吉備の王 八
§ 八 §
六月の半ばあたりから、例年よりも少し早く梅雨の鬱陶しい時期を吉備も迎えていた。
田植えはとっくに終わっていて、昼夜問わず、水田のあちこちから雨蛙や牛蛙の大合唱が沸き起こっている。
長閑な風景であるが、苗を植え替えている農民があちこちに見受けられる。この間の台風の上陸で、折角植えた稲の苗が所々で倒れてしまっているのだ。
元来、この吉備は、瀬戸内海を隔てて南に位置する高く険しい四国山脈が防波堤となってくれるために、台風の被害のほとんど無い地域であった。
あったとしても年に二~三度ほど、風雨(暴風雨ではない)に見舞われる程度のことで、非常に穏やかな天候に恵まれた土地と言って良い。
しかし、今年は有ろう事か六月の早々から台風がやって来て、しかもそれが瀬戸内海を縦断していったのだ。
その台風の到来と大潮とが相まって、浜辺の家屋が海水に浸かってしまう、という被害が出た他、このように水田の苗にも少なからず影響があった。
それは勿論、壊滅的な大打撃、という程のものでは無かったが、そこに暮らす人々の心中を揺さぶるには十分な威力を持っていた。
「もうすぐ新羅が攻め込んでくる。」
「今回の嵐も、その新羅の到来を知らせる神のお告げじゃ。」
「こんな時期に台風なんぞ、今まで一度もありゃせなんだ。」
「奈良からも天孫族とか申す一族が、吉備に乗り込んでこようとしているとか。」
「一体全体、この吉備はどうなってしまうんかの。」
これらの民衆の不安のうねりは、吉備の国主の元にも届けられていた。無論、このうねりを作っているのはトメタマとその部下凡そ百人の仕業である。
彼等は色々な商人の格好をして吉備に入り、商売をしているフリをしながら噂話を流す。百人が同じ話を繰り返し繰り返し半月も流し続けると、それが真実の話のようになって、地元の人々の間を駆け抜けるのだ。
また、本来はその噂話の火消しをしなければならない立場に居たカントであったが、様々な場所でその噂に尾鰭背鰭を付けて、逆に煽っていたのだ。
当然、吉備の国主にもその噂話のことは大げさに報告していた。
一時は奈良からの宣戦布告のことなど忘れかかっていたのだが、事ここに到っては無視する訳にもいかず、イサセリの元に和平の交渉を遣ることにしたのである。
問題はその人選である。
評定の間中、カントが自分で名乗り出て、声高に特使としての自分の正当性を主張していたが、アゾタケとウラの強固な反対にあい、それは適わぬ夢となってしまった。
そうなると、本当はウラが出掛けて行って話を付けてくるのが一番手っ取り早いように思えたのだが、それでは妙に生々し過ぎるので却下。その名代としてサンが。そして、そのサンの付き添いとしてアゾタケが選ばれた。
サンの選出を巡っては、やはりウラが血相を変えて反対していたが、幾度目かの評定の場にサン自身が呼んでこられ、その参加者全員の前で、お引き受けいたします。と、応えてしまったのだ。
それでもウラは何とかサンを思い留まらせようと、その後も必死で説得を続けたが、サンの意志は固かった。
サンにしてみれば、ウラを悩まし続ける事態の決着を図るために、ようやく巡ってきた一大チャンスである。ウラの妻として、これを自分の手で完遂出来るとしたら、正しく本望である。
それが如何に危険に満ちていようとも、ウラと一緒に何かが出来る、という喜びの方が寧ろ大きかったのだ。
とうとう最後にはウラの方が根負けしてしまい、ウラの弟分のデジュを警護役に付ける、という条件でサンの渡航を許してしまった。
デジュは百済と吉備のハーフである。背丈は若干、並の吉備の男よりも大きかったが、顔立ちは温和でどう見ても百済の血筋のものとは思えなかった。
彼の母親が吉備の人間である。元気で逞しい女であったが、デジュを産んでからの肥立が悪く呆気なく死んでしまった。
父親は百済の技術者で、二十年も前から吉備のたたら場で働いていた。しかし、最近は通風が出始めて思うように身動きも取れなくなってきたため、息子であるデジュが頑張らねばならないのだった。歳はサンと同じ、十六歳であったが、妙に落ち着きはらったことろがあり、そしてその境遇のことも相まって、ウラが本当の弟のように普段から可愛がっていたのだった。
このデジュならイサセリたちも妙に身構えたりすることもないであろうし、ウラも何とか安心して任せることが出来る。苦肉の策ではあったが、これに替わる妙案も無かった。
播磨までの旅の準備は、このデジュが全てやってくれた。年はサンと同い年でまだ若いというのに、非常に手際が良いのだ。
また、播磨までの路は、当初海路も検討したが、この間の台風のこともあり、安全をみて陸路を馬で行くことにした。たった一度とは言え、サンも馬は経験したことがある。本当はあの後、ウラに黙ってミョンバからこっそり馬の手解きを受けていたのだが・・・・。
そして出立の日の朝。
ウラは寝床でサンに背を向けたまま、
「気を付けて。」と、言ったきり決して起き上がろうとはしなかった。よほどサンを見送るのが辛いのだ。
そんなウラの頬に軽く口付けたサンは、
「御勤めを果たしてまいります。」とウラの耳元でそっと囁いてから出て行った。
サンが家の外に出ると、既に馬を引き連れたデジュがそこに待っていてくれた。二人は馬に跨るとアゾタケの待つ阿曽郷へと馬を走らせた。
しばらく山を下ったところで、遠く後方のたたら場の方から笛の音が聞こえてきた。しかも今まで聞いたこともないような見事な音色だ。
サンは馬の足を止めて、たたら場の方を振り返った。デジュも同調して止まる。
目を凝らして屏風折れの石垣の上を見遣ると、そこには笛を奏でているウラとミョンバの姿があった。
ただ黙々と一心不乱に笛を吹き続けるウラとミョンバ。
口下手なウラの、サンに対する精一杯の見送りの儀であった。
サンには、そのウラの思いが痛いほど伝わっていた。そして、熱くなる目頭を押さえながら、
「ウラ。頑張ってくるからね。」
と、言って再び馬を走らせた。デジュもそれに続く。
今はとにかく、サンの無事だけを祈ろう―。
このときにウラの胸中には、その思いしかなかった筈である。
「イサセリ殿。どこにおわす?」
播磨のイサセリの仮屋敷の中を、奈良から帰還したばかりのササモリが歩き回っていた。
「おお。ササモリか。何だ早かったな。」と、イサセリの声は聞こえるが、肝心要の姿が見えない。
「どこですかな?」と、再度ササモリが問いかけると、
「ちょっと待ってろ。」と、言うが早いか、空からイサセリが降ってきた。
「イサセリ殿!」と、ビックリしてササモリが言葉を発すると、
「いや、すまんすまん。屋根の上の日当たりの良いところで、ちょっと考え事をしておった。」ま、こっちへ来て座れ、と、自分の居間にササモリを呼び寄せた。
「それで、オヤジはどうだった?各地の戦況の方は。」
早速、イサセリがササモリに問いかけた。
「未だ各地からの甚だしい戦況の報告というのは、届いていないようであります。それよりも、」
と、言ってササモリは一度口をつぐんだ。
「何だ。ハッキリ言ってみろ。」と、イサセリ。
「実は、邪馬台国のモモソ様(卑弥呼)が殺されたようです。」
「何を~?」
これには、さすがのイサセリも驚いた。
モモソと言えば、自分達「倭」連合国が担ぎ上げた女王である。しかもその存在は、遠く中国の魏にまで知れ渡っている。それが殺されたとは何事か?
イサセリはササモリに事情の説明を求めた。勿論、ササモリもミマキから聞いた話である。それ以上のことは判りかねたが、兎に角聞いた情報は全てイサセリに話した。
「そうか、モモソの糞ババアがとうとう死にやがったか。」
と、言って高らかに笑い出した。
これにはササモリの方が面食らってしまった。
「イサセリ殿?」
「ササモリ。これでオヤジは名実共にヤマトの王として君臨出来るって訳よ。カヤナルミ(神功皇后)様々ってとこだな。」
「これはまた、お言葉にご注意頂いた方が、」
「そんなことより、考えても見ろよ。例えオヤジが奈良を中心とした新国家体制を作り上げたとしても、モモソが生きていやがったらどうするんだ?また、奈良にお出まし頂いて我等の頂上にお座り頂くのか?」
ササモリは何も答えられない。
「冗談じゃない。そんなバカな話は聞いたことがない。」
「何で、苦労して手に入れた王の座を、みすみすあの糞ババアに明け渡さなきゃならない?」
「俺はカヤナルミに感謝したいね。これで妙な横槍が入る心配がなくなる。」
成程、そういう見方も出来ますな、とササモリも頷いた。
聡明な若君だ、と、心底感心したのだ。
と、その時である。
廊下を急ぎ足でこの部屋の方に近付いてくる音が聞こえた。
二人の居る部屋のすぐ外で止まったこの足音の主が中のイサセリに呼びかけた。
「イヌカイです。イサセリ殿。」
「おお、イヌカイか。遠慮は要らん。入れ。」
と、言うと、イヌカイが部屋の戸を開けて入ってきた。
「おお、これは軍団長。帰ってお見えでしたか。」
「うむ。つい今しがたな。それより何だ慌てて。」
「はい。」と、イヌカイが廊下と部屋の境に座して話し始めた。
「実は吉備から使いのものが参っております。」
何?と、イサセリとササモリが同時に声を上げた。
「吉備はついに降参か?どうなんだ?」と、イサセリが詰め寄る。
「そこはワカタケ殿が、今その使者の話を聞いているところです。」
「それで、その使者は何者だ。」
「はい。吉備の代表神主で阿曽郷のアゾタケと申すものと、その娘の阿曽姫、それに従者の三人です。」
「アゾタケと姫がここに来ているのか?」イサセリの声が大きくなった。
「お知り合いですかな?」と、ササモリが訊ねた。
「―いや。」
「ワカタケが対応しているのだな?」一旦立ち上がりかけたが、そう言ってまた座り直した。そして、
「後で、ワカタケをここへ呼んでくれ。」とだけイヌカイに命令した。
その後、ササモリの方を向きながら、
「ササモリご苦労だったな。下がって休んでくれ。」
そう言って、ササモリも下がらせた。
応接間では、ワカタケの前にサンが、そしてその後方にアゾタケとデジュがそれぞれ座っていた。
サンは、生まれて初めてみるワカタケの赤色の髪の毛をまじまじと眺めていた。
「僕の髪の毛に、何か付いていますか?」
そう訊ねられてビクっとしたサンは、
「ごめんさない。あなたの髪の毛が余りにも綺麗だったものだから、ついつい見とれちゃって。」
度胸の据わった娘だと、ワカタケもこれには感心した。
「それで、吉備の阿曽郷の姫さまが、今日は何用で参られましたか?」
ワカタケの喋り方は非常に丁寧であった。それは力尽くで国を奪い取ろうとするものの物言いとは、サンには到底思えなかった。
「本日は、吉備の大たたら場の主、百済王ウラの名代として妻のサンが御意見を伺いに参りました。」と、ワカタケの目を真直ぐ見据えて話した。
「成程、それはそれは遠いところご苦労さまです。」ワカタケはサンの一向に一礼した。
「今日はもう日も暮れております。大そうな事は出来ませんが、膳など用意させますので、今晩はどうかゆっくりして頂いて、明日朝からゆっくりお話をお聞きします。よろしいですか?」
「解りました。突然の訪問をお許し下さい。」そう言って、今度はサンの方が頭を下げた。ひょっとして、この男とならキチンとした話が出来るかもしれない、そんな思いが頭をもたげていた。
ワカタケの用意した膳は、豪華極まりないものであった。それに飛び切り旨い酒まで付いたものだから、アゾタケはすっかり酔っ払ってしまった。少なくともここまでは私たちを賓客として扱ってくれている、そういう自覚がサンにはあった。
そして食事が終わると、それぞれ寝室に案内された。
サンがその寝室に入ろうとすると、デジュがこっそり短剣を手渡し、念の為に持っておいて、と、囁いた。
サンはその用意されたフカフカの布団にもぐりこみ、デジュに貰った短剣を枕の下に忍ばせた。
無理に目を閉じてみた。
しかし、あまりに沢山のことが頭の中を飛来して、寝付けるものではなかった。
「ウラ。どうしてるかな。ちゃんと御飯食べてるかな。」
不思議なことに、こんなに興奮していても、ウラのことを考えると心が落ち着いた。結婚してからこっち、と言うよりも、ウラが吉備に着てからというもの、今回のように三日も二人が顔を合わさなかったことなど一度もなかった。
ウラのことをあれこれ考えながら、サンがうとうとしかけた時だった。寝室の戸口に人影が見えた。
咄嗟にサンは枕元の短剣に手を伸ばして、何者か、声を上げるぞ、と叫んだ。
「姫。阿曽姫。俺だよ。忘れたか?任那の兄だ。」と、その人影が語りかけてきた。何やら聞き覚えのある、懐かしい声だ。
「まさか・・・・・、本当にお兄ちゃん?お兄ちゃんなの?」と、言って上体を起こし、枕元の横に畳んで置いてあった上着を羽織った。
「ああ。」と、人影は頷き、そして続けた。
「出てこれるか?話がしたい。」
間違いない。サンが小さかった頃、朝鮮半島の任那に住んでいたことがあった。その頃隣に住んでいて毎日サンと遊んでくれていた「お兄ちゃん」の声である。声変わりはしているものの、その雰囲気は全く変わっていない。
「ちょっと待ってね。お兄ちゃん。すぐ出るから。」
急いで布団から出ると衣服を整え、寝室の引き戸を開けた。
すると、縁側の外に紛れも無く見覚えのある顔が腕を組んで立っていた。
「ほう、姫。えらく美人になったもんだ。」そう言ってニッコリ微笑んだ。
「ここじゃ、声が漏れて拙いから、ちょっと外に出よう。」
そう言って、サンに草履を履かすと、夜道を丘の方に向かって少しばかり歩いた。直ぐに播磨灘を見下ろせる高台に着いた。
男はその高台の上に腰を下ろすと、サンにも横に座るように促した。
「久しぶりだね。お兄ちゃん。」そう言って、サンも男の横に座る。
「こんなところで何してんの?っていうか、どうして播磨に居るの?加耶に居たんじゃなかったの?」先にサンの口から質問がまとめて溢れ出してきた。
「ちょっと待って、落ち着けよ。」と、言って男が続けた。
「ここでは・・・・、アルバイトみないなものかな。それより、姫はどうしてここに?俺ビックリしたよ。だって阿曽姫が播磨に居るんだもん。」
「私はここの責任者の人と話をしにきたの。お兄ちゃんも知っているかもしれないけど、ここの人たち、今度吉備と戦をするつもりみたいなの。」
「私はそれを何とか止めたくて。」と、言ってサンはため息をついた。
一生懸命にしゃべるサンの横顔を、その男は懐かしそうにじっと眺めていた。
「そうか、だけど姫。ここの軍隊はベラボウに強いぜ。戦になったら、吉備も敵うかどうか。」
「そうよね。ウラは大丈夫って言ってるけど、ここの人たちも絶対頑張って攻めてくる筈よね。」その表現の仕方が新鮮で可愛かった。
しかし、サンの口からウラの名が出るのは意外であった。
「ウラ?」
「うん。百済の王子の一人よ。そして、今は私の旦那様。」
「何?!」と、男が目を丸くして大声を上げた。
そんな大きな声を出さないでよ、他の人に気付かれたらどうするの、とサンが注意する。
「お前・・・・、け、結婚したのか?ウラと?」
自分でも驚くほど素っ頓狂な声で聞き返してしまった。
「うん。ゴメンね、お兄ちゃん。私、今になってこんな風にお兄ちゃんに会えるなんて思ってなかったから。」と、言って申し訳なさそうに男の方を見て呟いた。
「お、俺も別に、お前との結婚の約束を本気にしてた訳じゃないけどよ。」
まだ、声が裏返っている。サンは気付いていない様子だが、明らかに動揺している証拠だ。
「そ。なら安心した。」と、ニッコリ笑った。この笑顔が戴けない。恐らく、大抵の男はこの笑顔一発で軽く打ちのめされてしまう筈だ。
「それで、幸せなのか?」バカなこと聞いてどうする?と思ってみたが、仕方ない。口から出てしまった後だ。
「ウラはとっても優しいよ。安心して。」諭すような口調で、男に語りかけてくる。
「ウラたち百済の人たちは、物凄い技術を持っているのに、全然それを自慢したりしないの。勿論ウラもそうよ。」
「いつも吉備の人たちのために、って頑張ってるわ。本当よ。」
「だけど、ここの人たちが攻めてくるって解ったときから、何か妙にテンパっちゃってて可哀想なの。だって、元々喧嘩もするような人ではないんだから。」一生懸命サンが訴えかけてくる。サンのウラに対する愛の深さが言葉の端々から伝わってくるのだ。辛い瞬間である。
「姫はいつまでここに居る?」何とか男がサンに質問した。
「そうね。まだ決めていないけど、二~三日は居る筈よ。」
「解った。今日はもう遅いから、明日また晩に話をしよう。」
「うん、そうね。お兄ちゃんも明日は早いでしょ?早く寝なきゃね。」
そうして、二人は明日の晩も同じ場所で会う約束をして別れた。
サンにとって、今日はとても良い一日であった。何故なら、奈良から進軍してきた赤毛の責任者がとても好印象であったことと、勿論、任那時代に仲良くしていた「お兄ちゃん」に再び出会えたのだから。
次の朝、サンたちは早めに朝食をとり、応接間に案内されていくと、そこには既にワカタケが待っていた。
彼は改めて自分のことを「イサセリ軍の作戦参謀長」であると自己紹介して、早速本題に入った。
「先ず、そちらの御意見を伺いましょう。」と、ワカタケが言うと、サンが少し姿勢を正してからそれに答えた。
「どうして平和に暮らしている吉備を、あなたたちは巻き込みたがるのですか?私たちのことは放っておいて頂けないでしょうか。」
サンが発言をしている間も、ワカタケは一切その表情を崩さない。目元に笑みを浮かべたままだ。
「姫のご質問には、先ず朝鮮半島や魏の情勢のことを説明する必要があるでしょう。」
そう言って、ワカタケはサンたちに日本列島を取り囲む諸国の現在の情勢を、ゆっくりと丁寧に説明してやった。
それはサンにとってもアゾタケにとっても、また勿論デジュにとっても初めて聞く話ばかりであった。
「そんな訳で、今この日本という島国は一つに固まって、朝鮮半島や中国の晋の脅威に備える必要があるのです。」
ワカタケの説明は非常に解り易かった。その説明のどこにも破綻した部分は見あたらなかったが、サンには一つ疑問が生じた。
「出雲のオオナムチ(大国主命のこと)様は、今日本を一つにまとめようと、奈良に新しい都を築いていらっしゃると聞いています。オオナムチ様の構想には、我等吉備の国も賛同申し上げております。それで良いのではありませんか?」
サンは相手が誰であろうと、臆することのない性格であった。
この歴戦の勇者ワカタケ相手に互角に論陣を張っている。
「はい。オオナムチ殿の構想は大変素晴らしいものです。それは我々も十分承知しています。」
「ただ、そこには国防という概念が欠落していました。例えば諸外国から姫の国「吉備」が攻め込まれたらどうしますか?それから準備をする、ということでは遅いのです。解りますか?」
「はい。理解出来ます。」サンの後ろでは、アゾタケが冷や冷やしながら事の成り行きを見守っている。
「そして、その国防という概念の話を、わがオオキミであるミマキ様がオオナムチ殿に申し上げましたところ、新しい国の運営をミマキ様にお任せになる、とオオナムチ殿がおっしゃられたのです。」
「そうなの?」と、サンは後ろに控えている二人に聞くが、二人はそのことについて、勿論何も知らない。首を横に振るばかりである。
「良く聞いて下さい、姫。」と、ワカタケが畏まって続けた。
「我が祖神であるアマテラス様が九州に降りられましたときに、この日本をしっかりと統治・管理するようにとの神勅を受けました。以来、我が一族は九州を中心に、数世紀に亘ってこの日本の平和のみ考え守ってきたのです。」
サンは頷きながら、ワカタケの一言一句を懸命に聞いていた。全て聞き漏らすまいとして、サンも一生懸命である。そして、疑問に思ったことは、その都度全部ワカタケに問い質した。そのやり取りは夕方まで続けられた。
結局、双方の論理は次のように集約されていった。
ワカタケは日本が緊急に中央集権国家作りを目指さないといけない、と説くのに対して、サンは連合国家のままで良いではないか、というものである。諸外国からの「国防」その他、日本全体のことに対する担保はそこに参加する各国から、それぞれ人とお金を出し合って組織を作る、というのである。今の国連とそれに参加する国々のイメージであろうか。
早朝から始められた会議は、昼食を取ることもせずにぶっ続けで行われ、日が沈んだところで翌朝に持ち越されることとなった。
ワカタケは部屋を退出するときにも、丁寧に一同にお辞儀をして出て行った。そしてその夜も昨晩同様豪勢な膳が三人に用意されていた。
アジの干物や鰆の刺身に舌鼓を打ちながら、アゾタケが不意にこんなことを言い出した。
「しかし、あのワカタケ殿の話を聞きながら、こやって旨い料理でもてなしを受けていると、何か彼等の言い分をそのまま受け入れても良いような気がしてくるから不思議じゃの~。」
デジュも同意見なのであろう。その横で白米を口に掻き込みながら何度も頷いていた。
「でもね、父さん、」と、サンが口を開く。
「それで本当に良いのかしら。」
国の運営をワカタケたちに任せてしまえば、確かに後顧の憂いは消えてなくなるような気がする。
しかし、それで果たして良いのであろうか。それで吉備という国が存在している、と言えるのであろうか。
一旦はそのことを口に出して言いかけたが、上手く自分の意見として纏まらなかった。
サンは早々に夕飯を終え、ちょっと出て来る、と席を立った。
どうしても「兄」の意見を聞いてみたかったのである。
外に出てみると、今にも泣き出しそうな雲行きではあったが、雨が降っている、という訳でもなかった。
急いで昨晩訪れた高台に上って行ったら、果たして「兄」は既にそこに居た。地べたに寝そべって、大鼾をかいていたのであった。
不思議なことに、この「兄」の側にいると、ウラと同じような安心感が漂ってくる。折角気持ちよく寝ているのに、起こすのもどうかと思い、サンはそのままその「兄」の寝顔を眺めていた。
三十分くらい経ったであろうか、大きな欠伸と共に「兄」が目覚めた。何だ来てたのか。起こしてくれればよかったのに。と言って上体を起こしてきた。
「余りにも気持ちよさそうに寝てたから、起こすのが申し訳なくって。」と返すサン。
そして、今日のワカタケとのやり取りをその「兄」に報告して意見を求めた。「兄」はサンの言うことを一部始終聞いていた。
そして、サンが言い終わったと見るとゆっくり口を開いた。
「姫、ようく聞いてくれ。」
「この際、ウラのことはきっぱり忘れて、お前はこの播磨に残るんだ。」
何を言い出すのか、という目でサンが「兄」を睨む。さっきまでの和やかなムードが一転険しいものとなった。
「何?どういうことなの?」
「姫は信じないかもしれないけど、戦になれば吉備に勝ち目はない。それに、ワカタケの言うことが俺も正しいと思っている。日本を取り囲む情勢を、吉備一国の都合だけで変えることは到底出来ない。」
「判っているわよ。そんなこと。」ムキになって切り替えそうとする。
「ウラのことは忘れて、俺と今すぐ結婚しろ、何て虫のいい事は言わない。だけど、今の状況が少し好転するまで、お前だけでもここに残れ、それがお前の為だ。無理に危険な環境に身を投じることはない。」
「信じられない、お兄ちゃん!」
「私は吉備の特使としての立場でここまで来ているのよ。私の帰りを吉備の皆が首を長くして待ってくれているの。」
「それを、全て裏切って、一切知らん振りして、ここに残れとアナタは言うの?」
ゆっくりと頷く「兄」。
「繰り返すが、それがお前の為だ。阿曽姫。」
と、さっきまで何とかもっていた雲行きであったが、ポツポツと雫が落ちてきた。そしてそうこうしている内に、一気に本降りになってしまった。
「これはいかん。風邪をひいてしまう。」
二人は腰を上げた。サンはまだまだ話し足りない気持ちで一杯であったが、既に頭のテッペンから足のつま先までずぶ濡れになってきている。
「兄」がサンの肩に手を置いて語りかけた。
「いいか。これは俺の最後のお願いだ。全て忘れてここに残れ。」
「もし、お前に国を捨てる覚悟が出来たら、俺も国を捨てても良い。」
きっとだぞ、それだけ言うと「兄」は踵を返して走り去ってしまった。
「待って、お兄ちゃん。」
この言葉が喉まで出掛かっていたが、吐き出すことは出来なかった。
どうやって寝室まで帰ったのかも思い出せないくらい、サンは打ちのめされていた。その頬をつたっているのが、雨なのか涙なのかも判別は付かなかった。
濡れた衣服は全て脱ぎ去り、寝具に着替えて床に就いたが、梅雨独特のジメジメとした空気が、サンを眠気から遠ざけていた。
或いは先ほどの「兄」の態度が頭からこびり付いて離れないからか。
サンはこの夜、一晩中床の中で寝返りを繰り返していた。
翌朝は一転、梅雨の中晴れで見事な青空が播磨灘に広がっていた。勿論、サンの気持ちとは裏腹にである。
ふぁ~、と大欠伸が立て続けに出て来る。目も真っ赤だ。
「どうした、その顔は。寝てないのか。」と、デジュが心配そうにサンの顔を覗き込んできた。
「うん、ちょっと考え事をしてたら、朝になっちゃった。」
朝食もそぞろに、応接間でワカタケの到来を待つサンたち。
すると、昨日の時刻よりも随分送れてワカタケが入ってきた。
「おや、阿曽姫。大丈夫ですか?具合が悪そうですが。」
「いえいえ、お気遣いなく。大丈夫です。」
誰が見ても大丈夫ではなかった。目は真っ赤に充血し、その目の下には隈まで出来ていたのだから。
一転、厳しい顔つきになったワカタケが喋り始めた。
「たった今、我が方の軍事評定を行ってまいりました。」
「私はその場で決定したことを、阿曽姫並びに皆さんにお伝えしなければなりません。」
「我が軍は、今日からちょうど一週間後に、吉備に向けて出陣します。」
これには、サンもアゾタケも言葉が出なかった。
ここにはイサセリの軍隊との戦を避ける為の話し合いにきているのであって、よもやこのような報告を聞くためではない。
「私としては、皆さんとの話し合いを続け、こちら側の真意をもう少し理解して頂きたかったのですが・・・・・、」
「残念です。」
「ちょ、ちょっと待ってよ。そんな一方的な。」
やっと、サンが口を開いた。
「まだ、昨日の今日じゃない。どうして急に変わってしまうの?」
「申し訳ありません。評定での決定としか、私の口からは言えません。」
「それと、皆さんの身柄ですが、」
「もし抵抗が無ければ、このままここに留まり頂く様、主から伝言を言付かっております。勿論、皆さんの身の安全は、私が保証いたします。」
その言葉にキっと目を剥くサン。
「何よそれ?誰よ、その主って。」
「我がヤマト国のオオキミのご嫡男、イサセリ様でございます。」
「お願い、ワカタケ様。そのイサセリ様に会わせて。」
サンは今度は懇願するようにワカタケに言った。
「それはなりません。固く禁じられておりますので。」
「のぉ、ワカタケ殿、これはワシからも頼みもうしまする。何とかイサセリ殿に会わせてやってくれまいか。」と、アゾタケも抵抗を試みる。
しかし、ワカタケの意志に変化の兆しはなかった。
―私たちは一体何のためにここまでやってきたのか。
―あの優しいウラと喧嘩までして、ここまでやって来たのに、
サンの気持ちの中に、フツフツと巨大な憤りがこみ上げてきた。
そしてその思いが頂点に達したとき、ついにサンの口から怒声となって現れた。
「馬鹿にするな!」正座をしたまま、姿勢は崩していない。しかし、それだけに逆にサンの声には凄みがあった。肩がブルブルと震えている。
「吉備を馬鹿にするな!」
「私たちを馬鹿にするな!」
「これがあなた方の正義か?」
「お題目は昨日、嫌と言うほど聞いた。しかし、あなた方は最初から私たちと話し合いをするつもりなど無かったのだ。」
「私たちを馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
後ろからアゾタケがサンの着物の端を引っ張って制そうとするが、サンの方は気にも留めていない。
「あなたは昨日、私たちに国を説いた、法を説いた。」
「しかし、一番大事なところをあなた達は理解していない。」
「何のための国か。何のための法か。」
「そこに暮らす人々の幸せを反映するものでなければ、国も法も要りはしない。単なる詭弁にしかすぎない。」
「よく考えてみて。国のために人が居るんじゃないの。そこに暮らす人のために国があるの。」
「あなた方が、日本という国を守るために我々に戦いを挑んでくると言うのなら・・・・・、」
「私は吉備の人たちのために、大事な人の為にあなたと戦います。」
キッパリと言い切った。ここまではっきり言われてしまうと、ワカタケも何も言い返せない。
「判りました。イサセリ様にはその旨伝えておきます。」
と、言って深々とお辞儀をした。
そのワカタケのお辞儀が終わらぬ内に、
「父さん、デジュ、帰ろう。」と、言ってサンは立ち上がってしまっていた。
アゾタケは、お辞儀をしたままのワカタケの方に向き直って、
「ワカタケ殿、貴殿の心根をワシは理解しておるつもりじゃ。そして、この不毛は戦いを何とか回避してもらえる様、ギリギリまで頑張ってみてくれ。」と、伝えると、デジュを促して立ち上がり、サンを追って応接間から一礼して出て行った。
三人が出ていって、暫らくしてからゆっくりとワカタケは頭をあげた。サンに言われた最後の一言が、重く胸に圧し掛かっている。
―自分はこれから、あの人たちと戦わなければならない。でもそれは何の為の戦いなのか。
勿論、この問いに答えはない。誰も答えられないのだ。
そして、所詮戦争など、その程度の虚しいものなのである。
サンたち三人を乗せた馬が、播磨のイサセリの陣から離れていく。
高台の上からは、イサセリがその光景を見詰めていた。
「阿曽姫、無事でな。」