が流れる。
それを惜しむように、朔夜は優しく、深く、熱を持って舐めとった。
その濃密な感触に、身体が激しく震える。
痛くて、苦しくて、それなのに離れたくない。
彼が私を求めている。
私の血で、私の存在で、かろうじて正気に踏みとどまっている。
そう思うだけで、胸の奥が泣きたくなるほど熱くなった。
ゆっくりと顔を上げると、至近距離で彼と視線が重なった。
今まで見たどの視線よりも、烈火のような熱と、愛執を孕んだその眼差しに息を呑む。
「……ここも、ほしい」
掠れた声で囁かれながら、熱い親指で唇をなぞられる。
「梓」
初めて、契約の対象ではなく、一人の女として名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。
ただの番ではなく、役目でもなく、私自身を呼ばれた気がした。
「……構いません。全部、貴方のものです」
「それは……俺が、お前が番だからか?」
番だから?
始まりは、確かにそうだったのかもしれない。
命を救われ、命を繋ぐために血を差し出した。
何も知らないまま、番になった。
けれど、私にとって、もうそんな契約という形だけで、彼との関係を片付けることはできなくなっている。
朔夜の痛みと孤独を知った。
不器用な優しさも、息が苦しくなるほどの執着も知ってしまった。
それでも私は、離れたいとは思わなかった。
「違います。誰に決められたことでもない。……私の心は、私自身が決めました」
「梓っ……!」
「!……っ、んん」
荒々しく、貪るように唇を奪われる。
けれど、触れる先は驚くほど優しく、そして切ないほどに熱い。
逃げ場を塞ぐような腕の強さとは裏腹に、唇は何度も確かめるように触れてくる。
本当に拒まないのか。
本当に、ここにいてくれるのか。
そう尋ねられているようで、私は必死に彼の背へ腕を回した。
「梓っ、好きだっ……!」
「……はい……っ」
「好きだ。ずっと、ずっと……俺の、俺だけの……!」
何度も、何度も。
朔夜の紡ぐ熱い言葉に、溺れるようにして応える。
好きだと、まだ上手く声にはできなかった。
けれど、抱きしめ返す腕に、唇を重ねる呼吸に、彼を受け止めるすべてに、その答えを込める。
永い絶望と孤独の果てに。
この夜、私はようやく、本当の意味でこの人の番になれたのだと、確かに実感していた。
ブックマーク、★★★★★、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




