2話 祝福
屋敷は燃えていた。
火の精霊たちがきゃあきゃあ、と歓喜に満ちた声をあげているのが、俺でもわかる。
その声は喜びや幸せというよりは、古びた酒屋のギャンブルを思わせる歓喜だった。
狂ったような幸せ。溺れるほどの快楽。有り余る熱量。
俺は屋敷を抜け出した。すると今度は雪だ。
背中は刺さるように熱くて暑くて痛い。それでも前へ進むごとに、今度はかゆくなるほど足や指先が冷えていく。
視界の端で、雪の精霊が雪遊びをしているのが見えた。
とにかく走った。どこへ行けばいいかなんて、わからないけれど。
前へ前へ。進めばどこかに辿りつけると信じて。それしかなかったから。
ここら一帯は家がない。
すべてが森だ。貴族は馬車も召使もたくさんいるので、町と離れていても不自由ないのだ。
鬱蒼とした森の中を走った。凍えてしまう前に。斬った箇所に雪風がしみこみ、痛みをより敏感にさせた。
「…?」
大気中の微精霊たちが騒いでいる。
不穏だ。
精霊たちは気分屋極まれりだ。だからこそ、全ての精霊たちがざわめき立っているのが不気味でならない。
小走りの歩を緩め、あたりに警戒を払う。
物音すらも立てないにし、吐く息すらも最小限にする。
(ああ、なるほどな)
賊の残党がいたわけだ。
俺が殺しきったと思ったが、屋敷の外にも待機していたわけだ。
これは見つかったら不味い。勝てないわけではないが、これ以上、無駄に戦ってもしょうがない。
それに俺は疲れていた。
俺は冒険者でも殺し屋でもない。ただの日雇い下僕だ。それも今日で無職だが。
戦うのは好きではない。
むしろ避けることだと思っている。
腰を低く落とし、影に隠れる。
物音を立てずに、じっとしている。寒い中でも。雪が降る中でも。下手に動くよりずっといい。
幸いなことに俺は精霊にも愛されていないので、精霊たちが話しかけてくる心配もない。
(でも妙だな)
精霊は子供みたいな存在だ。善悪の分別がない。そこで殺しや行われていようと、戦争が始まろうと、そんなことは些細な事に過ぎないのだ。精霊たちのような世界レベルの大きな存在は、そんな命が元素に還る事も、人々の苦しみ等、微風のようなものに過ぎない。
賊がいる事くらいで精霊たちが騒ぎ出すわけがないのだ。
寒さと疲れ、夜という普段は寝ている時間。
俺の瞼は自然と下がっていった。
微精霊のざわめき。空気が一瞬の黄金の火花を散らした。
殴られたような衝撃だった。
閉じかけていた目を無自覚に見開いてしまった。
雪の中に誰かがいる。
フードで顔は隠してあり、わからない。
佇まいが凛としている。
フードの中から靡いた髪は金色。
そしてこの精霊たちの妙に甘い囁き声。それはこの男に向けられていた。黄金の輝きを纏うこの男に。
夜の薄闇の中。真っ白く激しく刺さるような雪の中、この男の周囲だけ、温かく見えた。
この男の周囲だけ…
視線を下に向ければ。
真っ白い雪の山に浮かぶ、おびただしい血と肉の残骸。
才持ちだから、吹雪の中でも、ある程度は見える。
剣は腰に差している。でも持っていない。鞘の中の剣は汚れていない。
倒れている賊は凍傷だ。外傷もある。氷柱が刺さって死んだ。
大きな氷柱。あれは自然にはできない。精霊の仕業だ。
ということは、あいつは精霊使い。
『精霊使い』
精霊と契約をかわしたもの、または使役しているものを指す。
精霊と契約をかわすにしろ、使役するにしろ、精霊に愛されていなければできない技だ。
厄介だな。
この男と戦う気がないが、見つかれば戦闘は避けられないだろう。
この男が倒した賊くらい俺だって倒せる。俺がこの男より弱いとは限らないが…
精霊持ちというのが気に入らない。
認めたくはないが俺には精霊持ち、いわゆる『祝福の子』にある種の劣等感と嫌悪感、侮蔑がある。
あの憎き坊ちゃんも精霊に愛されやすかった。
俺も見えるし声も聞こえるのに、力を貸してくれた事がない。
俺とあいつの何が違うのかが、わからない。
憎さのあまりに歯ぎしりをした。
「…っ」
しまった! 憎悪が視線に出た。憎悪が視線に出てーーー
瞬時に身を隠す。翻した瞬間、背に視線を感じた。
これは…
気づかれた。
馬鹿か俺は!
自分のこういう爪の甘いところが嫌いだ。
地べたの雪から嫌なほど冷たさが伝わる。
怒りのあまり指先に力が入る。
「誰だ、出てこい」
誰が出てくるか、馬鹿が。
「殺す気はない」
殺す気はない、の殺すーーーといい終わるか否や。
衝撃で吹き飛ばされた!
突如として現れた旋風。氷の刃。
俺の「才」がなければ予知できなかっただろう。
熱いものに触れたら、反射で手が引っ込むように、危機本能でその攻撃を回避していた。
吹っ飛ばされるように横に転がった。さっきまで俺がいた場所には、刃物やドリルよりも鋭利な氷の氷柱が地面から、針山のように生えていた。まるで美しい雪の花が開花したように。
「…っ」
なにが殺す気はない、だよ。殺す気しかないじゃないか。
あれの切っ先に触れた頬が時間差でぱっくりと割れた。
痛みも時間差で効いてくる。寒さによる痛みとは、違った鋭い痛みだ。
「ぁぁぁあああああああっ…!!!!」
左腕に激痛が走った。まるで雷光のように。
腕の中から氷の柱が生えていた。まるで花のように、中から氷柱が生えている。
伝染するように皮膚の表面が凍っていく。
爪の先までくると、パキッと爪が弾かれる音がした。
全身が同じように、凍っていく。指の先ひとつすら、自分の思うように動かせない。動かそうと必死になるたびに、ただ痙攣をおこしたように震えるだけだった。
瞼の先の睫毛でさえ、自分の思うように動かせない。
『氷の魔女』あるいは『氷の女王』
ーーー「もっともっと力をあげるわ」
ーーー「これ以上は不要だよ。ーーー駄目だな。力を制御できない」
男と女が呟く声が聞こえてくる。才持ちの俺は、こんなに死ぬ間際の辛い状況でも、微かな呟きを認知できる。
踏みしめる雪の音が聞こえる。こちらに迫ってくる。その優美さは死神そのものだった。
熱がなくて、ただ淡々と仕事をこなすように処理するように迫る。
足音は一人分。
そうか…、と俺は気づく。
女だと思っていた声は精霊だったのか。
精霊の声をこんなにクリアにききとれたのは、はじめてだった。
殺される前の覚醒かもしれない。
死ぬことは恐くない。
死んだらなにも変わらないし、感じない。俺は神を信じない。強いて言うなら、母譲りの精霊主義。
精霊が天へと還るように、わたしたちも天へと還る。
だから恐くない。早く痛みから解放されたかった。
死神が迫る。
死神は腕を前に伸ばし、指先を左右に切った。




