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「あ」

「え?」

 何かを思い出したかのように、川崎が声を上げた。

 保健委員の用事でも頼まれるのだろうか。そう思って、月子は振り返る。保健室で、保健医がいる。白衣を着た川崎が、こっちを見ている。

 だいたい、教師から呼び止められるときは、九割が頼みごと、つまりは雑用の命令だった。担任もそうだし、教科担当もそう。何か面倒なことがあって、近くに月子が通りがかると、ちょっといいか、なんて言って雑用を押し付けてくる。今日もそうかな、と月子は思いつつ、けれど切った指先に貼ってもらった絆創膏のことを思えば、手伝うのもやぶさかではないな、なんて、

「――あたしさ、結構うれしいんだよ」

「はい?」

 思っていたのに、会話は、予想外の言葉から始まった。

「最近、なくしたと思ってた大事なものが戻ってきてさ。いや、別にそれがあたしのものってわけでもないんだけど、成り行きであたしのものってことになってるんだよな。とにかくなくすと結構めんどくさいやつで、それがある日、ひょいっと返ってきたからうれしくて」

「はあ……。よかったですね」

 とりあえず、頷いておく。本当によっぽどうれしかったんだろうな、と月子は思う。普段の川崎は、特に何もないときでも不機嫌に見えるくらいには愛想が悪い。一息以上必要になる会話は、ほとんどしない。こんな風にうれしそうに何かを話すことは、すごく珍しかった。

「でも、」

 川崎は続ける。はあ、と溜息を吐いてから、

「なんか、後味が悪いんだよな」

 はあ、と月子はもう一度言った。何の話だろう、と思っていたら、そういう流れなのか、と。昔からのことではあるけれど、月子は同級生からはほとんど打ち解けた話をされない代わりに、教師たちからは妙に愚痴っぽい話を聞かされることが多い。ゴミ箱か何かと勘違いされてるのかもしれない、と思う。

「まあ、それを盗ったやつにはブチギレたんだけどさ。もう二度とすんなよ、次はブッ殺すぞ、って」

「え、盗まれたんですか?」

「そうそう。でも、それが他のやつのところにまた渡っちゃっててさ。そしたらその子、それを使ってこう、なんつーの? 色々抱えてる子だったんだけどさ、がんばってたんだよ。前向きになって、それ繋がりで友達もできて……、みたいな。逃げ出した飼い犬が、別の家で可愛がられてるのを目撃しちゃったみたいな気分だったよ、これ」

 何を盗まれたんだろう、と月子はそればかりが気にかかった。人から盗まれて、怒ったくらいで済ませる一方で、それを使った人は色々と前向きになれる。見当がつかない。

「結局それを返してくれたのってその子で、わざわざあたしのこと見つけて連絡までくれたんだけど」

「いい人じゃないですか」

「うーん……。それがそうとも言えないところがあって。その子も悪気がないとはいえ、色々それを使って事故起こしててさ。で、友達も巻き込んじゃって、紆余曲折あってあたしのところに返す覚悟を決めた、みたいな感じなんだよ」

「……なるほど」

 車かな、と月子は思った。

 想像される絵面は、とんでもないことになっている。

「でも、それはそれで微妙でさあ。その子、確かに色々やらかしてはいたんだけど、友達と一緒に色々がんばってたみたいで……。友達の方もそうなんだけど、そいつらあたしが前から知ってる子たちだし、前向きになってくれてうれしいやら、やらかされて何とも言えないやらで……」

「複雑ですね」

「そうなんだよ。これでも一応教師だし、子どもの成長を否定するっていうのもなんだかなあってとこで……、で。初風に聞きたいんだけど」

「えっ」

 びくり、と月子は背筋を伸ばした。

 この流れでなぜ自分が意見を求められることがあるのか、さっぱりわからなかった。一体何を聞かれるのだろう。身構えて、

「初風って、結構私の仕事手伝ってくれてるよな?」

「え、あ、はい」

「あたし割とありがとうとか言う方だけど、たまに言ってないこともあったよな?」

「あり……ました、っけ。ごめんなさい、あんまり覚えてな、」

「あったよな?」

「え、じゃあ、あった、気もします」

「よしっ」

 言って、川崎は手を伸ばした。

 月子は咄嗟に目を瞑ったけれど、予想したような衝撃は、当然来ない。ぱふ、と髪の上に柔らかく手のひらが置かれて、

「――え?」

 それだけ。

目を開けると、川崎は妙にすっきりした顔をしている。

「え、あの、なんです、」

「じゃ、あたしちょっと職員室行ってくるから、留守番よろしく」

 有無を言わせてもらえなかった。

 川崎はそれだけ言い残して、するりと月子の横をすり抜けてしまう。え、え、だとか、月子が言って、留守番なんて必要ですか、とか言いかけている間に、保健室の扉は閉められてしまった。

「……なんだったんだろ」

 口にしてから、ハッとした。川崎が出て行ったからといって、この保健室にひとりきりというわけではないのだ。

 カーテンに囲まれた、ベッドがひとつ。

 佐鳥千咲。

 留守番してろ、と言われたからには、大人しく月子は近くの丸椅子に腰を下ろすけれど、やっぱりひとりでいるわけじゃなく、ふたりでいるとなれば、ちょっと落ち着かない。

 ちらちらと、カーテンの方を見る。

 どうしても思う。あれからどうしていただろう。去年、冬頃になればほとんど学校に来なくなってしまったけれど、それから元気だっただろうか。いや、でも元気なわけないか。元気だったらきっと、保健室に毎日来たりはしない。考えながら、懐かしい気持ちになる。保健室に付き添うほんの数回しか会話はなかったけれど、でも、そのほんの数回だって、普段人と話すことの少ない月子にとっては大きなもので、

「――あれ?」

 おかしい。

 月子は指先で、目元に触れる。

 濡れている。とんとん、と抑えるようにして、確かめてみる。

 どんどん、涙が溢れてきていた。

「――え、あれ?」

 月子は戸惑って、立ち上がった。変だった。おかしかった。悲しくはない。どこかが痛いわけでもない。ただ、何か、妙に、

 懐かしかった。

 懐かしすぎて、佐鳥千咲を思うと、切なくなった。

 理由がまるでわからない。自分は佐鳥千咲とそこまでたくさんの話をしたわけではない。知り合い以上、友達未満とか、そんなところで、こんな風に、少し久しぶりに会ったからと言って、泣いてしまうような、そんな大切な相手では――、

 秋風が吹いた。

 月子の髪も、その風になびいて、一瞬視界が塞がる。


 もう一度目を開けたときには、花びらかと思った。


 でも、違った。風に巻き上げられていたのは、紙切れだった。

 たくさんの小さなカード。それが川崎の机の上から、花嵐のように、部屋中に飛び回っている。

「わ、」

 大変だ、と思う。川崎先生ももうちょっと気を付けてくれればいいのに、と思う。どうせ自分がひとりで拾う羽目になるのだ。妙なことで泣いている場合じゃない。とにかく、これ以上の拡散は止めなくちゃならない、と月子は机に近寄る。制服の上着でも被せておこうと、そう思って、

『日頃のお礼 ご自由に』

 そんなメモ書きを見つける。

 日頃のお礼ってなんだろう。肩たたき券かな、なんて月子は予想して、舞う紙の一枚を、指先ではし、と捕まえる。


『好きな人』、と書いてあった。


 それで、すべてを思い出した。

 涙の理由を。失った時間を。

 初めての友達ができたこと。

 これ以上ないくらい、幸せだったこと。

 なのに、お互いに信じ合えずに、傷つけ合ったこと。

 最後の瞬間に、追い詰められた自分がしたこと。自分が、叫んだこと。

 あのとき、自分はこう言ったのだ。

 そんなの、知るか。

「初風さん」

 背中から、声がした。

 聞き慣れた声だった。

 振り向けば、そこにいると、はっきりわかった。

「嘘を吐いて、ごめんなさい」

 震えた声だった。緊張していることが、ありありと伝わってくる。

 自分も同じで、月子は、自分の手首が震えているのを自覚しながら、そのまま立っている。

「私は、友達が欲しかった。自分のことを見てくれて、自分に優しくしてくれる人が欲しかった。でも、自分に自信がなかったから――、自分のことを大切にしてくれる人なんているわけないって、そう思ってたから、自分を偽った。でも、もう嫌」

 目の前の机には、たくさんのカードが置いてある。『電信柱』『アイマスク』『ヘリクリサム』『時計』――、それ以外には、小さな模型も置いてある。スノードームのような、小さな街の模型。水路が張り巡らされた、丸い街の模型。

 よくできました、と付箋が貼ってある。

「何のことか、全然わからないと思う。こんなこと、急に言われても、初風さんは困ると思う。でも、私は、そのままの私で、嘘じゃない私で、あなたに向き合いたい。初風さん、」



――私と、友達になってくれませんか?



 勇気のすべてを込めたような声で、彼女はそう言った。

 色々と、言いたいことはあった。

 だって、月子には、あの日々が嘘だとは思えない。一緒に笑って、一緒に歩いたあの季節を、なかったことにはできない。変わることが、悪いことだとは思わない。人に自分をよく見せようとすることが悪いことだとは、思わない。

 でも、いいのだ。

 違う人間なのだから。違う考えを持っていて、当たり前なのだ。考えが合わなくて衝突したり、失望したり、やっぱり好きだと思い直したり、そういうことを繰り返していくものなのだ。

 それでいいと、月子は思う。

 だからとりあえず、頷いて返そうと、そう決めた。

「月子って呼んで」

「――え?」

 その全部にでは、ないけれど。

「その代わり私は、佐鳥さんのこと、カエデって呼ぶ。あだ名、つけてみたかったから」

「――――」

 ここがスタート地点なんかじゃない。

 始まったばかりの自分たちでは、友達になって、なんて絶対にどちらからも言えなかったと、わかっているから。

 だから、ここがスタート地点なんかじゃないってことを、ちゃんと月子はわかっているし。

 カエデにも伝えたいと、そう思う。

 月子は、ゆっくりと振り向く。

 どんな顔をしているだろう、と思った。

 今のカエデは、どんな顔をしているんだろう。自分の見慣れた顔をしているだろうか。それとも全然見覚えのない顔? どちらでも構わないと、そう思う。もしも見慣れた顔をしていたら、自分も同じ表情で返そう。もしも全然見覚えのない顔をしていたら、これから知っていこう。

 もう一度、続きから始めよう。


「カエデ。――また、友達になろうよ」


 透き通るような瞳で、カエデは月子を見つめていた。

 記憶が溢れるみたいに、紙吹雪。

 ふくらんだカーテンの隙間から差し込む光が、保健室の中のたった一瞬を、永遠みたいに煌めかせて。

 目が合った。

 たった、それだけのこと。

「――うん」

 カエデは笑った。

 月子とは、少し違った表情で。

 次に口にする言葉を、月子は考えた。どうしてたの。私はこうしてたよ。これからどうするの。私はこうしたいよ。いくらでも、言いたいことはあった。

 けど当面のところ、やるべきことは決まっている。保健室に舞うカードたちはすごく綺麗だけれど、どうしたって一枚残らず拾わなくちゃいけないのだから。

 だから、こんなことを。


「拾うの、手伝ってくれる?」



 ずっとそれが言いたかったのだと、思い出したりしながら、月子は言った。




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