第二十九話 留守宅に忍ぶ悪意
「そんな、不安そうな顔をするな」
「……はい」
「今回の任務は、そう遠方ではない。明日の夜には必ず戻る。……分かったな」
昨晩、彼の壮絶な過去を聞いてしまったせいだろうか。
前回の討伐戦に同行した数日間を思えば、たった一晩の不在など、なんてことはないはずなのに。
今回も連れて行ってほしい。
置いていかないでほしい。
喉元まで出かかったその言葉を、必死に飲み込む。
朔夜が何も言わないということは、それが一番安全で合理的だからだ。
私を連れていくことが、今の彼にとって守るべき『弱点』を増やすことになるのだと、頭では痛いほど理解している。
余計な言葉で彼を煩わせないように。
聞き分けのよい、従順なふりをして、私はただ、唇を噛み締めた。
「……見送りの言葉は、言ってくれないのか?」
「え?」
意外そうな声に、私は驚いて顔を上げた。
かつての彼は、見送りも出迎えも、そんなものは不要だと言っていたのに。
「……行ってらっしゃい、朔夜」
なるべく、いつもの笑顔で。
「安全な任務」だと彼は言った。
けれど、彼の世界はとてもじゃないけれど安全とは言えない。
この別れが、彼と交わす最後の言葉にならないなんて保証は、どこにもないのだから。
私の言葉を聞いて、朔夜の表情が、ふっと和らいだ。
「……ああ、行ってくる」
不意に顔が近づいたと思う間もなく、吐息とともに、耳元でその約束が告げられた。
静かで、けれど確かに私へ向けられた声。
私の願望なのか、少しだけ甘く感じて、それだけで、胸の奥が痛いほど温かくなる。
次に声をかけるときは、心からの『おかえりなさい』でありたい。
そう強く祈りながら、門の向こうへと消えていく彼の背中をいつまでも、いつまでも見送っていた。
朔夜がいない屋敷は、静かで、広く感じる。
一人になると、何をすればいいのか途端に分からなくなってしまう。
廊下を渡る風の音も、遠くで働く使用人たちの気配も、いつもよりずっと頼りなく聞こえた。
手持ち無沙汰に耐えかねて、朔夜に買い与えられた着物を部屋に広げ整理を始める。
山のように積まれた、まだ一度も袖を通していない美しい服の数々。
指先で布地をなぞるたび、呉服屋で彼に「似合っている」と言われた時の声が蘇る。
明日、この中のどれかを着て出迎えたら、彼は一体どんな顔をするだろう。
少しでも、彼の疲れを癒せるような、華やかなものがいいだろうか。
それとも、落ち着いた色の方がいいのだろうか。
そんな他愛のないことを考えながら、丁寧に折り目に沿って着物を畳んでいく。
考えることがあるだけで、少しだけ不安が紛れた。
「梓様。……急なお客様がお見えですが、いかがいたしましょうか」
「お客様……ですか?」
使用人の言葉に手を止めた。
この屋敷を訪ねてくる心当たりなど、私には一人もいない。
訝しみながらも、お客様が通されたという応接間へと向かった。
そこに座っていたのは、あの——。
「西園寺、さん……」
私の姿を確認すると、彼女の喉が僅かに、緊張したように動く。
いつものように背筋は伸びている。
けれど、目元にはどこか落ち着きがなく、膝の上で握られた指先が強張る。
彼女が私に、何の用事があるというのだろう。
「あの、今日はどういったご用件でしょうか?」
問いかけても、彼女は膝の上で拳を握りしめ、視線を落としたまま何も答えない。
遠征の夜、私の荷物が無残に荒らされていた光景が、ふと脳裏を過る。
あんなにも朔夜の番になることに固執していた彼女が、彼の不在を狙って何かを企んでいると……信じたくはなかった。
けれど、信じたいと思う気持ちだけで、警戒を解くほどお人好しになることもできない。
目の前に出された湯呑みから、お茶の香りが立ち上る。
その匂いに、私は少しだけ逆立った心を落ち着かせようとした。
「——あの、西園寺さん……」
「あ、あの!か、厠をお借りしてもよろしいでしょうか!?」
再度用件を尋ねようとしたのを遮り、彼女は必要以上に大きな声を張り上げた。
あまりに唐突で、私は瞬きをする。
「え、あ……はい。少し構造が複雑ですので、ご案内しますね」
いつもの、自信に満ち溢れた様子とは明らかに違う。
会うたびに投げつけられていた、刃のような言葉は一つも出てこない。
視線は泳ぎ、何かに怯え、焦っているような、その異様な様子に違和感を覚えながらも、私は彼女を案内した。
「……あちらです。ここで待っていますね」
「あの……お、遅くなるかもしれませんので、先に戻っていただいても構いません!」
「いえ、広い屋敷ですから。迷うといけませんし、待っていますよ」
やはり、様子がおかしい。
上手く説明はできないけれど、胸の奥で小さな警鐘が鳴った。
けれど、彼女はもう戸の向こうへ消えている。
しばらく、廊下には静けさだけが残った。
遠くで庭木が風に揺れる音がする。
私は戸の前に立ったまま、何度も落ち着かない呼吸を繰り返す。
彼女が戸の向こうへ消えて、少し経った時。
「梓様!度々申し訳ありません、あの……梓様の、妹様が……」
「鈴が!?」
西園寺さんの対応を使用人に任せ、鈴が案内されたという自分の部屋へ急ぐ。
胸を突く嫌な予感を振り払うように障子を開けると、私はその惨状に愕然とし、その場に立ち尽くした。
「鈴、何をしているの……っ!?」
部屋の中は、嵐が過ぎ去った後のようだった。
つい今しがたまで、私が丁寧に畳んでいた着物の数々が、無残に広げられ、床一面に散らばっている。
帯は乱暴に引き出され、袖は踏まれ、薄紙に包んでいたはずの小物まで投げ出されていた。
「あ、姉さん。待たせるなんて酷いじゃない。これ、全部姉さんのなの?こんなにあるんだから、私に少しぐらい分けてくれたっていいじゃない」
鈴は悪びれる様子もなく、私の私物を物色していた。
その手つきは遠慮の欠片もなく、店先の商品を品定めしているかのよう。
「何を言っているの!?それは、朔夜が……」
「へー。あの方、朔夜、様って言うのね」
鈴は一度も袖を通していない訪問着を勝手に羽織ると、今度は鏡台の上に並べていた簪まで弄び始めた。
繊細な飾りの先が、彼女の指の間で危うく揺れる。
「見てわからない?私なんて、あの集落から逃げ出したあの日から、一度だって着替えられていないのよ。姉さんだけこんな贅沢、不公平じゃない?」
「その着物を返しなさい。……簪も、触らないで」
「はぁ!?」
私は奪い取るようにして、鏡台の簪や櫛をすべて引き出しに仕舞い込む。
どれも朔夜が、私のためにと買ってくれた大切な品。
ほとんど一度も使えていないものばかりだけど、自分以外の誰かに触れられたくない。
ましてや、奪うつもりで手を伸ばしてくる相手になど。
「……本当、男ってなんで姉さんみたいな女ばかり選ぶのかしら」
「何が言いたいの」
「鬼狩りの番ですっけ?笑わせないで。もしあの日、集落に取り残されたのが私だったら——」
鈴は毛先をくるくると弄びながら、笑みを浮かべて言葉を繋ぐ。
「今ここに座って、贅沢三昧していたのは私だったんじゃない?運がよかっただけじゃないの、姉さんは」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
あの絶望的な夜、置いていかれたのは私だ。
もしあの時、朔夜に助けてもらわなかったら、ここにいるどころか、私はとっくに鬼に殺されていた。
それを、運がよかっただけだなんて。
胸の奥で、冷たいものがゆっくりと形を変えていく。
「だからね、今からでも私がその番とやらになってあげてもいいと思っているの」
「……そんな馬鹿なことを言うために、わざわざここへ来たの?」
「やだ、姉さん怒ったの?怖い顔」
私を逆なでするように、鈴はくすくすと喉を鳴らして笑う。
彼女のこういう身勝手な振る舞いは、以前からずっとそう。
今までは家族だからと、ただ静かに流せていたはずなのに。
今は、できない。
朔夜が与えてくれたものまで、黙って踏みにじられるのは嫌だった。
「もちろん、そんな話だけで終わるわけないじゃない」
「……じゃあ、何?」
「永太と琴に、会いたいと思わない?」
「……え?」
鈴の口から出るとは思っていなかった名前に、心臓が跳ねた。
「どういうこと……?二人が見つかったの?無事なの!?」
「さあ、どうだと思う?」
「誤魔化さないで!どこにいるのか教えなさい!!」
二人が生きているなら、父や継母、そして鈴に任せておくなんて到底できない。
今すぐにでも駆けつけて、この腕で抱きしめてあげたかった。
琴は泣いていないだろうか。
永太は、無理に強がっていないだろうか。
あの日からずっと抱えていた不安が、喉元までせり上がってくる。
「だからぁ、それは姉さんの態度次第だって言ってるのよ」
「どういう意味?」
「も~。察しが悪いわねぇ。朔夜様と、永太と琴……姉さんはどっちを選ぶの?って聞いてるの」
「選ぶ、ですって……?」
「そう!朔夜様の番の座を私に譲ってくれるなら、二人を返してあげてもいいわよ。でも……」
嘘よ、やめて。
幼い二人を、あんなに私に懐いていた子たちを、そんな取引の道具にしないで。
胸の奥で叫んでいるのに、声にならない。
指先が冷えて、感覚が遠のいていく。
「譲ってくれないなら、一生二人に会わせない。姉さんに捨てられたって言い聞かせてやるわ」
「……父さんも、母さんも、鈴と同じ考えなの?」
「当たり前じゃない、家族なんですもの!」
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